鵜飼哲『ジャッキー・デリダの墓』(みすず書房、2014年)
ジャック・デリダ没後10年、デリダの弟子であり、友であり、翻訳者であり、デリダとともに語り、デリダと対話し、デリダ亡き後にデリダの問いを問い続けた著者による「デリダ論」である。と、このように書いても、適切な表現とはなりえないし、著者は本書を「デリダ論」とは呼ばないだろう。著者は自分の著作にデリダについての著作であることを示すようなタイトルをつけることを考えていなかったが、編集者の依頼を受けて「デリダ」の名を冠しつつ、ジャックではなくジャッキーを採用した。その意味は本書に記されている。
本書を読みこなす能力は私にはないが、ともあれ最初から最後まで活字を追いかけて、あれこれ夢想してみた。著者らによる翻訳で『ならず者たち』や『友愛のポリティックス』を読んだことを思い出しながら、鵜飼哲という一人の思索者が、デリダの言葉を反芻しながらパリの街路をさまよっているであろう姿を。
著者には、ヘイト・スピーチをめぐる講演会や、フクシマ原発事故を問う民衆法廷の場で、実に多くを教えられた。『抵抗への招待』や『主権のかなたで』における思索がそうであるように、著者の語りは明晰でありながら晦渋であり、軽快に疾走しながらブルドーザーのごとく迫力をもって驀進する。鋭利な刃物と思うと実は巨大なナタのごとく周囲を切り払う。練り上げられた言葉の随所に反転が装備され、無数の見えない補助線が引かれる。博識ぶりに圧倒されるが、著者の魅力は博識ではない。デリダの友であり続ける著者は「日本のデリダ」ではなく、常に変貌し続ける鵜飼哲であるだろう。現代日本に生き続ける私たちが考えるべきことを考えさせる哲学を開示する本書を、来たるべき永遠のレジスタンスのレッスンとして、私は読み返すことにしよう。