Sunday, October 17, 2010

国際法が他者と出会うとき(1)

阿部浩己『国際法の暴力を超えて』(岩波書店、2010年)

http://www.iwanami.co.jp/search/index.html

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「国際社会のあり方を規定してきた国際法.その価値中立的な装いの下には,先進諸国が主導する国際秩序を正当化し,そこからはみ出すものを排除する暴力性(欧米中心主義)が隠されている.排除されてきた「他者」(女性,「南」,民衆……)の視点から国際法を読み直し,真に自由な社会の構築を模索する.」

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待望の1冊です。

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国際人権法研究者で、人権NGOの現場において理論と実践の関係を問い直してきた阿部浩己さん。女性国際戦犯法廷にも協力し、イラク国際戦犯民衆法廷(ICTI)の裁判長もつとめ、深い思索と鮮やかなメッセージを市民に送り届けてきた阿部浩己さんの最新刊は、国際法研究者だけでなく、平和や人権に取り組む市民にとっても非常に有益な必読書です。

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<著者紹介>

1958年伊豆大島生まれ.早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得.現在,神奈川大学法科大学院教授,国際人権NGO「ヒューマンライツ・ナウ」理事長.専攻は国際法・国際人権法.
主著に『人権の国際化―国際人権法の挑戦』(現代人文社,1998年),『国際人権の地平』(現代人文社,2003年),『抗う思想/平和を創る力』(不磨書房,2008年),『戦争の克服』(共著,集英社新書,2006年),『テキストブックス国際人権法[第3版]』(共著,日本評論社,2009年)など.

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<目次>

http://www.iwanami.co.jp/search/index.html

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国際法への眼差し――序にかえて

1 国際法の誕生/2 戦争法規に見る「原罪」/3 普遍化と人間化の実相/4 よみがえる亡霊/5 「他者」と出会う意味

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◆第 I 部 国際法の「原罪」としての暴力性

第一章 「人間」の終焉――国際法における〈再びの一九世紀〉

1 テロリズムという記号が動員されるとき/2 弛緩する拷問禁止規範――「非人間化」の力学/3 消し去られる「彼ら」,生き残る「私たち」/4 「北」に覆われる世界の風景――変容する自衛権,改変される人権法/制度/5 リベラリズムと一元化の力学/6 国際人権法の可能性

第二章 愚かしき暴力と,国際人権の物語

1 ヨーロッパの野蛮から/2 真理の体制/3 「不条理な苦痛」を生み出すもの/4 沈黙を招喚する

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◆第II部 招喚される他者――女性,第三世界,民衆,過去

第三章 ジェンダーの主流化/文明化の使命――国際法における〈女性〉の表象

1 真理の体制と国際法言説/2 〈女性〉の表象をたどる/3 主流化の深層/4 フェミニズム,国際法の使命

第四章要塞の中の多民族共生/多文化主義――なぜ「過去」を眼差さなければならないのか

1 豊かさの暴力/2 非EUの創出/3 定住外国人の処遇/4 過去を眼差すこと

第五章新しい人道主義の相貌――国内避難民問題の法と政治

1 国内避難民問題の創出/2 難民としての国内避難民/3 発生原因の封じ込め/4 二分法のレトリックとリアリティ/おわりに

第六章グローバル化と国際法――「人権戦略」の可能性

はじめに/1 トランスナショナル人権訴訟の広がり/2 米国法の正統化過程?/3 市民益の増進/4 民衆法廷

第七章戦後責任と和解の模索――戦後補償裁判が映し出す地平

はじめに/1 国家中心思考と人間の位置/2 時空を超える正義の相貌―Intertemporal からTranstemporal へ/3 法廷の中の出来事/4 戦後補償裁判を超えて

海賊と,国際法の未来――終章

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<以上、目次>

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 私は、著者にイラク国際戦犯民衆法廷の裁判長を引き受けてもらったり、つい先日、「非国民入門セミナー そしてみんな非国民になった!?」に登場していただいたり、と、借りがあるから言うわけではありません。本書は、もともと国家の国家による国家のための法であり、帝国主義の法体系であった国際法が、その枠組みに「非―国家的なるもの」を取り込まざるをえなくなり、著者の言葉では、「他者」に出会うことによって国際法自体が変容を遂げてきたことを踏まえて、近年の国際人権法の展開を手がかりに、さらに国際法を開いていくための思索と提言が盛り込まれています。だから、とても重要なのです。

著者は、「善きタテマエにこだわること」との小見出しで、次のように述べています。

 「暴力に彩られたその歴史的形相を想起するのなら、国際法を無条件に世界に平和をもたらすものと思い込むことだけは避けなくてはならない。図らずしてその暴力性に加担することになってしまうおそれが小さくないからである。国際法を差し向ける側にではなく、差し向けられる側に身を置いてその効能を捉え直してみるとよい。

 むろんだからといって国際法を遠ざけよ、などというつもりはない。大切なのは、国際法の暴刀性の契機を見据えたうえで、この法のもつ社会変革機能を最大化する途を探っていくことである。どれほど暴力性を抱え込んでいようとも、現段諧の国際法が人間間・国家間の平等、そして人間の尊厳を最大の理念として打ち立てていることは紛れもない。脱暴力を求めていることも確かである。この「善きタテマエ」に徹底的にこだわり、その恨幹を劣化させようとする潮流に正面から対特することがまずもって肝要である。

 そのうえで、国際法全般を暴力の契機から解放していくために欠かすことができないのは、なにより、国際法自体が排除してきた「他者」の視点に寄り添っていくことである。国際法の他者とは、国際法の保護から排除される者であり、それゆえ、この法のもつ暴力性を最もよく実感でさる者といってよい。他者の声を聴き、閉ざされた国際法の境界を引き直す。その絶えざる営みによってのみ、国際法は暴力から自由な社会の構築に真に貢献できるものとなっていくのだろう。」(15頁)

 この一文だけでも著者の方法意識が浮かび上がってきます。

 著者とは逆の思考様式を見てみるとよくわかります。

最近、眼にした事例でいえば、尖閣諸島をめぐる日中の領土問題について議論したがる人たちが、日本政府の主張を批判してあれこれと述べた後に、最後になって突如として、「日本政府の主張は帝国主義の主張に過ぎない、こんな主張を支える国際法そのものがナンセンスだ」と叫んで、議論を投げ出します。(日中の領土問題がどうかは、ここでは関係ありません。国際法についての認識の仕方が問題です。)こうした議論の萌芽は井上清の『「尖閣」列島』でしょう。最近でも井上清の議論は説得的だなどと持ち上げる人たちがいます。しかし、領土問題に関する主張の当否は別として、この議論は「酔っ払いおじさんのちゃぶ台返し」でしかありません。近代世界において国家の領土問題を議論するならば、国際法と国際政治の力学に依拠せざるを得ません。だから議論をしているのに、ちゃぶ台をひっくり返しても、そこから何も出てはきません。他人を帝国主義だなどと非難していますが、そもそも領土問題を議論している自分が実は帝国主義の土俵に乗っていることを見失っています。都合の良いときは国際法を持ち出しながら、都合が悪くなると国際法を非難する姿勢です。これでは何も解決できません。

これに比して、著者は、国際法の限界を見定めながら、いかに国際法を開き、脱構築するのかを論じています。現実の世界に「普遍的に」「実効的に」存在しているのは、いやでも、国際法だからです。

それでは著者の言う「他者」とは何でしょうか。