Saturday, March 05, 2011

グランサコネ通信2011-05

グランサコネ通信2011-05

2月28日

1)ストラスブール

週末は、急に思い立って、ストラスブール(フランス)に行ってきました。原稿締め切りに追われていたのに、なんとかなりそうになると、つい出かけてしまいます。帰ってきてから、原稿締め切りに泣くのはいつものこと(苦笑)。

ストラスブールに行ったのは、ヨーロッパ評議会とヨーロッパ人権裁判所を見るためです。ただそれだけ。人権理事会の関連文献を見ていたときに、そういえばジュネーヴから近いのに、ストラスブ-ルに行ったことがないことに気づきました。

近いのに、実は直線距離ではいけなくて、遠回りするため、結構遠いことが分かりました。ジュネーヴからバーゼルへ、そしてバーゼルからストラスブールへ。まっすぐ直線でインターシティが通じていれば2時間のはずなのに、遠回りなので5時間近くかかります。フランス側から見ると、パリからストラスブールへ、そしてストラスブールからドイツその他の周辺諸国へ、という位置です。

ストラスブール駅は「芋虫状態」でした。古い駅舎の前面に芋虫イメージのカバー。駅前から1時間ほど歩いてクレバー広場、カテドラルなどを見物。タクシーでヨーロッパ評議会と人権裁判所を見て、あとはのんびり。

往復の車中で読もうと思って持参したのが、ジョージ・レツアス『ヨーロッパ人権裁判所の解釈理論』(オクスフォード市大学出版、2007)です。140ページなので入門書だろうと思って、お勉強用に持参したのですが、違いました。著者は、『法の帝国』の大家ロナルド・ドウオーキンの弟子で、ロンドン大学講師。もとはギリシアのパブロス・スーラスという教授の弟子だそうで、ギリシア人かも。本書は著者の博士論文をさらにブラッシュアップしたものです。難しくて、とても手軽に読めるような代物ではありませんでした。ストラスブールへの往復10時間近くかかってようやく30ページ。

著者の問題意識は、ヨーロッパ人権裁判所が、その成功ゆえに困難を抱えることになってきたという評価をいったんは下し、それはなぜかと問うものです。法理論的には、妊娠中絶の権利、自殺の権利、ホロコースト否定の出版の権利など、激しい争いになったテーマについて、ヨーロッパ人権条約にはその是非が明記されていないので、その問題が裁判所に持ち込まれると、裁判所は、文言解釈だけで結論を出すことができないため、当該テーマの道徳的次元や政治的次元に積極的に踏み込んだ価値判断を行い、その判断を次に法解釈として説得的に構築しなくてはなりません。死刑廃止のように条文に明記されていれば、そういう苦労はありません。「ダメだと書いてあるじゃないか」で済みます。

裁判というのは因果なもので、与えられている条件の下で一定の結論を出さなくてはならないのです。「わかりません」というわけにはいきません。刑事裁判なら、有罪の立証がない限り無罪、分からなければ無罪が当然ですが、法理論が争われる裁判はそうはいきません。裁判官自身の思想と論理がもろに問われます。

この問題の方法論的考察が中心で、法規範の自律性や、リベラリズムの法解釈方法論や、説得のための論証の構えなども取り上げられます。

ただ、著者はもう一つの事実に関連付けています。ヨーロッパ評議会は、1992年までは23カ国だったのに、2004年には46ヶ国になっています。このことが、大きな影響を与えているのです。仏独などヨーロッパ評議会設立諸国の間で共有されてきた価値観が、46カ国に共有されているわけではないため、思いがけない形で新しい論点が浮上し、裁判所はそれに解決を与える必要性が出てくるというのです。

とてもおもしろい課題ですが、私には本文をさっと読む能力がありません。本書は、辞書を引きながら、メモをとりながらでないと、無理です。日本は、ヨーロッパ人権裁判所のような地域的人権機構に属していないので、本書は日本とは関係ないというわけではありません。人種差別撤廃委員会や女性差別撤廃委員会など国際人権諸条約の政府報告諸制度がありますし、国際自由権規約の選択議定書批准問題もあります(死刑反対といいながら死刑執行した元法務大臣が、選択議定書批准の方向性を示していましたが、その後動いていないようです)。

2月26日、ストラスブールの旧市街中心部に近いクレバー広場に、アゼルバイジャンの人たちが集まっていました。アルメニアによるアゼルバイジャン侵略に抗議する1日アクションです。アルザス・ロレーヌ地方から集まってきたアゼルバイジャン人30人くらい。うち子どもが10人くらいです。「ナゴルノ・カラバフの虐殺を初めとする侵略と虐殺を国際裁判にかけろ」というデモンストレーション。トルコによるジェノサイドの被害者がアルメニア。でもアゼルバイジャンの人たちはアルメニアによる被害を訴えています。しかも、同じ地域にはクルド人がいて、懸命に運動しています。日本でもクルド人の代弁をする人はよくいます。私もクルド映画ファン。でも、クルド人がいま居住している地域の一部は、もともとアルメニア人が住んでいた地域だったりします。誰が誰を侵略し、攻撃したのかが、ますます見えにくくなっています。加害と被害が入れ替わり、交錯し、ついにはぐちゃぐちゃになる。そして--。

ARGIANO,Rosso Di Montalcino 2006。

2)セルビア報告書

セルビア政府代表団は10人ほど。プレゼンテーションは人権省副大臣(大臣秘書?)の女性が中心に行いました。NGOはほとんどいませんでした。NGOその他の座席は40ほどです。ノルウェーやアイルランドの審査の時は満席に近くなりました(日本政府報告書審査の時は座席が足りなくなるのではと心配したくらいです)。しかし、セルビアの時は10人しか居ませんでした。その多くは常連さん、つまり世界の人種差別をフォローしている国際NGOの人たち。うち2人が日本人でした。セルビアからきたNGOがいたのかどうか。

セルビアといえば、1990年代初頭のユーゴスラヴィア紛争、そして1990年代後半のコソヴォ紛争です。今回の報告書は第1回報告書ですので、注目が集まるはずですが、なぜかメディアもNGOも全然注目していません。喉もと過ぎればの典型。

第1回セルビア報告書(CERD/C/SRB/1)

セルビアで注目すべきは、2009年3月の反差別法の制定です。憲法第21条1~3項は、すべての市民は平等であり、差別のない平等の権利を有するとしています。間接差別も禁止しています。2009年反差別法第1条1項は、差別の一般的禁止、差別の諸形態と諸事例、差別からの保護手続きを規定しています。同上2項は、独立機関としての平等保護委員会を設立することにしています。第2条1項は、「差別」と「差別的取扱い」を定めています。人種、皮膚の色、市民権、国民的出身、民族的出身、言語、宗教または政治的意見、性、ジェンダー・アイデンティティ、性的志向、財産状態、犯罪歴、年齢、政治・労組・その他の組織の構成員であること、その他の人的特徴に基づいて、公開で、人又は集団、その家族構成員、その身近な人に関して、不正な差異化又不平等な行動又は不作為(排除、制限、特権付与)が、差別とされています。第5条は、差別の諸形態として、直接差別、間接差別、平等権・義務原理違反、人の責任を問うこと、差別を行う団体、ヘイト・スピーチとハラスメント、品位を傷つける取り扱いを掲げています。差別の重大深刻な諸形態について、第13条は次のものを列挙しています。不平等の教唆・煽動。国民的、人種的、宗教的関係、政治的関係、性、ジェンダー・アイデンティティ、性的志向、障害に基づく憎悪と不寛容。奴隷制。人身売買。アパルトヘイト。ジェノサイド。民族浄化。それらの煽動。当局による煽動又は差別。

