中里見博「性差別」愛敬浩二編『講座立憲主義と憲法学・第2巻』(信山社、2022年)
https://www.shinzansha.co.jp/book/b10025220.html
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中里見は大阪電気通信大学教授で、長年、性差別や性差別表現に関する憲法論を展開してきた代表的な論客である。
目次
Ⅰ はじめに
Ⅱ 通説の内容と問題点
Ⅲ 代替的議論の展開
Ⅳ 反「性的従属」説の提唱
Ⅴ おわりに
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憲法14条は、①前段で「法の下の平等」、②後段で「差別の禁止」を掲げている。
従来の通説は、①前段の「法の下の平等」と②後段の「差別の禁止」を同じことと理解し、国家に相対的平等の保障を要請するものと解釈してきた。国家が国民に対して差別的取り扱いをすることが禁止される。しかし、憲法は私人間には適用されないとの理由から、社会にいくら差別があっても、それは国家の責任ではないとされた。
単純化していえば、憲法には①②の2つが書いてあるが、両者は同じ意味内容なので、②は書いてないことにしても構わないことになる。
結局、憲法学の通説によれば、国家が積極的に差別をすれば違憲だが、社会的差別は放置しておいても違憲ではなく、差別に対処するか否かは政策論に委ねられることになる。
以上が通説である。
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これに対して、学説の中には、私人間の差別を放置できない、国家には差別是正義務があるのではないか、例えば女性差別撤廃条約をどう位置付けるかといった議論が登場してきた。
これは憲法論だけでなく、国家観の相違につながる。積極国家か消極国家かという論点である。
中里見は、通説の問題点を具体的かつ多角的に検討している。
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かくして②後段の「差別の禁止」に再度、注目が集まる。法の下の平等保護とともに、差別されない利益の保護が必要とされる。形式的平等の克服、国家の差別是正義務による実質的平等の実現が求められる。
中里見は、代替的議論の展開をフォローして、反「性的従属」説の具体化に挑む。近代的な意味での平等概念をもとにすれば、憲法14条は①前段の「法の下の平等」に限定され、②後段の「差別の禁止」を軽視してしまう。近代的平等は重要だが、それだけでは熾烈な差別を放置する解釈にとどまってしまう。現代的差別禁止に光を当てなければならない。国際人権法の観点が視野に入る。
ここで中里見は、前田朗『ヘイト・スピーチ研究原論』から引用する。私は、日本国憲法には差別を克服する側面と同時に、差別を助長する側面があるので、後者を抑制して、差別を克服する側面での解釈をするべきだと主張している。憲法14条はアジアの人民が日本で差別されない、ヘイト・スピーチを受けない権利の根拠規定である。この私の見解を、憲法学者が引用したのは初めてのことだろう。
中里見は反従属としての後段「差別の禁止」を重視する。中里見は次のように明示する。
「このように14条1項は、前段と後段を区別され、前段はすべての国民の人格的等価性を基礎に、合理的区別を許容し、不合理な区別を禁止する『法の下の平等』として、後段は、列挙された事由による従属的取扱いを禁止する反従属の規範であるとして捉えられる。」
それゆえ、「国家によって性別に基づき劣等的な市民的地位に置かれない権利」とともに、「社会構造的な性差別の是正を要求する権利」が導き出される。性暴力への対処が重要な内容となる。
こうして中里見は、買春や商業的性売買業を性暴力として捉え返し、実写ポルノ制作の規制の必要性を論じる。
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具体的な議論は中里見論文それ自体にあたってもらうしかない。ここでは、私の関心に引き寄せて、その限りでコメントする。
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中里見の議論は私にとってとても説得的で頷けるものだ。というより、中里見論文のおかげで、私のヘイト・スピーチ論に強い理論的支柱が追加されたと感じている。この点を今後、研究していきたい。
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①前段の「法の下の平等」と②後段の「差別の禁止」の議論については、私も同じことを違う形で主張してきた。
第1に、世界人権宣言は第1条に平等を掲げ、第2条で非差別を掲げている。さらに第6条で人として認められる権利を、第7条で法の下の平等を掲げている。法の下の平等と差別の禁止が、重なり合いつつ、異なる意味内容を持つのは当たり前のことである。
第2に、国際人権規約第2条は非差別、第3条は男女同等の権利を定める。第16条は人として認められる権利を定める。
第3に、世界の多くの憲法には、法の下の平等規定だけを持つ憲法と、差別の禁止規定だけを持つ憲法がある。日本国憲法のように法の下の平等と差別の禁止を2つ揃って掲げる憲法は必ずしも多くはない。
系統的に調べた訳ではないが、いくつか例示しておこう。
差別の禁止は、アンティグア・バーブーダ、インド、ナミビア、アルゼンチン、ボリビア、メキシコ。
平等を定めるのは、マケドニア、コンゴ民主共和国、モザンビーク、エクアドル、チャド、イエメン、アルメニア、ジョージア。
法の下の平等と差別の禁止を掲げるのは、コスタリカ、韓国、ヴェトナム、ヨルダン、イタリア、カタール。
以上のことから言って、法の下の平等と差別の禁止が同じ意味だから後者は書いていないことにするなどというのは、およそ信じがたい暴論である。現に書いてあることを、恣意的に書いていないことにするのは、憲法解釈ではない。
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それだけではない。
憲法14条は「差別されない」と書いている。「差別されない」に意味がなく、国家に是正義務がないのだとすれば、他の条文はどうするのか。
憲法18条は「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」とする。
18条は、国家による奴隷的拘束だけを禁止し、債務奴隷を禁止せず、国家による是正義務はないのだろうか。人身売買、子ども労働をはじめとする現代奴隷制を是正する義務が国家にはないのだろうか。そのような解釈を許容するのは世界広しと言えども、日本の憲法学者だけだろう。
憲法14条の「差別されない」が「差別されない権利を国家が保障し、現に差別があれば差別是正措置を講じる義務が国家に生じる」という意味だと理解するのが素直な憲法解釈だろう。