Tuesday, March 07, 2017

大江健三郎を読み直す(76)棄教・転向・「人間宣言」の後に

大江健三郎『宙返り(上)』(講談社文庫、2002年[講談社、1999年])
本書出版時、3つのことで話題になったのを覚えている。1つは、ノーベル賞受賞後初の長編小説だ。2つは、「最後の小説」(大江自身の言葉)と目された『燃え上がる緑の木』以後の最初の小説であり、それゆえ本作こそが「最後の小説」か(これも裏切られたが)。3つは、オウム真理教事件以後の小説において、反社会的宗教団体を取り上げたこと。関心はあったが、ノーベル賞受賞後、大江作品を読まなくなったので、本書も今回初めて読んだ。
10年前に宗教団体の一部の急進派が原発を占拠・破壊することにより社会に世界の終わりを意識させようとしたが、これを阻止するために教組が、自ら「すべては冗談でした」と棄教を宣言した。
それから10年、地獄に降りて苦悩の歳月を過ごした教組が、新しい補助者たちとともに、教会を設立しようとする。上巻の舞台は東京およびその近郊である。主人公格の木津はアメリカ東部の大学芸術学の教授だったが、癌の予感と、若い青年・恋人との新しい生活のために、蘇生する教組の新しい教会づくりに協力する。
その場は、大江の故郷・四国の森の中であり、『燃え上がる緑の木』の教団が根拠地とした、あの建造物である。前の教団崩壊の後、全く別の教団が10年の歳月を経て同じ場所に着地する。
上巻では、教組、木津、若い恋人、その他、新しい教団を支えていく人々が登場し、お互いに支え合い、東京を発って、四国の森に到着するまでを描く。
テーマは、大江年来の「魂のこと」であり、「根拠地」である。『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』『M/T』『燃え上がる緑の木』と書き継ぎ、書き直してきたテーマを、今回は、「宙返り」――棄教後の再興、転向後の再転向がいかになされうるか、そのなかで人間はいかに人生に向き合うのかを描く。
「宙返り」に匹敵する事態を、大江は、教団初期の財政を支えた女性の言葉で、昭和天皇の「人間宣言」に類比させる。
「神様なんて嘘でした。これからは人間です」という「宙返り」の歴史をこの国は持っている。これほど破廉恥なことを平気で宣う鈍感極まりない精神こそ、この国のエスタブリッシュメントである。一民間教団の教組の「転向」などさしたる重大事ではない、とも言えることになる。とはいえ、大江は逆にこの「転向」が「人間宣言」に匹敵し、さらにはそれ以上にスケールの大きい人類史的意義を有するものと考えているのであろう。
本作によって、いよいよ大江はフォークナーやドストエフスキーの水準に到達したのかもしれない。
「宙返り」の先、大江はどこへ向かうのか。それは下巻を待たなくてはならない。