刑法第128条は、他人の憲法上の権利を剥奪、又は制限した者を三年の刑事施設収容としています。公務員が公務遂行上行った場合は三月以上五年以下です。

刑法第317条は、セルビアに居住する人々及び民族コミュニティの間に、国民的、人種的、宗教的憎悪又は不寛容を煽動し、悪化させた者を六月以上五年以下の刑事施設収容としています。

刑法第387条は、人種、皮膚の色、国籍、民族性、その他の人的特徴に基づいて、普遍的に受け入れられた国際法と国際条約の法則によって保証された基本的人権と事由を侵害した者は、六月以上五年以下の刑事施設収容としている。

1992年から2008年までに内務省が訴追したのは366事件、572人である。事件数は、9(1992年)、8(1993年)、4(1994年)、7(1995年)、5(1996年)、5(1997年)、7(1998年)、13(1999年)、12(2000年)、13(2001年)、18(2002年)、14(2003年)、34(2004年)、54(2005年)、49(2006年)、52(2007年)、62(2008年)。

刑法第317条違反が268件で73.2%。刑法第131条(宗教や宗教儀式妨害)違反が70件。刑法第129条(言語の権利妨害)違反が20件。刑法第174条違反が5件。刑法第387条違反が2件。刑法第128条違反が1件。

2004年、内務省が、少数者保護のために、憎悪に動機付けられた事件を前件訴追を全国の警察に指示したので、事件数が増えた。

憲法第5条1項は、憲法体制の転覆、人権や少数者の権利侵害、憎悪の教唆を目的とする政党活動を禁止している。憲法第55条4項は、そうした団体を禁止する権限を憲法裁判所に与えている。市民組織法、政党法も各種規定を用意している。これまで憲法裁判所が実際に禁止決定を出したことはない。なお、放送法や公的情報法も差別禁止を定めている。

旧ユーゴスラヴィア国際刑事法廷との協力法があり、協力を続け、ジェノサイドや人道に対する罪についての刑事法廷の管轄権を受け入れてきた(詳細は省略)。

2003年10月、ベオグラード地裁戦争犯罪部が設置され、刑法第370~387条、重大な国際人道法違反を取り扱っている。

3)木村元彦『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンデネグロ』(集英社新書、2005)

人種差別撤廃委員会でセルビア報告書審査があるので、この本を持ってきて、読みました。2000~04年の情報に基づいていますが、コソヴォ空爆とそれ以後を取り上げて、現地取材の成果を惜しげもなく提示している本で、とても参考になります。現場の情報に基づいていないと、メディアや「誤用」評論家を批判して、民族浄化はセルビア側だけではなく両方にあったこと、コソヴォ空爆で問題解決などしていなくてその後も多数の行方不明者(拉致、失踪)が続いているのに国際社会が無視していること、一方的な情報だけで報道がなされていること、一方的な情報だけで旧ユーゴ国際法廷の裁判が動いていることなど、さまざまな論点を登記しています。私にとって参考になったのは、もちろん、人種差別撤廃委員会のセルビア政府報告書審査に関連して、政府報告書には絶対出てこない情報や、視点を考慮するために、ということです。

「セルビア民衆による十月革命」も実はCIAによる仕込みがあったことも具体的に明らかにしています。旧ユーゴ崩壊過程での数々の「民衆革命」について、CIA関与疑惑は当時から語られていて、ある意味では「陰謀論」となっていましたが、「民族浄化」がアメリカの広告会社の宣伝用文句であったことを初め、さまざまなCIA疑惑は、その後、かなり証拠も出ていました。本書でも裏づけをしています。つまり、旧ユーゴにおけるCIA謀略は「陰謀」ではなく「事実」であったと言ってよいのが現状です(CIA関与があったから、だからどうなのか、については意見が分かれます)。それでもこれを「陰謀論」に数えている人が日本にもいます。しかし、「9.11陰謀論」とは明瞭に区別するべきでしょう。ただ、この種の議論は、ただちに、現在進行中のチュニジア以後の事態にもかかわるので、議論は難しいところです。

4)新藤信『クレーの旅』(平凡社、2007)

楽しい本です。こういう本を出せるなんて著者がうらやましい。著者は、基本的には「日本パウル・クレー協会」の新藤信。加えて、インタビュー記事では、奥田修(パウル・クレー・センター)、そして一文を書いている林綾野(当時、日本パウル・クレー協会)。主にクレーのチュニジア旅行を取り上げて、クレーの日記、及び現地調査に基づいた考察が述べられています。

素人にも読みやすく、しかも、クレー研究の最新成果を踏まえているので、実におトク。クレーの場合、ここが重要です。「素人」と「研究」。なぜなら、クレーほど素人受けする画家は、そう多くありません。ピカソやミロもいますが、クレーの天使には勝てないでしょう。ところが、クレーほど一筋縄でいかない画家もそう多くはありません。そのことは、日本で言えば、前田富士男、奥田修、宮下誠といった研究者によって論じられてきました。緻密に計算された日記で人を欺くクレー。ルールをいとも簡単に破るクレー。作品を切ったり貼ったりするクレー。シュルレアリストじゃないのにシュルレアリストのふりをするクレー。ナチス・ドイツに弾圧されて逃げるクレー。作品の中に見えない仕掛けを施すクレー。世界を反転させるために。同時に、自分の作品を高値で売るために。たまらない魅力です。その魅力満載の本が最近は増えていて、読者冥利につきます。

1月、私は、2月に、クレーの旅を追跡するためにチュニジアに行こうと準備していて、ホテルを予約し、航空券の手配もしていましたが、1月のある日、あの日、突然、なんとチュニジアの大統領が逃げ出して、びっくり。わお~~~、というわけで、旅行をキャンセルせざるをえませんでした。それだけに本書には、涎が出そう、の一言。

5)佐藤文隆『職業としての科学』(岩波新書、2011)

岩波新書の『宇宙論への招待』で知られ、その他多くの新書で「科学」案内をしてきた著者の「科学社会学」です。科学論ではなく、これからの科学政策の方向性を探るために、近代西欧科学と科学者の展開過程をトレースし、日本の科学と科学者の歴史も踏まえて、現在を転換期と位置づけ、今後の日本では「科学技術エンタープライズ」で科学者の雇用を拡大し、子どもたちが科学に夢を持てるような政策をとるべきとしています。いわゆる「自然科学」のことです。「マッハ対プランク」「ポパー対クーン」のエピソードや、「制度としての科学」について論じる中での「フェルミ問題」など面白く読めます。著者の考える科学の将来像がよいのかどうかはわかりません。本書がおもしろいのは、著者が自ら属してきた科学の世界を、とても大切にしながら、同時に、少し突き放し、その間で思考を試みていることがよくわかるからです。

