グランサコネ通信2011-04
2月25日
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1)スペイン報告書
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スペイン政府代表は10人ほどで、男6、女4くらいでした。プレゼンテーションはすべて男がやりました。憲法と憲法裁判所の話、外国人法という法律の話が興味深かったのと、なぜか報告書には出ていないのですが、委員からはジプシーについて繰り返し質問が出ていました。
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人種差別撤廃の観点では、条約第2条の立法による解決、第5条の差別と人権の規定が重要で、各国がどういう法政策を展開しているか、具体的な政策・計画・プログラムはどうか、教育・雇用・福祉などの諸分野で何が行われているか、NGOは何を提案し、どのような監視をしているかなども見ておきたいのですが、なかなか手がまわりません。ヘイト・クライム関連情報を追いかけるだけで精一杯です。
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第18-20回スペイン報告書(CERD/C/ESP/18-20. 2 November 2009)によると、刑法には、人種差別と闘うための規定が多数あります。
(a)刑法第22条2項は、人種主義、反セミティズム、その他の形態の人種や民族集団に基づく差別に動機付けられた犯罪について、刑罰加重事由としています。
(b)刑法第149条は、性器切除を独立犯罪としています。
(c)刑法第161条2項は、genetic manipulation や human cloning に関する犯罪を定めています。
(d)刑法第170条は、民族集団への攻撃の脅迫を犯罪としています。
(e)刑法第187条と第190条は、少数者の売春に関する犯罪を処罰しています。
(f)刑法第197条5項は、人種的出身を明らかにする秘密情報を開示することに重い刑を科しています。
(g)刑法第312条と第314条は、労働許可のない外国人を、その人権を侵害したり、民族集団、人種又は国民の構成員であることなどの理由で雇用において差別をした場合、処罰しています。
(h)刑法第510条は、人種主義、反対セミティズム、又は民族集団や人種の構成員であるという理由で差別、憎悪、暴力を教唆することを犯罪としています。
(i)刑法第511条は、人、組織、財団、協会、企業、又はそれらの構成員に、民族、人種、又は国民的出身に基づいて、個人が公的地位につくことを否定することを犯罪としています。刑法第512条は、同様に、専門職や商業活動について否定することを犯罪としています。
(j)刑法第515条は、個人、集団、組織に、そのイデオロギー、宗教又は信仰、又はその構成員の全部又は一部が特定の民族集団、人種又は国民に属することを理由に、差別、憎悪又は暴力を促す団体を、処罰される違法団体としています。
(k)刑法第522条から第525条は、良心の自由に対する犯罪を定めています。
(l)刑法第610条は、ジェノサイドの罪を定めています。
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人種差別煽動処罰を求める条約第4条との関連で重要な規定は、刑法第312条、第510条、第512条、第610条、並びに、2007年7月11日の「スポーツにおける暴力、人種主義、外国人排斥及び不寛容に関する法律です。
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2007年11月7日の憲法裁判所判決は、バルセロナ高等裁判所決定が2000年に提起した、刑法第607条2項の違憲性について結論を出しました。事案は、第2次大戦関連専門書店経営者が、ユダヤ人共同体への迫害やジェノサイドを繰り返し、共同体構成員を貶める方法で、否定するドキュメンタリーや伝記を販売・頒布したというものです。
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バルセロナ刑事裁判所は、刑法第607条2項に定めたジェノサイドの罪を否定、又は正当化する思想・信条を流布した罪で、書店経営者を有罪としました。バルセロナ高等裁判所は、違憲性について判断が必要として事案は憲法裁判所に付託されました。
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憲法裁判所は、ジェノサイドの否定が、そのテーマに関する意見・思想の単なる伝達であるなら、たとえその思想が人間の尊厳に反していても、積極的な見解の表現を通じて犯罪を促すものでなければ、犯罪とすることはできないと判断しました。従って、憲法裁判所は、刑法第607条2項第一文の「否定する」という文言は意見であるとしました。abominable、要確認前回報告書。
