Friday, December 26, 2025

知られざる「第四の被曝」

                     『マスコミ市民』681号(202511月)

拡散する精神/委縮する表現(176

 

知られざる「第四の被曝」(一)

 

前田 朗

 

第四の被曝とは

 

 九月一三日、茅ケ崎市民文化会館で関東大震災朝鮮人虐殺追悼式が行われた。東京都墨田区、横浜市、さいたま市、本庄市など各地で追悼式が続いてきたが、茅ケ崎では初めての開催であった。

 追悼式終了後の懇親会に参加したところ、「『第四の被曝』を広める会」(代表・大蔵律子前平塚市長)のメンバーと同席することになり、関連資料を頂き、お話を伺った。

 七月一二日、神奈川県平塚市で「『第四の被曝』を広める会」が旗揚げしたという。きっかけは二〇二四年九月一五日に放映されたNHKスペシャル『封じられた“第四の被曝”~なぜ夫は死んだのか』である。

 「第四の被曝」とは何か。まったく知らなかったので大変驚いた。

 一九五八年七月一二日、ビキニ西方海上でアメリカの水爆実験ポプラが実施された。当時、国連の国際地球観測プロジェクトの海流調査のために派遣されて南太平洋を航行していた海上保安庁の測量船「拓洋」と巡視船「さつま」の乗員が被曝した。洋上でガイガー計測器で被曝の危険性を知った両船はラバウルに避難したが、すでに白血球の異常な低下が確認されている。被爆から一年後、拓洋の機関士永野博吉(三四歳)が急性骨髄性白血病で死亡した。

アメリカ核実験司令部の軍医が作成した報告書によると、乗員二四人のうち一六人に重度を含む白血球減少があったという。軍医は五〇〇ミリシーベルト以上被爆した場合に急性被曝が認められるとし、拓洋船上の被曝線量を〇・八五ミリシーベルトと算出し、健康への影響はないと結論付けたという。測定値と矛盾する結論を出したのだ。NHK取材班は別の乗員が残した歯の被ばく線量を基に、健康への影響はないという結論に疑問を投げかける。

 聞いたことのある話だと思う人もいるかもしれないが、ビキニ水爆実験の話ではない。

 一九五四年三月、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験ブラボーによって、太平洋で操業していた漁船一四二二隻が被曝した。マグロ漁船の第五福竜丸は多量の死の灰(放射性降下物)を焼津港に持ち帰った。半年後の九月、無線長久保山愛吉が死亡した。ヒロシマ・ナガサキに次ぐ第三の被曝である。

 

六五年の隠蔽と闘う

 

 四年後の一九五八年に拓洋の機関士が被曝によって他界した。アメリカも日本も「第二の第五福竜丸事件」を表面化させないために、必死になって事件をもみ消した。日米安保条約の改定を迎える時期であり、反核世論が反米に繋がることを恐れたからであろう。

永野機関士の妻は、日本政府から「日本だけでなく、アメリカも絡んでいるから」と口止めされた。公務中の殉職として補償されることもないまま、長く口を閉ざしてきた。海上保安庁職員であったため、国の方針に従わざるを得なかったのだろう。

 七月の「第四の被曝を考える映像と市民のつどい」では、NHKスペシャル『封じられた第四の被曝~なぜ夫は死んだのか』上映に続いて、第二部「講演 横里征二郎さん(NHKディレクター)『封じられた第四の被曝』から見えてきたこと」が行われた。

NHKスペシャル取材に応じて証言した機関士の妻は二〇二四年五月、九三歳で他界した。「宿命、宿命という言葉は、嫌な言葉なんだけど認めざるを得ないんです」、「自分で選んだ道じゃないけど」と語りつつも、国家による秘密強要の暴力に抗って最後の最後に力を振り絞っての証言である。

物心がついた時には父親が亡くなっていた娘は母親の最後の闘いを見守り、七月の上映会の際に名乗りを上げた。

「母は被曝事件や父の死を不条理だと感じながらも、『宿命』だと言って、自分自身を納得させるしかなかったと言うことなんだと思います。そうしなければ、前を向いて生きることができなかったんじゃないかな」。

こう語る娘は六五年の秘密に挑み、たとえ時間がかかっても国に対して問うていきたいと宣言した。

 「広める会」はまず県内各地で集会を開き、この問題を社会に広めるとともに、国に対して「放射線量は微量」とした根拠の説明を求めるなど、真相解明の取り組みを始めた。七月一二日を記念して毎年講演会などを開催し、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニに続く第四の被曝の真相解明を追究する。