湯川、朝永が出て来て、坂田は出てきませんが、武谷は出てきます。武谷は、自然科学だけではなく、科学一般、つまり社会科学にも多少の影響を与えていましたから、私も当時(1980年代前半)は何冊も読みました。たぶん、私の世代が最後でしょう。その後(1990年代には)、社会科学の分野で、武谷を読む人は、まずいなくなりました(他の分野でどうかは知りませんが)。そのことをどう評価するべきか、私には今も判断しかねるところです。今から思えば、一方で、自然科学についてあれほどイデロギー的なのに、他方で、なぜ社会科学についてイデオロギー・フリーのような議論をすることができたのだろうと、大いに疑問に思います。イデオロギーから完全に自由な科学などないにしても、自然科学よりも社会科学のほうが、よりイデオロギー的なはずだ、と思うので。とはいえ、私自身にとっては、武谷を読んだことが無意味とは思っていません。武谷を通過したことで、私が得たことがたくさんあったと思っています。

おまけ。--著者には、山本義隆への評価を書いて欲しかった。自分が思っている「科学」だけを一方的に書くのが「科学的」なのか。そうではないのなら。そろそろ、佐藤文「隆」と山本義「隆」の「隆隆対談」とか、誰か仕掛けてくれないか。

グランサコネ通信2011-04

グランサコネ通信2011-04

2月25日

1)スペイン報告書

スペイン政府代表は10人ほどで、男6、女4くらいでした。プレゼンテーションはすべて男がやりました。憲法と憲法裁判所の話、外国人法という法律の話が興味深かったのと、なぜか報告書には出ていないのですが、委員からはジプシーについて繰り返し質問が出ていました。

人種差別撤廃の観点では、条約第2条の立法による解決、第5条の差別と人権の規定が重要で、各国がどういう法政策を展開しているか、具体的な政策・計画・プログラムはどうか、教育・雇用・福祉などの諸分野で何が行われているか、NGOは何を提案し、どのような監視をしているかなども見ておきたいのですが、なかなか手がまわりません。ヘイト・クライム関連情報を追いかけるだけで精一杯です。

第18-20回スペイン報告書(CERD/C/ESP/18-20. 2 November 2009)によると、刑法には、人種差別と闘うための規定が多数あります。

(a)刑法第22条2項は、人種主義、反セミティズム、その他の形態の人種や民族集団に基づく差別に動機付けられた犯罪について、刑罰加重事由としています。

(b)刑法第149条は、性器切除を独立犯罪としています。

(c)刑法第161条2項は、genetic manipulation や human cloning に関する犯罪を定めています。

(d)刑法第170条は、民族集団への攻撃の脅迫を犯罪としています。

(e)刑法第187条と第190条は、少数者の売春に関する犯罪を処罰しています。

(f)刑法第197条5項は、人種的出身を明らかにする秘密情報を開示することに重い刑を科しています。

(g)刑法第312条と第314条は、労働許可のない外国人を、その人権を侵害したり、民族集団、人種又は国民の構成員であることなどの理由で雇用において差別をした場合、処罰しています。

(h)刑法第510条は、人種主義、反対セミティズム、又は民族集団や人種の構成員であるという理由で差別、憎悪、暴力を教唆することを犯罪としています。

(i)刑法第511条は、人、組織、財団、協会、企業、又はそれらの構成員に、民族、人種、又は国民的出身に基づいて、個人が公的地位につくことを否定することを犯罪としています。刑法第512条は、同様に、専門職や商業活動について否定することを犯罪としています。

(j)刑法第515条は、個人、集団、組織に、そのイデオロギー、宗教又は信仰、又はその構成員の全部又は一部が特定の民族集団、人種又は国民に属することを理由に、差別、憎悪又は暴力を促す団体を、処罰される違法団体としています。

(k)刑法第522条から第525条は、良心の自由に対する犯罪を定めています。

(l)刑法第610条は、ジェノサイドの罪を定めています。

人種差別煽動処罰を求める条約第4条との関連で重要な規定は、刑法第312条、第510条、第512条、第610条、並びに、2007年7月11日の「スポーツにおける暴力、人種主義、外国人排斥及び不寛容に関する法律です。

2007年11月7日の憲法裁判所判決は、バルセロナ高等裁判所決定が2000年に提起した、刑法第607条2項の違憲性について結論を出しました。事案は、第2次大戦関連専門書店経営者が、ユダヤ人共同体への迫害やジェノサイドを繰り返し、共同体構成員を貶める方法で、否定するドキュメンタリーや伝記を販売・頒布したというものです。

バルセロナ刑事裁判所は、刑法第607条2項に定めたジェノサイドの罪を否定、又は正当化する思想・信条を流布した罪で、書店経営者を有罪としました。バルセロナ高等裁判所は、違憲性について判断が必要として事案は憲法裁判所に付託されました。

憲法裁判所は、ジェノサイドの否定が、そのテーマに関する意見・思想の単なる伝達であるなら、たとえその思想が人間の尊厳に反していても、積極的な見解の表現を通じて犯罪を促すものでなければ、犯罪とすることはできないと判断しました。従って、憲法裁判所は、刑法第607条2項第一文の「否定する」という文言は意見であるとしました。abominable、要確認前回報告書。

しかし、憲法裁判所は、ジェノサイドの「正当化」について、ジェノサイドの実行の間接教唆、又は皮膚の色、人種、宗教、又は国民的民族的出身によって規定された集団への憎悪を促すような思想の公然たる流布であり、一定の差別行為に至る暴力や敵意の雰囲気を作り出すものであり、犯罪であるとしました。この意味で刑法第607条2項第一文の「正当化する」は合憲とされました。

2005年2月14日の憲法裁判所判決は、外国人被収容者の出国を否定した事案で、それが一定の条件の下では人種差別に当たるのではないか、憲法上の権利の行使について判断しました。被収容外国人の国籍に基づくとすれば、憲法第14条はそうした差別を禁止しています。平等の権利は、スペイン人にも外国人にも認められるので、「他人と同じ取り扱いを受ける権利」ですが、「他人により良い取り扱い」がなされていれば憲法第14条違反となると判断しました。

2004年11月30日のラリオジャ高等裁判所決定は、刑事裁判所が、移住者集団に対して敵意をたかめるために公共機関事務所にチラシを配布した2人を、チラシで用いられている人種主義的表現が刑法第510条1項の人種差別煽動にあたるとして有罪にしたのを、支持しました。

2007年12月12日のソリア高等裁判所は、少年少女たちが、一人のクラスメイトに、アラブ系であることを理由に侮辱を加えた事案が、刑法第22条4項にいう、強要や嫌がらせに当たるかどうか、刑罰加重事由に当たるかどうかを審議するべきとの検察官の請求を認めました。

2006年11月16日のジェイダ刑事裁判所決定は、インターネットを通じて人種主義と外国人排斥を煽動した2人を刑法第510条違反で有罪としました。本決定で重要なのは、インターネットを手段として行なわれた事案を、人種的動機に基づいて集団又は組織に対する憎悪及び暴力を煽動したとして刑法第510条を適用した初めての事例だからです。

人種差別を煽動する組織を違法とし、処罰し、宣伝活動を処罰する措置に関して、スペイン憲法も刑法も、ある民族集団、人種又は国籍に属することに基づいて差別、憎悪、暴力を促す組織を違法としています(憲法第22条、刑法第515条)。刑法第519条は、違法な組織の犯罪を犯す教唆、共謀、意図を処罰しています。刑法第520条は、裁判所に、違法な組織の解散を命じる権限を与えています。