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しかし、憲法裁判所は、ジェノサイドの「正当化」について、ジェノサイドの実行の間接教唆、又は皮膚の色、人種、宗教、又は国民的民族的出身によって規定された集団への憎悪を促すような思想の公然たる流布であり、一定の差別行為に至る暴力や敵意の雰囲気を作り出すものであり、犯罪であるとしました。この意味で刑法第607条2項第一文の「正当化する」は合憲とされました。
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2005年2月14日の憲法裁判所判決は、外国人被収容者の出国を否定した事案で、それが一定の条件の下では人種差別に当たるのではないか、憲法上の権利の行使について判断しました。被収容外国人の国籍に基づくとすれば、憲法第14条はそうした差別を禁止しています。平等の権利は、スペイン人にも外国人にも認められるので、「他人と同じ取り扱いを受ける権利」ですが、「他人により良い取り扱い」がなされていれば憲法第14条違反となると判断しました。
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2004年11月30日のラリオジャ高等裁判所決定は、刑事裁判所が、移住者集団に対して敵意をたかめるために公共機関事務所にチラシを配布した2人を、チラシで用いられている人種主義的表現が刑法第510条1項の人種差別煽動にあたるとして有罪にしたのを、支持しました。
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2007年12月12日のソリア高等裁判所は、少年少女たちが、一人のクラスメイトに、アラブ系であることを理由に侮辱を加えた事案が、刑法第22条4項にいう、強要や嫌がらせに当たるかどうか、刑罰加重事由に当たるかどうかを審議するべきとの検察官の請求を認めました。
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2006年11月16日のジェイダ刑事裁判所決定は、インターネットを通じて人種主義と外国人排斥を煽動した2人を刑法第510条違反で有罪としました。本決定で重要なのは、インターネットを手段として行なわれた事案を、人種的動機に基づいて集団又は組織に対する憎悪及び暴力を煽動したとして刑法第510条を適用した初めての事例だからです。
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人種差別を煽動する組織を違法とし、処罰し、宣伝活動を処罰する措置に関して、スペイン憲法も刑法も、ある民族集団、人種又は国籍に属することに基づいて差別、憎悪、暴力を促す組織を違法としています(憲法第22条、刑法第515条)。刑法第519条は、違法な組織の犯罪を犯す教唆、共謀、意図を処罰しています。刑法第520条は、裁判所に、違法な組織の解散を命じる権限を与えています。
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スペイン刑法にはいろいろな関連規定がありますが、正確な条文が紹介されていないので、前回までの報告書をチェックする必要があります。
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2)市野川容孝編『人権の再定位1 人権の再問』(法律文化社、2011)
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全5巻のシリーズで、「人権の再定位」を試みる、現代的な挑戦です。5巻は次の通り。
第1巻 人権の再問 市野川容孝編
第2巻 人権の主体 愛敬浩二編
第3巻 人権の射程 長谷部恭男編
第4巻 人権の実現 斎藤純一編
第5巻 人権論の再構築 井上達夫編
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代表は井上達夫(東京大学教授、法哲学)です。編者たちの名前だけを見て単純化して言えば、リベラリズム法学・思想による人権論の再興、です。執筆者をすべてリベラリズムでくくるわけにはいきませんが、全体として「リベラリズムを自ら超えようと模索するリベラリズム」というところです。こう言うと、編者たちは、否定するかもしれませんが。
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最初は全部読む必要はない、一部だけ読もうと思っていたのですが、読むべき論文を選んでいくのも大変ですし、コンサバティヴやネオリベラリズムとの対抗の中で、いま、日本のリベラリズム法・思想は何を目指しているのか、知りたいので、せっかくだから全部読むことにしました。今回1巻と2巻を持参。
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第1巻の目次は次の通りです。
第一部 現実から/現実を問い直す
第1章 グローバルな人権の課題 斉藤龍一郎
第2章 障害と人権 金 政玉
