Sunday, January 09, 2022

公正、英明、御赦し、慈悲(第3章 イムラーン家)

中田考監修『日亜対訳クルアーン』(作品社、2014年) 

クルアーンが先行の福音書などをうけて、これを完成させる全人類のための啓典であること、ムスリムが良識にのっとった最善の共同体であること、そしてイムラーン家の物語が示される。

バドルの闘い(西暦624年)やウフドの戦い(西暦625年)のエピソード、試練と信仰、教義と戦いの準備が語られる。

「アッラーは、彼のほかに神はないと立証し給い、天使たちと、知識を持つ者たちもまた(証言した)。常に公正を貫く御方で、彼のほかに神はないと。威力比類なく英明なる御方。(318)

「信仰する者たちよ、信仰を拒み、同胞に対して(関して)彼らが地上を闊歩するか遠征にある際に、「もし彼らがわれらの許にいたら、死ぬことはなく、殺されることもなかったろうに」と言った者たちのようになってはならない。アッラーがそれを彼らの心の嘆きとなし給うたためである。そしてアッラーは生かし、また殺し給う。そしてアッラーはおまえたちのなすことを見通し給う御方。(3156)

「そしてたとえもしおまえたちがアッラーの道において殺されるか死ぬかしたとしても、アッラーからの御赦しと慈悲こそは、彼らが(現世で)かき集めたものよりも良い。(3157)

本書はクルアーンの翻訳だが、「日亜対訳」とあるように、アラビア語の原典と日本語がすべて示されている。他の宗教と違って、開祖の言葉を記録した<口伝のクルアーン>なのでアラビア語だけが原典であり、原理的に他の言語のクルアーンは存在しえない。

天上からの言葉としては、ヘブライ語聖書とクルアーンの2つが存在するが、ユダヤ教徒キリスト教の聖典は、様々な著者による諸文書をまとめたものであるのに対して、クルアーンは一人の個人の正式で公的な証言を保持している。「書かれた書物」であるが「明白な読誦」とされ、クルアーンの優位性が示される。最初から1冊の聖典、正典として成立している。後から別人が編集した書物ではないという意味だ。

イスラームでは、テキストが確定したものだけがクルアーンに収められ、確定しなかったものはハディス(言行録)とされている。

クルアーンは、予言者ムハンマドの没後15年ほど、西暦645年ころから、イスラーム・カリフ国において、第3代カリフ・ウスマーンの命令により、作成された。ムハンマドの弟子で、当時の世界最大の帝国元首であったウスマーンの指揮の下、ムハンマド在生時から記録者であったザイード・ブン・サービトらが編集した「国家事業」の成果でもある。ユダヤ教やキリスト教と違って、党派的対立がなかったため、唯一の聖典性が作成時から明瞭であったという。キリスト教と違って、ムハンマドが神から授かった言葉のみが提示されていると理解されている。

こうした性格の違いが、現在のイスラーム信仰の現場でどの程度意識されているのかは知らないが、キリスト教世界の側の反発は容易に想像できる。イスラームが台頭するたびに、西欧キリスト教世界が「文明の対立」と称して非和解的な対立の図式を持ち出す理由もここにあるのかもしれない。

クルアーンを見ても、ユダヤ教やキリスト教に対するイスラームとアッラーの絶対的優位性を示そうとする姿勢が冒頭から一貫している。

イスラームとキリスト教という「寛容の宗教」が「永遠対立の宗教」に転化してしまうところに、人間の不思議が示されているのかもしれない。