スペイン刑法にはいろいろな関連規定がありますが、正確な条文が紹介されていないので、前回までの報告書をチェックする必要があります。

2)市野川容孝編『人権の再定位1  人権の再問』(法律文化社、2011)

全5巻のシリーズで、「人権の再定位」を試みる、現代的な挑戦です。5巻は次の通り。

第1巻 人権の再問 市野川容孝編

第2巻 人権の主体 愛敬浩二編

第3巻 人権の射程 長谷部恭男編

第4巻 人権の実現 斎藤純一編

第5巻 人権論の再構築 井上達夫編

代表は井上達夫(東京大学教授、法哲学)です。編者たちの名前だけを見て単純化して言えば、リベラリズム法学・思想による人権論の再興、です。執筆者をすべてリベラリズムでくくるわけにはいきませんが、全体として「リベラリズムを自ら超えようと模索するリベラリズム」というところです。こう言うと、編者たちは、否定するかもしれませんが。

最初は全部読む必要はない、一部だけ読もうと思っていたのですが、読むべき論文を選んでいくのも大変ですし、コンサバティヴやネオリベラリズムとの対抗の中で、いま、日本のリベラリズム法・思想は何を目指しているのか、知りたいので、せっかくだから全部読むことにしました。今回1巻と2巻を持参。

第1巻の目次は次の通りです。

第一部 現実から/現実を問い直す

第1章 グローバルな人権の課題 斉藤龍一郎

第2章 障害と人権 金 政玉

第3章 老いをめぐる新たな人権の在り処 天田城介

第4章 セクシュアリティと人権 風間 孝

第5章 貧困の犯罪化 西澤晃彦

第二部 思想から/思想を問い直す

第6章 フェミニズムと人権 岡野八代

第7章 国境と人権 杉田 敦

第8章 保守主義と人権 宇野重規

第9章 生命倫理と人権 田中智彦

第10章 安全性の論理と人権 市野川容孝

第一印象は定価が高いことです。横書き1ページ29行、220ページで3000円(本体)。この分量なら私の本は2200円です。10人もの執筆者がいて、みんなで宣伝・販売に協力するのでしょうから、2500円以下にするべき。今は、もっと高額の本が増えているのでやむをえないか。

第一部の5本の論文は「現実から/現実を問い直す」とあるように、例えば、斉藤論文は、HIV陽性者のエイズ治療について、先進国では容易に治療できるのに、製薬会社の知的所有権保護のために治療薬が高騰しているため、途上国では治療が困難である現実に対して、HIV陽性者の間から運動が立ち上がっていた経過を論じています。「人権の普遍性」といいながら、先進国と途上国との間には現実の大きな溝があること、及び、企業の権利と人権とが衝突していること、しかも、企業の権利はWTO体制が国際的に支えていることが論点です。

あるいは、金論文は、日本における障害者権利運動をトレースし、そこでは障害を個人の問題に帰する「治療モデル」と、障害者とされる人々を取り囲む社会の配慮の欠如、結局、社会による障害者の可能性の剥奪に注目する「社会モデル」の対比の中で、障害者権利条約の意義を評価し、障害者差別禁止法を展望します。「善意による恩恵という差別」を克服するために、権利概念を改めて拡充する必要性を明らかにしています。

天田、風間、西澤論文も、それぞれ老い、セクシュアリティ、貧困をテーマに、それぞれ異なる手法で、「人権」がいかにして立ち止まるのか、どこに突破口があるのかを探っています。

第二部の「思想から/思想を問い直す」では、岡野論文は、歴史的に自然権として構築された人権が、最低限の権利とされながら、その最低限とは人権を認められた者にとっての最低限でしかないこと、そして人権が国家の枠内に閉じ込められ、国家によって保障されるが故に、逆に人権が国家を正当化していることに焦点を当て、日本軍従軍<慰安婦>とされた女性たちが訴えたことは、そうした地平をも乗り越えるような問題だったのではないかと論じています。

宇野論文は、あえて保守主義の論説に身を寄せて「人権批判の系譜」を確認します。古典的な人権批判としては有名なエドマンド・バーク、カトリック教会、そしてマルクスによる人権批判を検証しています。(マルクスが保守的であったというのではなく、著者によれば、初期マルクスの人権批判はその論理構成においては保守主義と共通する、のだそうです。私はそうは思えいませんが)。次に現代的批判として、1980年代以後、例えばクロード・ルフォール、マルセル・ゴーシェによる批判を挙げています。論点は「人権と政治」です。保守主義の論理をきちんと見すえておく必要性がありますし、ルフォールやゴーシェについてはよく知らなかったので勉強になりました。また、近代人権論への批判の第一波がバーク、第二の波が現代というのは、私の主張と同じです。もっとも、第二の波の理解は違います(後述)。著者の結論は、「今後、人権を理念的にも、また実践的にも、よりよく実現して威光とするならば、むしろ保守主義的な思考との対話が有益であろう。この対話を通じて、人権が人と人とをつなぐ役割をはたし得ることを論証し、さらに、人権という理念を支えるのは何なのか、議論を続けていくことが大切である」です。これだけ引用すると、当たり前すぎてつまらない話になってしまいますが、その前にきちんと保守主義の論理を検証しているので、論文全体を見れば説得力があります。

他の論文も、それぞれ教えてくれることは少なくありません。本書全体を通じて、さまざまなことを学びましたが、それは置いておいて、物足りなさも感じずにはいられません。

一番基本的なことから言うと、なぜ「現実から/現実を問い直す」「思想から/思想を問い直す」なのか。そもそも問題設定自体に疑問を感じるからです。なぜ「現実から/思想を問い直す」「思想から/現実を問い直す」ではないのか。現実に向き合い、現実の中から提示されている問題に解決を与えるための思索をめぐらす問題意識があれば、そして現実と拮抗する思想をつむごうという姿勢があるのなら、当然こうあるべきです。これは揚げ足取りではありません。もっとも基本的な方法論の違いを意味するからです。

上記で宇野論文に関連して「第二の波の理解は違います(後述)」と書きましたが、近代人権論に対する現代的批判を、単に1980年代のフランスにおける「人権と政治」論議で代表させているところに大きな疑問があります。近代人権論に対する現代的批判はそんなに瑣末なものではないはずです。近代における近代人権論批判、第一の波が、一方では伝統的・保守主義的批判であると同時に、階級やジェンダーやさまざまな差異の現実が浮き上がる局面での批判であったのに対して、仮に宇野の言う1980年代を取り上げるとしても、そこに生じている現代的批判は、直接的には、近代世界の変容(資本主義世界の変容、科学技術の発達、人間の社会的交通の変容等々)による現実の変容に伴う新しい人権現象の問題です。

