Friday, October 22, 2010

国際法が他者と出会うとき(2)

『国際法の暴力を超えて』(岩波書店、2010年)の著者は、「歴史の方向性」という小見出しのもとに、次のように述べています。

 「国際法の他者を想像するには、国際法によって実現されなかったこと、あるいは国際法が排除し、断絶してきたものに関心を寄せるのがよい。国際法の教科書や論考に「客体」として名を連ねるにすぎないか、あるいはまったく登場しない事どもに思いをめぐらせ、それらを国際法のアリーナに招喚するために知恵を絞る。そうして、現行国際法の解釈を変え、その構造的変革を求めていくのである。

 招喚すべき候補をあげるとすれば、「南」(象徴としての第三世界)が真っ先に思い浮かぶだろうが、このほかにも、たとえば「過去」や「民衆」といったものも代表的な他者にほかならない。現行の国際法は、過去に起きた無数の不正義の上に成り立っている。だが、「慰安婦」訴訟など戦後補償裁判はもとより、日本における空襲被害者や原爆被害者が半世紀以上の時を経て立ち上がる様を見るにつけ、過去を法の場でもきちんと弔わぬかぎり、現在にも未来にも真の平和はないとの思いを強くする。植民地支配の過程で同化と排除を余儀なくされた先住民族の尊厳回復もこの文脈で語ることができる。

 また、国際法は一貫して政策決定エリート主導で組み立てられてきた。排除されてきたのは民衆たちである。特に「南」の民衆がそうであろう。国際法の暴力性に日々直面せざるをえないそうした民衆の中から、だが近年、大きな声があがり始めている。二〇〇一年にブラジルのポルト・アレグレで始まった世界社会フォーラムに代表される、新しい社会運動の台頭である。無秩序なまでのダイナミズムを随伴して躍動するこの世界的運動は、社会変革への民衆の関与の度合いを漸進的に高め、国際法をそのためにいかに動員すべきかについて考究する実践的契機に転化しつつある。差別的眼差しに領導された民主化・市場化に資するためではなく、その土地土地で生を営むに人間たちの抵抗を支える法言説として、国際法に生命を吹き込む重要な契機が広がっている。」(16~17頁)

 著者はこうした問題意識に基づいて書かれた諸論文を1冊にまとめています。

 その方法論は、法の中立性・客観性を問う批判法学と、国際法の西洋・欧米中心性を告発する第三世界アプローチ、そして、ジェンダーの視座を全面的に提示するフェミニスト・アプローチです。

 著者は国際法を徹底的に批判・吟味しますが、国際法を単純に否定するようなことはしません。国際法を単純に否定すれば、赤裸々な暴力支配に道を開くことにしかならないからです。近代国際法は、諸国家による国家のための「国家・間・法」です。国際法は、国際政治の暴力にからみあいつつ、暴力に依拠しつつ、しかも同時に、その「法」という性格からして、暴力を規制する働きもします。もちろん、暴力を規制するという、その作動もまた、国家権力の都合によって左右されます。

 それでもなお、国際法に代わりうる存在があるわけではありませんから、国際法の機能を転換させること、国際法の内実に「南」を織り込み、「南」による国際法に作り変えていくことが目指されます。

 私はこれまで仲間とともに、民衆法廷運動に取組み、無防備地域宣言運動に取り組んできました。『民衆法廷の思想』『民衆法廷入門』参照。また、戦争犯罪論についても『人道に対する罪――グローバル市民社会が裁く』という形で、国際人道法の換質を唱えてきました。国家による国際法から、市民社会による国際法へ。これと共通した問題意識で、はるかに理論的かつ包括的に論旨を展開しているのが阿部さんです。