第3章 老いをめぐる新たな人権の在り処 天田城介
第4章 セクシュアリティと人権 風間 孝
第5章 貧困の犯罪化 西澤晃彦
第二部 思想から/思想を問い直す
第6章 フェミニズムと人権 岡野八代
第7章 国境と人権 杉田 敦
第8章 保守主義と人権 宇野重規
第9章 生命倫理と人権 田中智彦
第10章 安全性の論理と人権 市野川容孝
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第一印象は定価が高いことです。横書き1ページ29行、220ページで3000円(本体)。この分量なら私の本は2200円です。10人もの執筆者がいて、みんなで宣伝・販売に協力するのでしょうから、2500円以下にするべき。今は、もっと高額の本が増えているのでやむをえないか。
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第一部の5本の論文は「現実から/現実を問い直す」とあるように、例えば、斉藤論文は、HIV陽性者のエイズ治療について、先進国では容易に治療できるのに、製薬会社の知的所有権保護のために治療薬が高騰しているため、途上国では治療が困難である現実に対して、HIV陽性者の間から運動が立ち上がっていた経過を論じています。「人権の普遍性」といいながら、先進国と途上国との間には現実の大きな溝があること、及び、企業の権利と人権とが衝突していること、しかも、企業の権利はWTO体制が国際的に支えていることが論点です。
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あるいは、金論文は、日本における障害者権利運動をトレースし、そこでは障害を個人の問題に帰する「治療モデル」と、障害者とされる人々を取り囲む社会の配慮の欠如、結局、社会による障害者の可能性の剥奪に注目する「社会モデル」の対比の中で、障害者権利条約の意義を評価し、障害者差別禁止法を展望します。「善意による恩恵という差別」を克服するために、権利概念を改めて拡充する必要性を明らかにしています。
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天田、風間、西澤論文も、それぞれ老い、セクシュアリティ、貧困をテーマに、それぞれ異なる手法で、「人権」がいかにして立ち止まるのか、どこに突破口があるのかを探っています。
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第二部の「思想から/思想を問い直す」では、岡野論文は、歴史的に自然権として構築された人権が、最低限の権利とされながら、その最低限とは人権を認められた者にとっての最低限でしかないこと、そして人権が国家の枠内に閉じ込められ、国家によって保障されるが故に、逆に人権が国家を正当化していることに焦点を当て、日本軍従軍<慰安婦>とされた女性たちが訴えたことは、そうした地平をも乗り越えるような問題だったのではないかと論じています。
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宇野論文は、あえて保守主義の論説に身を寄せて「人権批判の系譜」を確認します。古典的な人権批判としては有名なエドマンド・バーク、カトリック教会、そしてマルクスによる人権批判を検証しています。(マルクスが保守的であったというのではなく、著者によれば、初期マルクスの人権批判はその論理構成においては保守主義と共通する、のだそうです。私はそうは思えいませんが)。次に現代的批判として、1980年代以後、例えばクロード・ルフォール、マルセル・ゴーシェによる批判を挙げています。論点は「人権と政治」です。保守主義の論理をきちんと見すえておく必要性がありますし、ルフォールやゴーシェについてはよく知らなかったので勉強になりました。また、近代人権論への批判の第一波がバーク、第二の波が現代というのは、私の主張と同じです。もっとも、第二の波の理解は違います(後述)。著者の結論は、「今後、人権を理念的にも、また実践的にも、よりよく実現して威光とするならば、むしろ保守主義的な思考との対話が有益であろう。この対話を通じて、人権が人と人とをつなぐ役割をはたし得ることを論証し、さらに、人権という理念を支えるのは何なのか、議論を続けていくことが大切である」です。これだけ引用すると、当たり前すぎてつまらない話になってしまいますが、その前にきちんと保守主義の論理を検証しているので、論文全体を見れば説得力があります。
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他の論文も、それぞれ教えてくれることは少なくありません。本書全体を通じて、さまざまなことを学びましたが、それは置いておいて、物足りなさも感じずにはいられません。