第一に、より射程を大きく広げると、西欧近代が生み出した人権概念と、植民地的近代に生きる人々が抱える現実との矛盾を避けては通れません。1960年代に始まる植民地独立と新植民地主義、1980年代の新世界国際秩序、そして2000年代のダーバン宣言とポスト・ダーバンが視野に入れている射程から言えば、問題は、「現実から/思想を問い直す」「思想から/現実を問い直す」でなければならないはずです。歴史的に展開してきた営みは「現実から/思想を問い直し、その思想から/現実を問い直し、その現実から・・・」という反省と革新の反復の共同作業のはずです。そこからこそ真の保守主義が再興するはずです。宇野の言う保守主義なるものは「西欧近代という井の中の保守主義」に過ぎないでしょう。

第二に、たしかに1980年代以降の世界の変動に応じて、人権概念に対する挑戦がありました。20世紀末/21世紀初頭の国連人権委員会の議題の中に、次々と新しい人権概念が取り上げられていました。「女性に対する暴力」「水の権利」「大量破壊兵器と人権」「多国籍企業と人権」「現代科学技術と人権」「ヒトゲノムと人権」をはじめとする数々の人権論議が行われたのは10年以上前のことです。国連人権委員会は、国連の中の、国家による組織ですから、新しい人権概念を取り入れるのには時間がかかって、人権の現場よりもやや遅れます。その人権委員会でさえ、次々と新しい人権が議論されていました。そうした議論の経過や様子は「人権の再定位」第1巻にはあまり見られません。

例えば、私がいま取り組んでいる「平和への権利世界キャンペーン」は、人権委員会、そして現在の人権理事会で長期的に議論されています。「人民の平和への権利」の新しさの中で重要なのは、1つは、「平和」という「状態を指す概念」を「権利としての平和概念」に転換したことです。2つには、個人の権利ではなく、「人民という集団の権利」を唱えていることです。人民の自決権、平和的生存権、環境権、発展の権利といった権利は、個人の権利であると同時に集団の権利として構成されています。3つには、平和への権利はすべての人権(市民的政治的経済的社会的文化的権利)の基礎であるとしていることです。これら3つののことが近代的人権論に対するきわめて根本的で深刻な問題提起であることは言うまでもありません。これは一例に過ぎませんが、人権の現場では、近代的人権論を凌駕する動きが次々と起きてきました。そうした議論の成果が「人権の再定位」第1巻には反映していないのです。

出版されたのはもう40年以上前になるでしょうか、かつて、私たちは全5巻の講座『基本的人権』を手にし、これに学びました。今回の「人権の再定位」全5巻は、『基本的人権』とは大きく異なる状況(世界政治経済の状況、日本社会の状況、人権を巡る理論状況)の下で、異なる問題意識で構成されています。両者を単純に比較することはできません。ただ、一点だけ両者の違いを指摘するとすれば、『基本的人権』全5巻に満ち溢れていた(今から振り返れば過剰なまでの)方法意識が、「再定位」(少なくとも第1巻)には希薄なことです。『基本的人権』は、近代的人権そのものに肉薄し、それを乗り越えようとしました。それでは、人権への現代的批判を受け止め・編み直し・その先を展望しようとする「再定位」は、現実と思想に対していかなる問題提起をしているのか。第1巻だけで評価を下すことは拙速です。第2巻にも期待しましょう。

グランサコネ通信2011-03

グランサコネ通信2011-03

2月25日

24日は雪でした。朝からしんしんと静かに。目が覚めたときに、なんとなく気配でわかってカーテンを開けると、わが宿舎の前庭はすっかり銀世界、周囲の林は見事に雪化粧。寒いけど、楽しい。

パレ・デ・ナシオン本会議場前の廊下で、アメリカ政府が「木のアート」という展示をやっています。いったいなんだろうと説明を見たら、今年は「国際森林年」だそうで、そのための森林保護の企画展示です。アメリカ政府は環境保護に力を入れていますというアピール。コンクリートの廊下の上にビニールシートを敷いて、土を盛って木を並べて、20メートルほどの並木道を演出しています。笑ってしまいますが。2週間の展示で、本日25日が最終日です。

もっと笑えたのは、先日の「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」です。特集記事は、日本の大学生は就職難で、まだ就職活動という紹介で、結構大きな写真つきでした。2010年度の大学生の就職率や、大学側や学生の意識も取り上げて、こんなに困ってます、と。大学を出ても就職できないので早いうちに日本脱出をめざす若者が増えていることも強調。どこが笑えるかって、この記事ではありません。この記事と並んで、早稲田大学の海外向け英文広告が載っていて、早稲田に留学にいらっしゃい、こんなに素晴らしい大学ですよ、って。並べちゃいけないだろう(笑)。欧州の読者は、どう読むのかな。早稲田は広告料返還請求訴訟を起こしたほうがいい。

ちょっと贅沢にChateau LE BOSCQ Saint-Estephe 2006。

1)アイルランド報告書

昼休みに会議室に入ったらアイルランド政府代表団が予行演習していました。邪魔をしてはいけないと席をはずそうとしたら、そこにいてくれ。誰も見てないよりは、見ていたほうが予行演習になるためか。代表団は10人ほどと思ったら、あとから来た人も含めて15人。男女半々。しかし、報告書プレゼンテーションはすべて男が発言。

35団体くらいのNGOで組織された「反人種主義NGO連合」によるNGO報告書をもらいました。カラー印刷で写真も15枚つき、ちゃんと製本した立派な報告書(45頁)です。われわれも学びたいが。

政府報告書(CERD/C/IRL/3-4. 23 September 2010)は第3-4回。前回第1-2回は2004年に提出して2006年に審査を受けています。アイルランドは、1968年という早い時期に条約に署名したにもかかわらず、その後、批准がすすまず、1998年の雇用平等法、2000年の平等地位法を制定した後にようやく批准して、2001年1月に発効したそうです。

報告では、多くの政策が紹介されていましたが、人種差別撤廃欧州会議や、人身売買対策欧州会議などに入っているので、その関係でここ20年ほど、大幅に政策、計画、対処機関の整備をしてきたようです。

条約第四条、ヘイト・クライム関連では、まず前回報告書を見よ、となっています。これは要確認。続いて、1989年の憎悪行為教唆禁止法は、個人住居の外で、書かれた物を出版、頒布すること、言葉を用い、態度、書かれたものを展示すること、又は、視覚的イメージや音響の記録を頒布、上演、展示することは、それが威嚇であったり、憎悪を書きたてようとするものであれば、犯罪としています。「個人住居の外で」には、「もし屋外に居る人が見たり聞いたりできれば、個人住居の中であっても」という補足つきです。また、「出版」にはインターネット上に表現することが含まれるとしています。(この項目は要再確認。前回報告書を見ること)。(それ以前、1939年の国家に対する犯罪法第一八条(d)(e)は、人種差別を教唆するなど違法活動を促進する団体を違法とし禁止しています。同法第二一条は、その団体構成員も処罰しています)。1989年法の下では、上記の行為が、国内外の人の集団に対して、人種、皮膚の色、国籍、宗教、民族、国民的出身、性的志向、又はトラベラー・コミュニティの一員であることを理由に行うことを、禁止しています。同法は司法省で改正の要否について検討中だそうです。

EUのサイバー犯罪条約議定書については検討中。

1994年の公共秩序法は、人種主義的行為と闘うものです。

1997年の刑法第7条1項は、正式裁判にかけられるような犯罪に対する共犯規定であり、1989年法違反はそれに当たります。

1989年法の犯罪は次の3つです。

(a)書かれたものを出版又は頒布すること。

(b)個人住居の外で、言葉を用い、態度、書かれた物を展示すること。又は、その言葉、態度、物がその住居の外にいるものによって聞いたり見たりできる場合は個人住居の中でも。

