Friday, April 07, 2017

大江健三郎を読み直す(79)まだ生まれて来ない者たちに

大江健三郎『取り替え子 (チェンジリング)』(講談社文庫、2004年[講談社、2000年])
若干の中断の後に久しぶりに公刊された長編小説『宙返り』の翌年に、つまり大江にしては珍しく立て続けに公刊されたのが本書である。しかも、義兄にあたる俳優・映画監督伊丹十三の自殺を契機に書かれた作品であることから、「モデル小説」として大きな話題になった。長年にわたって息子・光を中心に、家族をモチーフにした作品を送り出してきた大江だが、伝統的な意味での私小説や「モデル小説」ではない。本書も「モデル小説」というわけではない。伊丹十三の自殺の真相や深層、それ以前の人生のあれこれを描いた作品ではない。大江流のデフォルメ、換骨奪胎、想像力により、映画監督の吾良と作家の古義人の青春を舞台に、戦後の四国の森の中でおきた事件を描き出し、それによって戦後日本史を問う作品である。
もっとも、前半は、吾良の死にうつ状態となった古義人の暗鬱な精神状態、吾良が残したカセットテープを聞く日々、妻(吾良の妹)との対話が描かれ、そしてドイツに出かけてからの様子が続き、読者はかなり待ちぼうけをくらわされることになる。古くからの大江の読者にはこれで良いだろうが、新しい読者には冗長な作品と映るだろう。
文芸評論家の高原英理は、第六章までと終章の趣の違いに触れ、「この終章こそが独立した短編であって、序章から第六章までの七章分はいずれもこの短編を成立させるための長い参照部あるいは注釈ではなかったかということだ。語ろうとして語れない、いや、しようとするならいくらでも他者の興味に応え満足ゆくように語れそうなのに、実際に語りだせば『了解』という帰結からどこまでも遠ざかってしまう感触をどうにか伝えるべき必要が、センダックの絵物語によって呼び起こされた、これはそうした小説ではないか。」という(『早稲田文学』6号)。
取り替え子というタイトルは、死者に対する思いから再生へと向かうに至る大江の主題に即して、まだ生まれて来ない者たちへの新生の希望を表している。