安彦良和『革命とサブカル――「あの時代」と「いま」をつなぐ議論の旅』(言視舎)
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アニメの「機動戦士ガンダム」や、「クルドの星」「虹色のトロツキー」「ヤマトタケル」などの漫画家の安彦良和が、弘前大学全共闘に関係した人々(連合赤軍、安田講堂占拠、演劇集団)等にインタヴューした記録に、安彦自身による時代評論を加えた1冊である。
全共闘世代を世代論として語ることには疑問があるが、時代を揺さぶった大事件続出の世代だけに、当事者たちの記録、回想、手記はなるべく読んできた。本書もその延長で、いちおう読んでおこうという程度の関心で読み始めた。
冒頭で驚いたのは「思えば、我々の世代も寡黙だった。」という一文である。全共闘世代ほど饒舌な世代はない。時代のことも自分たちのことも、当時も後も、ひたすら語ってきたし、時代の中での位置づけも、評価も、他の世代による位置づけを押しのけて、ひたすら自分たちで評価してきたのが全共闘世代だ。にもかかわらず、安彦は「寡黙だ」という。何か特別な意味合いがあるのかと思いながら読み進めると、安彦は、植垣康博、永田洋子をはじめ、全共闘世代の主だった著作をほとんど読んでいないという。自分の無知を棚に上げて、「寡黙」と決めつけて話を始める。まさに、これが全共闘世代だ、と言いたくなる(笑)。
全共闘世代の自己正当化にはいろいろなパターンがあるが、主なものは2つにまとめることができる。
第1は、あんなにひどかったが問題意識は優れていたとか、結果は無残だったが青年らしい問いかけだったとか、学問の権威に対する異議申し立てには意味があった、といったたぐいの、論証されていない主観的正当化である。学問の権威に対する異議申し立てという正当化が浅はかなのは、自分たちが権威の側に回ったときの姿勢で見事に露呈しているからである。「彼らの権威」に異議申し立てしただけで、「自分たちが権威になりたかっただけ」と言われても仕方がないのが、大勢だろう。
第2は、1968年の世界的激動の中に再定位する方策である。パリやプラハを持ち出して、世界的な革命運動があったのだ、われわれもその一員であったのだ、という、一見すると「客観的な」、しかし、全共闘世代が後付けで言い出したきわめて主観的な正当化である。
重要なのは、これほど自己正当化に汲々とした世代はない、という点だ。何十年たっても,とにかく自己正当化にしか興味がない。
いよいよ古稀を迎えて、安彦も当時を振り返り、友人達に会い、当時の対立者にもインタヴューし、時代を語る。なかなかおもしろい本だが、革命ごっことサブカルと天皇擁護につきあうのも、時間の無駄とも思う。最後には、必死になって杉田水脈の差別発言を擁護している。やはり、全共闘世代と言うべきか。