(c)それが威嚇であったり、憎悪を書きたてようとするものであれば、視覚的イメージや音響の記録を頒布、上演、展示すること。

2003年から08年の統計一覧が掲載されています。

警察が記録した事件:64(03年)、68(04年)、100(05年)、172(06年)、214(07年)、172(08年)

捜査された事件:29(03年)、28(04年)、56(05年)、91(06年)、135(07年)、98(08年)

訴追された事件:21(03年)、16(04年)、47(05年)、70(06年)、85(07年)、50(08年)

有罪判決数:4(03年)、9(04年)、20(05年)、26(06年)、29(07年)、3(08年)

+ただし、控訴等のため未確定事件を含む。

アイルランド報告で特徴的だったのは、第一に、NGOとの協議をとても強調していたことです。報告書にも明記されていますが、プレゼンテーションでも冒頭からNGOのことを話していました。NGOの意見を聞いて、政府報告書を再検討したとの事です。

第二に、私の個人的感慨ですが、トラベラーのことがようやくわかりました。政府報告書にTraveller Communityが繰り返し出てきます。NGO報告書にはTravellerのデモの写真も2枚出ています。デモのプラカードには「PRIDE」「RESPECT OUR NOMADIC CULTURE」とあります。アイルランドではジプシーではなくトラベラーと呼ぶのです。自称しているのです。2001年のダーバン人種差別反対世界会議のときに、多くのジプシーが来ていました。ところが、自分たちはジプシーではなくロマだというグループもいれば、シンティだというグループもいました。地域によって呼称が違いますし、それぞれが自分たちをどう呼んでいるかが優先されるべきです。ダーバンNGO宣言ではたしか「ジプシー/ロマ/シンティ/トラベラー」となっています。私は少し勘違いしていました。ジプシー、ロマ、シンティには実際に会ったので、なるほどいろんな呼び方があるので、「ジプシー/ロマ/シンティ/トラベラー」と並べたんだ、と受け止めていました。その時の私の受け止め方は「トラベラーは<その他>を一般的に指す」という感じでした。しかし、誰だったか忘れましたが、「トラベラーもいる」と教えてくれた人がいました。でも、それっきりになっていました。アイルランド報告書にははっきりとTraveller Communityと明記されています。審査の中ではジプシーやロマも用いられていました。10年たって、ようやく答えに出会いました。

2)ノルウェーの反差別法とdescent

前回のグランサコネ通信に書いたノルウェー報告書ですが、人種差別撤廃委員会の審査の時に、ちらっとdescentという言葉が出ました。報告書には出ていないので、私の聞き違いかもしれません。気になったので、少し調べてみたら、前回2006年のノルウェー報告書(CERD/C/497/Add.1)に、2005年反差別法の紹介が載っていて、そこにdescentが出ていました。今回の報告書には簡単なことしか出ていません。2005年6月3日の反差別法ですが、最初に委員会が法案を起草したときには民族差別だけを取り上げていたのが、最終的にできた法律では、民族、国民的出身、世系(門地、descent)、皮膚の色、言語、宗教及び信仰に対する差別を禁止することになったそうです。理由は明示されていませんが、基本的には人種差別撤廃条約にあわせたのでしょう。問題はdescentですが、なぜdescentが取り上げられたのか、何を念頭においているのか、前回報告書には書いてありません。

descentが気になるのは、日本と関係するからです。descentは、従来の日本の法律上の言葉では「門地」ですが、人種差別撤廃条約を批准した時に、日本政府は突如として「世系」という言葉を持ち出しました。これが公定訳となっています。そして、日本政府は「世系は人種に準じる概念である」と言います。何を言っているかというと、部落差別は人種に準じるような範疇ではないから世系には当たらず、従って人種差別撤廃条約と部落差別は関係ない、という趣旨です。私たちNGOは、日本政府見解が誤りであると主張してきました。人種差別撤廃委員会も、部落差別に条約が適用されることを認めています。2001年も2010年も。でも、日本政府は自説を曲げません。

こういう経過があるので、ノルウェーのdescentが気になりました。前回報告書で、反差別法にdescentが出ていることはわかりましたが、それ以上のことはわかりません。ノルウェーで調べるしかないようです。私には無理。

条約にdescentが明示されていますし、かつて人権委員会と小委員会の時代から、このテーマは職業にかかわる差別など、様々に取り上げられてきました。NGOの反差別国際運動IMADRが大きな役割を果していました。そうした流れで、各国の人種差別禁止法、反差別法にdescentが盛り込まれているとすれば、それがどのように解釈されているのかを調べることも必要です。

なお、昨年のグランサコネ通信でも書きましたが、2010年2月24・25日に人種差別撤廃委員会で、外務省人権人道課長ほか日本政府代表団は「世系」を「せけい」と読んでいました。しかし、人種差別撤廃条約を批准した当時、そして2001年の人種差別撤廃委員会の時には「せいけい」と読んでいたのです。ここに日本政府の特質が現れています。たいした問題ではないと思っているから、読み方さえ継承していないのです。部落差別問題を軽視し、人種差別撤廃委員会も軽視していると見るべきでしょう。日本の外務官僚は、この程度のことさえ引継ぎができない(笑)。そういえば、漢字の読めない首相、どこかにいましたね。

グランサコネ通信2011-02

グランサコネ通信2011-02

2月22日

1)週末

東京の花粉症と雑務から逃れてきましたが、原稿締め切りは追いかけてくるので、週末は原稿に専念していました。全部仕上げてから来るつもりだったのですが、できなかったため。平和への権利の原稿は、3月の人権理事会でも多少は議論になるはずなので、いいタイミングで予習兼復習です。NGOとしても、宣伝活動をしなくてはなりません。

グランサコネはただいまコミューンの選挙期間です。あちこちに選挙ポスターが貼られています。それぞれ「リスト」と書かれていて、候補者の写真が掲載されているのが多いですが、写真のないものもあります。選挙制度がどうなっているのか知りませんが、特定候補者への投票ではなく、党派への投票のようです。

2)人種差別撤廃委員会

先週、ボリヴィア、キューバ、ウルグアイの政府報告書審査があり、今週はノルウェー、アイルランド、スペイン、セルビアなどの政府報告書審査です。

ノルウェー報告

ノルウェー代表団は7人で、女性が5人。進行役は外務省の女性、総括報告も、サーミ人担当省の報告も女性で、ヘイト・クライムの部分だけ検察官の男性が報告していました。傍聴席に若い男女が15人ほどいました。私の隣に座った男性はオスロ大学学生で、なんとNGOではなく、政府の援助でお勉強にきていました。委員会のノルウェー報告書担当はデグート委員。その後、ディアコヌ、ソンベリ、アフトノモフ、リングレン、クイックリー、ピーター委員が質問していました。質問の多くは、サーミ人、ユダヤ人、ロマ、移住者の権利、教育における人権と非差別、社会統合政策(教育、就労、社会保障)、インターネット上の差別に関するもので、ヘイト・クライムにはついでに触れる程度でした。

