東日本大震災とそれに続く原発事故をめぐって、原発推進派と脱原発派の論争が続いています。原発の危険性、総合的エネルギー政策の必要性、節電の不可避性(私たちの暮らしそのものの見直し)など、さまざまな議論が続いています。菅直人首相の決断による浜岡原発の停止、その後の玄海原発再稼働をめぐる顛末は「原発問題の科学と権力」の実態を垣間見せることになりました。
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憲法から考える
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原発問題をめぐる憲法論は、環境権(憲法第13条、25条)の土俵で論じられてきました。原発なしで、持続可能な環境で暮らすことを求める議論です。それに加えて、平和的生存権の視点からも検討を加えることはできないでしょうか。日本国憲法前文の平和的生存権自体は、主として戦争と平和とう文脈で語られていますが、それだけに限定して論じなければならないというわけではないでしょう。「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という場合の、「恐怖と欠乏」が戦争だけをさすと理解する必要はないからです。
ところで、憲法前文冒頭に「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」という一文がありますが、「われらの子孫のために」に注目するべきでしょう。
同様に、憲法第11条は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」としています。さらに、憲法第97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」としています。「われらの子孫のために」「将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利」を保障しようというのです。
そうであれば、メルトダウンのような破局的な事故を起こすだけではなく、数十万年も後にまで使用済核燃料の保管を必要とするような原発を正当化することは困難というべきでしょう。「原発は日本国憲法に反する」とまでは言えないかもしれませんが、「原発は日本国憲法の精神に反する」と言うことができるのではないでしょうか。
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平和への権利から考える
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先に紹介したように、国連人権理事会では平和への権利国連宣言をめざして議論が続けられています。本年4月1日には人権理事会諮問委員会が中間報告書を提出しました。6月17日、人権理事会は、諮問委員会中間報告書を受けて、さらに議論を進めて、2012年6月の人権理事会に国連宣言草案を提出するように諮問委員会に要請しました。
人権理事会で議論している平和への権利は、日本国憲法の平和的生存権と必ずしも同じ概念ではありません。平和教育の権利、市民的不服従など多彩な内容を含んでいます。平和への権利の議論をリードしてきたNGOが2010年12月に採択したサンティアゴ宣言第3条「人間の安全保障、及び安全かつ健康な環境で暮らすことへの権利」では、「すべての人民及び個人は、安全で健康的な私的・公的環境において生存し、国家主体・非国家主体のいずれから生じるものであるかを問わず、いかなる身体的・心理的暴力の行為又は脅威からも保護される権利を有する」、「欠乏からの自由は、持続的発展に対する権利、及び経済的・社会的・文化的権利、とくにつぎのものの享有を含む。(a) 食料、飲料水、衛生、保健、衣服、住居、教育及び文化への権利」としています。「欠乏からの自由」の内容が示されています。
さらに、サンティアゴ宣言第4条「発展及び持続可能な環境への権利」では「平和への人権と構造的暴力の根絶を実現するには、あらゆる人権及び基本的自由が完全に行使されうるような経済的・社会的・文化的及び政治的発展に寄与し、その発展を享有する権利と並んで、その発展に参加する不可譲の権利を、すべての個人及び人民が享有することが必要である」、「すべての人民及び個人は、平和及び人類の生存の基礎としての持続可能で安全な環境において生存する権利を有する」としています。
このように考えると、原発は「安全で健康な環境」を損ない、「生存の基礎としての持続可能で安全な環境」を害する巨大システムであると言えます。ひとたび事故を惹起した場合には明らかに「構造的暴力」となるばかりでなく、仮に無事故であったとしても、「持続的発展」を阻害し、「経済的・社会的・文化的権利」をも歪めるものであると考えられます。
私たちは、原発問題を契機に、文明、科学、人間、自然の連関について改めて根底から考えなおす必要があります。人間は核と共存できるのかどうか、いま一度自らに、友人に、家族に問い返す時ではないでしょうか。
『友和』670号(日本友和会、2011年8月)