                       

                      『マスコミ市民』682号(202512月)

拡散する精神/委縮する表現(177

 

知られざる「第四の被曝」(二)

前田 朗

 

真相究明を

 

 二〇二四年放映のNHKスペシャル『封じられた第四の被曝~なぜ夫は死んだのか』をきっかけに、二〇二五年七月一二日、神奈川県平塚市で「『第四の被曝』を広める会」が旗揚げした。

 一九五八年七月一二日、ビキニ西方海上でアメリカの水爆実験ポプラ(広島原爆の六〇〇倍)により、南太平洋航行中の海上保安庁の測量船「拓洋」と巡視船「さつま」の乗員一一三人が被曝した。ラバウルに避難して検査したところ、白血球の異常な低下が確認された。被爆から一年後、拓洋の機関士永野博吉(三四歳)が急性骨髄性白血病で死亡した。

 一九五四年のビキニ水爆実験ブラボーによる被曝の第五福竜丸事件から四年後、六〇年安保に向けて改定作業中の日米両国にとって、反米意識の高揚は何としてでも回避しなければならない。アメリカ核実験報告書に「即座に福竜丸事件を日本人に思い起こさせた。核実験を巡る日米対立を悪化させる可能性を否定できない」と記された。事件隠蔽が必死の命題であった。

 第一に拓洋の被爆状況の徹底解明がなされなかった。乗員たちには放射線被曝についての十分な知識が与えられていない。乗員は「ガイガー計測器で『濃度が高いよ』と言われた」「放射能汚染についてはオフレコだったからねえ、沈んだ空気になっていた」と証言する。アメリカの利害を忖度し、国家的秘密が人々の口を閉ざす。

 第二に被曝と発症の因果関係を否定する。被曝五日後、ラバウルに避難した乗員たちの血液検査で、四人に一人が白血球数の顕著な結果が判明した。アメリカ核実験司令部軍医だったラルフ・ショース医師作成報告書によると、乗員のリンパ球の減少は驚くべきものだった。急性被曝の典型的な症状であり、報告書には「このような所見は放射線障害、もしくは五〇〇ミリSv以上被爆した場合の急性被曝と関連付けられることに疑問の余地はない」と記載されている。にもかかわらず、ショース医師は「算出した微量の被曝線量では、健康への影響はない」と結論づけた。矛盾した記述である。

 被曝医療に関わってきた斉藤紀医師は「『微量』ということで、これもろとも打ち捨てるわけですよ」「『矛盾する』から放射線被災そのものがないことにしようという姿勢を、米軍レポートの結論はとってしまった」と言う。

 これを基に日本政府は、被曝線量は「微量」であり、白血病と「直接関連づけることは困難」と結論づけた。第五福竜丸と違って、事件は急速に忘れられることになった。

 

放射線許容量基準とは

 

 第三に被曝許容量という思考が登場し、見事に社会化に成功した。アメリカは被害者補償を否定するために、「被曝基準」を設けて「一般市民を教育する」と考えた。これを受けて日本側は「放射線許容量基準」を設けた。

 放射線許容量基準は、例えば歯科医治療のための撮影や、胸部X線検査など多彩な局面で用いられる。原子力や放射線を扱う作業者の線量限度は年間五〇ミリSvや五年間で一〇〇ミリSvなどとされる。こうした線量基準を社会化し、一般化する方法で、原発事故の被曝線量も議論されてきた。福島原発事故被害をめぐる議論が典型である。日本政府だけでなく、国際原子力機関なども同様の基準を指定しているため、「一定の被曝はやむを得ない。害はない」という許容値が権力的に「公定」される。実際には原発被爆者救済を妨げるための基準として猛威を振るうことになった。アメリカに忖度した日本の棄民政策が、原発企業を守る棄民政策に転化した。

 第四に遺族を沈黙に追いやる。永野博吉さんの妻には沈黙が強要された。それから六〇年余り、事件は闇に閉ざされてきた。

 「広める会」はまず県内各地で集会を開き、この問題を社会に広めていく。国に対して「放射線量は微量」とした根拠の説明を求めるなど、真相解明の取り組みを始めた。神奈川県下の自治体に協力要請し、高校など教育関係者にも協力をもらい、県内でこの問題を広める活動を始めた。NHKスペシャルの上映を含む学習会を積み重ねて、周知していく。

 二〇二六年二月七日には平塚市中央公民館で「第四の被曝を広める」学習会を開催する。さらに二〇二六年七月には大規模集会を開催して、神奈川県内のみならず全国に訴えていくという。