ノルウェー報告書(CERD/C/NOR/19-20. 12 August 2010)のヘイト・クライム記述は2つにに分かれています。一つ目は、条約第2条の部分。

2006年11月22日、警察は、刑事司法において、人種、民族、宗教、性的志向に基づく憎悪や偏見が動機となった犯罪の報告制度を開始しました。犯罪の動機の登録確認については多くの問題があります。報告されない事案もあります。

オスロ警察と警察庁は、2007年に、警察が指定した憎悪を動機とする犯罪を調査するプロジェクトを始めました。プロジェクトは2008年秋に終了し、今は評価段階です。警察庁は、ヘイト・クライムの適切な登録についての実施措置を発表するでしょう。

もう一つは条約第4条に関する部分です。

1902年一般刑法135条(a)は、人種主義表現及び人種主義者のシンボル使用に対して刑罰を課していましたが、2003年1月10日及び2005年6月3日に改正され、民族差別からの保護を強化しました。

2005年新刑法は、報告書作成時点ではまだ発効していません。1902年刑法135条(a)と349条(a)に代わって、新刑法185条と186条が規定されています。新刑法185条の前文は、185条が、旧135条(a)の改正であり、人種差別撤廃委員会の関連する指摘に照らして解釈されなければならない、と明示しています。185条第1項第3文は、行為(発言)が、誰かがいる場で行われた場合にのみ、差別的なヘイト・クライムとなるとしています。つまり、発言が公然と行われたことは要件ではありません(従来は公然と行われたことが必要でした)。新規定は、障害を持つ人をヘイト・スピーチや差別から保護することにしました。2005年一般刑法第16章は、ジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪を罰することにしています。

ノルウェー法では、裁判所は量刑に際してかなり幅広い裁量権を有しています。しかし、2005年新刑法77条は、刑罰を加重する事由を掲げています。77条(i)によると、犯罪が「他人の宗教、皮膚の色、同性愛志向、障害その他の事由」を背景に持つ場合、裁判所はそれを刑罰加重事由として考慮しなければなりません。もともと加重事由とできましたが、犯罪が人種的動機に基づく場合の刑罰加重がより明確に規定されました。

2007年12月21日の最高裁決定は、1902年一般刑法135条(a)が、人種主義表現からの保護を定めたものであることを確認しています。事案は、「Verdens Gang」という新聞に掲載されたインタヴューでユダヤ人に対して述べた発言に刑法135条(a)を適用するか否かというものです。公訴事実は、「Vigrid」の指導者が次のように発言したというものです。2003年7月14日に発行された同紙に、被告人は、「Vigridは社会で力をつけて、ユダヤ人を一掃する」などと述べました。さらに、「ユダヤ人こそ主要な敵だ。奴らはわが人民を殺した。奴らは殺人者だ。人間じゃないし、一掃されるべき寄生者なんだ。奴らはわが人民を何万も殺し、我が国の国力を奪った」と述べました。さらに、Vigridはユダヤ人と戦争状態にあり、メンバーは武装訓練中だとし、ユダヤ人や移住者を攻撃するつもりかと問われて、被告人は、「望ましからざる事態がわが人民に起きさえしなければ・・」という趣旨のことを述べた。

最高裁は、被告人の発言は、明らかにユダヤ人の統合を侵害する行為を鼓舞し支援するものであり、それによって重大な性質を持った違反であると、明確に認定しました。旧刑法135条(a)に示された、ある集団の人間の尊厳への重大な引き下げに当たると判断されました。

警察庁とオスロ警察は,2009年1月に「ヘイト・クライム--2007年に登録された申立事例」という報告書を出版しました。報告書によると、2007年には、257件の届出がありました。そのうち、人種や民族に関連する動機が209件、宗教に関するものが19件、被害者の性的志向に関するものが29件でした。

以上がノルウェー報告書の該当部分の概要です。

以下は余談。1902年刑法の量刑に関する記述は、日本刑法とも関連します。というのも、1908年日本刑法の条文を一目見れば明らかに1902年ノルウェー刑法に似ているからです。

日本の刑法教科書の多くに、「現行日本刑法はドイツ刑法に学んだ」と書いてありましたが、真っ赤な嘘です。当時も今も、ドイツ刑法と日本刑法はぜんぜん似ていません。基本思想が違います。犯罪成立要件の規定方法も、量刑原則も、基本的に違います。当時も今も日本刑法学者がドイツ刑法学に圧倒的に影響を受けて、ドイツ刑法学を学んでいることは事実です。しかし、刑法典には、影響関係はありません。

1908年日本刑法ともっともよく似ているのはノルウェー刑法です。19世紀末から20世紀初頭にかけての新派刑法思想の産物です。ですから、日本刑法でも、裁判官の裁量が著しく広いのです。例えば、刑法199条の殺人罪の法定刑は、死刑、無期もしくは5年以上の懲役、です。以前は3年以上の懲役でした。3年以上の懲役ということは、執行猶予を付すことができました。つまり、殺人罪には、上は死刑から、下は執行猶予で1日も刑務所に入らなくてもすむというところまで、信じがたい広い裁量の幅が設定されているのです。もちろん、長い年月に量刑相場ができあがっていましたから、裁判官個人の自由裁量というわけではないともいえますが、いずれにしても裁判官の裁量権が著しく広かったのです。

フランス革命期の刑法や、「ドイツ刑法の父」フォイエルバハの思想によれば、犯罪と刑罰は明確な対応関係を有することが必要でした。罪刑法定原則の内容には、犯罪なければ刑罰なし、だけではなく、犯罪と刑罰の均衡という重要な内容が含まれています。この観点から厳密に言えば、日本刑法の刑罰規定は罪刑法定原則違反です。しかし、裁判所も刑法学者もこのことには口をつぐんできました。

3)山口進・宮地ゆう『最高裁の暗闘--少数意見が時代を切り開く』(朝日新書、2011)

多少時間の余裕があるので、原稿に追われながらも趣味の読書ができます。20代の頃は年間目標1000冊だったのに、最近は忙しくて2日で1冊クリアするのも困難です。薄い新書・文庫本をまとめて読んで何とか帳尻あわせ。

本書は、この10年間の最高裁判決を素材とした判決形成過程の追跡です。アメリカ法学では判決形成過程論は非常に重要な研究分野です。ところが、日本では、判決形成過程を研究するための十分な資料を研究者が入手することができなかったため、この分野の研究は低調でした。退職後の元裁判官のエッセイなどをみて、えっ、そうだったのか、と知るということも珍しくはありません。本書の筆者は朝日新聞記者です。死刑、在外邦人選挙権、行政訴訟(藤山判決をめぐって)などで動き始めた最高裁について、元判事、調査官その他への取材も通じて、判事の入れ替わり少数意見と多数意見の変遷を分析しています。かつて政治イデオロギー闘争の前面に最高裁が乗り出した時代とは違って、判決における少数意見と多数意見の対立が、それなりに「法律論」にまとまってきたことが、本書の前提です。

4)蜷川真夫・石川幸憲『ウィキリークス』(アスキー新書、2011)