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一番基本的なことから言うと、なぜ「現実から/現実を問い直す」「思想から/思想を問い直す」なのか。そもそも問題設定自体に疑問を感じるからです。なぜ「現実から/思想を問い直す」「思想から/現実を問い直す」ではないのか。現実に向き合い、現実の中から提示されている問題に解決を与えるための思索をめぐらす問題意識があれば、そして現実と拮抗する思想をつむごうという姿勢があるのなら、当然こうあるべきです。これは揚げ足取りではありません。もっとも基本的な方法論の違いを意味するからです。
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上記で宇野論文に関連して「第二の波の理解は違います(後述)」と書きましたが、近代人権論に対する現代的批判を、単に1980年代のフランスにおける「人権と政治」論議で代表させているところに大きな疑問があります。近代人権論に対する現代的批判はそんなに瑣末なものではないはずです。近代における近代人権論批判、第一の波が、一方では伝統的・保守主義的批判であると同時に、階級やジェンダーやさまざまな差異の現実が浮き上がる局面での批判であったのに対して、仮に宇野の言う1980年代を取り上げるとしても、そこに生じている現代的批判は、直接的には、近代世界の変容(資本主義世界の変容、科学技術の発達、人間の社会的交通の変容等々)による現実の変容に伴う新しい人権現象の問題です。
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第一に、より射程を大きく広げると、西欧近代が生み出した人権概念と、植民地的近代に生きる人々が抱える現実との矛盾を避けては通れません。1960年代に始まる植民地独立と新植民地主義、1980年代の新世界国際秩序、そして2000年代のダーバン宣言とポスト・ダーバンが視野に入れている射程から言えば、問題は、「現実から/思想を問い直す」「思想から/現実を問い直す」でなければならないはずです。歴史的に展開してきた営みは「現実から/思想を問い直し、その思想から/現実を問い直し、その現実から・・・」という反省と革新の反復の共同作業のはずです。そこからこそ真の保守主義が再興するはずです。宇野の言う保守主義なるものは「西欧近代という井の中の保守主義」に過ぎないでしょう。
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第二に、たしかに1980年代以降の世界の変動に応じて、人権概念に対する挑戦がありました。20世紀末/21世紀初頭の国連人権委員会の議題の中に、次々と新しい人権概念が取り上げられていました。「女性に対する暴力」「水の権利」「大量破壊兵器と人権」「多国籍企業と人権」「現代科学技術と人権」「ヒトゲノムと人権」をはじめとする数々の人権論議が行われたのは10年以上前のことです。国連人権委員会は、国連の中の、国家による組織ですから、新しい人権概念を取り入れるのには時間がかかって、人権の現場よりもやや遅れます。その人権委員会でさえ、次々と新しい人権が議論されていました。そうした議論の経過や様子は「人権の再定位」第1巻にはあまり見られません。
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例えば、私がいま取り組んでいる「平和への権利世界キャンペーン」は、人権委員会、そして現在の人権理事会で長期的に議論されています。「人民の平和への権利」の新しさの中で重要なのは、1つは、「平和」という「状態を指す概念」を「権利としての平和概念」に転換したことです。2つには、個人の権利ではなく、「人民という集団の権利」を唱えていることです。人民の自決権、平和的生存権、環境権、発展の権利といった権利は、個人の権利であると同時に集団の権利として構成されています。3つには、平和への権利はすべての人権(市民的政治的経済的社会的文化的権利)の基礎であるとしていることです。これら3つののことが近代的人権論に対するきわめて根本的で深刻な問題提起であることは言うまでもありません。これは一例に過ぎませんが、人権の現場では、近代的人権論を凌駕する動きが次々と起きてきました。そうした議論の成果が「人権の再定位」第1巻には反映していないのです。
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出版されたのはもう40年以上前になるでしょうか、かつて、私たちは全5巻の講座『基本的人権』を手にし、これに学びました。今回の「人権の再定位」全5巻は、『基本的人権』とは大きく異なる状況(世界政治経済の状況、日本社会の状況、人権を巡る理論状況)の下で、異なる問題意識で構成されています。両者を単純に比較することはできません。ただ、一点だけ両者の違いを指摘するとすれば、『基本的人権』全5巻に満ち溢れていた(今から振り返れば過剰なまでの)方法意識が、「再定位」(少なくとも第1巻)には希薄なことです。『基本的人権』は、近代的人権そのものに肉薄し、それを乗り越えようとしました。それでは、人権への現代的批判を受け止め・編み直し・その先を展望しようとする「再定位」は、現実と思想に対していかなる問題提起をしているのか。第1巻だけで評価を下すことは拙速です。第2巻にも期待しましょう。