大江健三郎『遅れてきた青年』(新潮社、1962年)
1960年から62年にかけて『新潮』に連載され、62年1月には単行本になっている。60年安保直後の作品である。大江がどこかで「タイトルだけは有名な作品」という言い方をしていたが、たしかに初期大江作品の中ではとりわけ有名な作品だろう。しかし、どれだけきちんと読まれたかは、必ずしも判明しない。この時期、第1に、大江は『青年の汚名』の「後記」に書いたように、文学の在り方を模索していた。第2に、60年安保に直面して、若者代表としての政治的発言に力を入れざるを得なかった。第3に、2年後には『個人的な体験』でもう一つの方向転換をする。そのため、発表当時は文字通り代表作になるはずだった本作品は、タイトルがあまりにも有名であるにもかかわらず、大江の代表作とはみなされなくなっていった。
私も『遅れてきた青年』には、あまり強い印象を持っていなかった。理由は簡単である。たまたま、3年後の『万延元年のフットボール』を先に読んだからである。初期の代表作であり、いまなお大江の代表作の一つである『万延元年のフットボール』の印象が強すぎて、完成度が高いとは言えない『遅れてきた青年』の評価があまり高くないものとして記憶されたからである。私にとっては『万延元年のフットボール』のインパクトが最大級のものであった。
「遅れてきた青年」の意味は、本書では二重である。第一部では、1945年夏の「地方」の少年が「立派な少国民」として戦争に行くはずだったのに、戦争が終わってしまい、「戦争にまにあわない」事態である。主人公は、敗戦後の村に米軍がやって来て起きた事件に遭遇し、続いて地方都市で「なお戦争を戦いぬこうとしている兵隊」がいることを知り、「戦争はこれからはじまる」と歓喜に震えて、そこに参戦するべく友人と一緒に家出をするが、教護院に収容される。
第二部では、195*年の東京を舞台に、教護院出身ながら東京大学に入学してエリートの仲間入りをした主人公が、左翼党派内の「スパイ」と疑われ、拷問された事件を、保守派政治家との協力によって国会証言をすることで「報復」するが、自らも精神的破綻に追い込まれていく。最後に、作品全体が「北海道の旧ロシア正教僧院の精神病院」において書かれた「手記」であることが明かされ、「遅れてきたものの自己弁護」と呼ばれる。主人公はいったい何に「遅れてきた」のか。戦争に遅れ、安保闘争に遅れ、ポスト安保の安逸な時代精神に遅れたのだろうか。その答えは本作品にではなく、その後の大江文学全体に待たなければならない。