「まるで凱旋インタビューのようだ」という一文で始まります。保釈された記者会見のジュリアン・アサンジの写真が、あたかもアサンジとその仲間・弁護士たちによる凱旋インタビューのように配置されているのはなぜかから本書は始まるのです。ウィキリークスとは何か、どのようにして登場してきたのか。ジャーナリストか、テロリストか。アサンジとは何者か。アサンジ逮捕は何を意味するのか。ウィキリークスはメディアの将来に何を生み出したのか。著者は元「アエラ」編集長と、在米ジャーナリスト。とりあえず話題のウィキリークスについて知るのに便利な1冊です。

5)服部正『アウトサイダー・アート--現代美術が忘れた「芸術」』(光文社新書、2003)

アウトサイダー・アートとは、必ずしも明確に定義づけされた言葉ではないそうですが、正規の美術教育を受けていない作者による作品、「生の芸術」「加工されていない芸術」、あるいは、「芸術的教養に毒されていない」表現のことです。「障害のある人の作品がアウトサイダー・アートなのではなく、視覚イメージの社会的な操作という網をかいくぐった表現であるアウトサイダー・アートには、結果的に障害のある人の作品が多く含まれる」。本書はヨーロッパと日本のアウトサイダー・アートの簡潔な歴史を踏まえて、今日の代表作を紹介しています。口絵には、フェルディナン・シュヴァルの「理想宮」、冨塚純光の「明るい話 正しい人」、小幡正雄の「結婚式」、坂上チユキ、寺下春枝などの作品。辛淑玉さんの「となりのピカソ」を思い出しました。

6)伴野準一『全学連と全共闘』(平凡社新書、2010)

<「革命って何ですか?」 闘争を知らない世代のノンフィクション作家が描く もう一つの「学生運動」>

オビの宣伝文句の通り、著者は1961年生れです。全学連にしても全共闘にしても、これまで多くは当事者の回顧や、同時代の人による論評が中心でした。資料集や写真集もずいぶん出ました。渦中の人たちの著作や証言はもちろん重要ですが、ひとりよがりなところも目立つのが実際です。逆に、全く語らない人たちもいます。それに対して、本書は、文献と取材に基づいて、対象から距離を一歩置いて検証しながら、同時に、当時の若者の「物語」として、あの時代を切り取っています。砂川闘争、安保闘争、ブント、東大闘争、内ゲバ、そして連合赤軍へ。島成郎、森田実、生田浩二、清水丈夫、唐牛健太郎、黒田寛一、塩川喜信、青木昌彦・・・・よく知られている時代を取り上げているだけに、後から来た世代には書きにくいところでしょうが、著者は、手際よく新書1冊にまとめています。

ハチのムサシは死んだのさ

真っ赤に燃えてるお日様に

闘い挑んで負けたのさ

焼かれて落ちて死んだのさ

実は学生運動の若者たちを歌ったセルスターズの「ハチのムサシは死んだのさ」のエピソードは、おもしろいのですが、この部分の文章は、前後とつながりがなく、浮いているのは残念。

グランサコネ通信2011-01

グランサコネ通信2011-01

2月19日

1)人種差別撤廃委員会78会期へ

花粉症と雑務から逃げてジュネーヴに来ています。パレ・ウィルソン(人権高等弁務官事務所)で人種差別撤廃委員会78会期が開かれています。来週には国連人権理事会16会期が始まります。

18日に、パレ・デ・ナシオン(国連欧州本部)で年間登録入構証の切り替えをしました。午前中はパレ・デ・ナシオンの様子を確認し、午後はジュネーヴ市内をお散歩しました。ジュネーヴは寒いですが、おおむね東京と同じような気候です。よく晴れていて、レマン湖の噴水がとてもきれいです。モンブランは惜しくも見えませんでした。雨が降るとぐっと寒くなりますが、18日の昼間は快晴で結構暖かでした。

去年は、2月24・25日に人種差別撤廃委員会76会期で日本政府報告書の審査がありました。早いものであれから一年です。朝鮮学校の高校無償化からの除外問題が起きて、人種差別撤廃委員会が、これは差別であると指摘したのが、一年前の2月24日の審議でした(日本政府に対する委員会勧告は3月11日)。しかし、日本政府は差別をやめようとしません。しかも、菅政権は、勝手に基準を変え、政治問題を教育に持ち込んで、しつように差別する姿勢を明確にしています。

2)鄭大世『ザイニチ魂! 三つのルーツを感じて生きる』(NHK出版新書、2011)

成田空港内の書店で新書をたくさん買いました。その中の1冊。ワールドカップの朝鮮代表となるまでの思い、日本での闘い、そしてこれからを語った本です。在日の元・政治学者にして芸能人による「大世よ、国境なんて踏みつぶせ! ゴールに在日魂を!」という推薦文がついています。大世は、いまはドイツ・ブンデスリーガのボーフム所属で、当面の目標は1部に這い上がること、次はイングランド・プレミアリーグにいき、「アジアの大世」から「世界の大世」になり、そして次のワールドカップ朝鮮代表として「1勝以上する」ことだそうです。

昨年12月、私は「2010年の排外主義と人種差別」という論文で「対向するメッセージ」と書きました。

朝鮮学校側のメッセージは、(1)大世がワールドカップで活躍、(2)大阪朝鮮学校は花園で活躍、(3)ボクシングでは世界チャンピオン、(4)朝鮮大学校卒業生が司法試験合格。

これに対して、日本側のメッセージは、(1)高校無償化からの除外、(2)在特会による襲撃事件、です。菅政権は日本社会に向かって「朝鮮人はどんどん差別しても構わない」という「差別のライセンス」をいまでも毎日発行しています。

3)長妻昭『招かれざる大臣 政と官の新ルール』(朝日新書、2011)

その菅政権の最初の厚生労働大臣であった著者による、鳩山政権および菅政権の367日の厚生労働大臣としての経験をまとめた本です。2009年の政権交代の象徴的存在でもあった著者が、野党時代にどこまで闘い、大臣としていかなる闘いを続けたのかを丁寧に書いています。政治家と官僚が対立するのではなく、政治家が官僚を使いこなすために、どのような改革が必要かを考え、そのためにできることは任期中にやったので、これから結果が現れるはずだという主張です。はて、そうなるの? エピソードはおもしろい。

4)三井環『ある検事の告発』(双葉新書、2010)

大阪高検時代に検察の裏ガネ問題を告発しようとして逮捕され、監獄体験までしながら、闘い続ける著者の1冊。すでに数冊出ていますが。裏ガネ問題の経過、裁判の様子、元は私憤に発したが義憤であり闘い続けなければならないことが示されています。当時の検事総長以下、検察首脳全員の犯罪を告発していましたが、なにしろ大阪ですから、昨年の大阪地検特捜部にも言及があります。著者を引き摺り下ろした犯罪者の一人が、あの「最高検のストーリーには乗らない」の大坪弘道氏です。ですから著者は、いまでも大坪氏を許していませんが、大坪氏が真実を話して検察の腐敗と闘うのならば全面支援すると、呼びかけています。大坪氏の弁護人には、ヤメ検ではなく、同窓生たちがついたそうですから裁判はおもしろくなるかもしれません。ともに検察から地に堕ちた著者・三井氏も大坪氏も「白門」の先輩ですが、私に言わせれば、一時期の問題でも大阪の問題でもなく、いまの検察問題は、皮も身も腐ったリンゴと芯まで腐ったリンゴの内輪喧嘩。