Friday, June 13, 2014

大江健三郎を読み直す(21)青年たちの革命の挫折

大江健三郎『青年の汚名』(文藝春秋社、1960年)                                                          
60年安保闘争のさなか、1960年6月に本書は出版された。前月の5月出版の『孤独な青年の休暇』に付した「後記」において、大江は「この一年間は、私の内部の中短篇形式にたいする予定調和信仰のごときものを打ち壊す一年間でもありました。/私は、主に自分自身のために、あるいは達成したい自分自身の文体のために、次の一年間をつうじて、月刊雑誌に発表する目的でない中短篇の習作を行いたいと考えています」と書いている。激動の時代に直面し、若き作家として積極的に政治的発言も行っていた大江は「自分自身の文体」を模索しながら、中短篇作家から長篇作家へと自らを鍛え上げ始めていた。そうした時期の長めの中篇の一つとして本書を理解することが出来るだろう。「青年」や「同時代」が大江のキーワードだった時期の初めにも位置する作品でもある。                                                  
日本の最北端、稚内の近くの海に浮かぶ荒若島という架空の島における権力であり、鰊漁の差配人である鶴屋老人と、権力に反抗し、島の近代化を訴える青年たちとの抗争の物語である。日本政治の縮図を描いたと言えないこともないが、60年安保を意識したと言うよりも、むしろ表題通り「青年」の苦悩と闘いを主題としたと見た方が良いだろう。第一の特徴は、後の大江作品の「場」となる四国の森の奥からもっとも遠い、北海道の架空の島を舞台としていることである。第二に、消え去った荒若アイヌの伝承と伝統が濃い影を落としていることである。それゆえ、文化人類学的な知見をふんだんに採用している。とはいえ、後の山口昌男の世界とは異なる。若き大江ががむしゃらに勉強して、様々な試行錯誤を繰り返していた時期の作品と言えよう。                                                       

北海道出身の私は学生時代に図書館で本書を手にし、大江作品らしからぬ舞台設定や物語の進行にいささか戸惑いながらも、歓迎しながら読んだように記憶している。青年たちの革命の挫折と、鶴屋老人の死、それにもかかわらず、島の網元衆は新しい長老を選び、新しい若者代表の荒若を指名するかもしれないと言う終わり方に不満を感じた。大江文学の形成過程に位置づけるという問題意識などまったく持たずに読んだのでやむを得ないだろう。