Sunday, March 05, 2017

ルツェルン美術館散歩

ルツェルン旧市街を歩き、カペル橋と水の塔を渡る。カペル広場には出店が並んでいた。イエズス教会、フランシスコ教会をまわって、美術館を訪れた。鉄道駅の隣にあり、目の前にはルツェルン湖(フィアヴァルトシュテッター湖)の遊覧船の船着き場がせり出している。対岸にはホーフ教会の尖塔がそびえる。
ルツェルンにはローゼンガルト美術館とルツェルン美術館がある。ローゼンガルト美術館は近代美術の名作ぞろいだ。クレー、ミロ、ピカソがずらりと並ぶ。ルツェルン美術館はむしろ現代アート中心だ。
2つの展示が行われていた。
1つは18世紀以来の美術と日常生活に焦点を当てている。ホドラー、ペヒシュタイン、ジョバンニ・ジャコメティ、スペッリ、ユトリロなどの絵画に始まり、現代アートのインスタレーションや映像作品に至るまで、町、街並み、家庭をはじめ、多様な作品が展示されている。バロットンの後ろ姿の裸婦像は「華麗な花を生けた花瓶のようだ」と書かれていた。展示は、春、夏に何度か入れ替えられるという。
もう1つは、CLAUDIA COMTE展「10の部屋、40の壁、1059平方メートル」という展示である。コムテはグリッドとシステムとストロークの美術家だ。絵画、彫刻、インスタレーションで、ポップアートにも近い。ブランクーシの影響を受けたようだ。タイトル通り、10の部屋にそれぞれの展示がなされている。1部屋1コンセプトだ。作品を持ち込んだというよりも、壁面に絵を描き、ラインをつくり、その中に作品を展示している。ある部屋はチーズの絵とチーズをモチーフにした立体。ある部屋はドーナツ型の石彫数点が並ぶ。ある部屋には巨大なブランコと壁にはストローク。ある部屋にはプラスチック・オブジェ。
どれもおもしろいといえばおもしろいが、何を伝えようとしているかはわかりにくい。こちらが鈍感なだけか。解説では、直線、カーブ、多彩なグリッドによる分割と流線のことが繰り返し書かれている。

遡行する旅、氾濫する旅

立野正裕『スクリーンのなかへの旅』(彩流社)
<世界の聖地をめぐる旅を続ける著者。
映画のなかにも「聖地」を見出す。
それは人びとの心のなかで特別な意味を与えられた場所。
「聖なるもの」を経験するとはいかなることか。
約50本の映画をめぐって
スクリーンのなかへ旅をしながらじっくりと考える。>
旅する文学者はめずらしくないし、旅する文芸批評家もめずらしくない。旅のエッセイは世の中にあふれている。まして、いまや誰もが世界中のどこにでも行けるので、他人の旅の体験や思索に対する関心は薄れているかもしれない。
しかし、読者を飽くなき「精神のたたかい」に引きずり込む立野の旅をめぐる思索は特筆に値する。英文学者なのに授業で学生に英文学を読ませないと公言する立野は、テキストと現場、歴史と現在、記憶と予感、知性と感性を総動員して、どこでもない場所への、どこにもない場所への想像力を鍛えることを、学生に感じ取らせてきたのだろう。
48本の映画批評をまとめた本書は、「聖地」への旅、を掲げたもう一つの旅の思索である。冒頭の「辺境への旅」で、立野はピレネー山脈のロランの切通しを訪れる。本書の表紙に用いられた写真に引き付けられた読者は、わずか9頁を読み終えた時点で、本書のなかで繰り返し語られる思索の背景を手繰り寄せることができるだろう。読み進めながら、常に立ち返るべき地点だ。
切通しは世界各地にみられる。水や氷河の流れや地層の変動によって造形された切通しそれ自体、単に特徴的な地形にすぎない。特徴的というのは、見る者に与える感銘であって、それは一様ではない。切通しは、巡礼の通り道にもなるし、境界分断の関所にもなるし、激しい戦場にもなる。人間の思索と行動が切通しに歴史的社会的意味を付与してきた。悲哀の物語も波瀾万丈の物語も、切通しにはじまり切通しに終わる。
立野は『日曜日には鼠を殺せ』(フレッド・ジンネマン監督、1964年)のロランの切通しに立ち尽くして、人間、いかに生きるか、を問い続ける。
私が初めて読んだ立野の著作は、『精神のたたかい-非暴力主義の思想と文学』だった。これが立野の最初の単著である。本書に感銘を受けた私はぶしつけにも、すぐさま面識のない立野に連絡し、インタヴューを申し入れた。立野が快く受けてくれたので、そのインタヴュー記録は、前田朗『平和力養成講座』に収められている。
その後、立野は矢継ぎ早に著書を送り出してきた。『黄金の枝を求めて-ヨーロッパ思索の旅・反戦の芸術と文学』、『世界文学の扉をひらく(1・2・3巻)』、『日本文学の扉をひらく 第1巻』、『洞窟の反響―『インドへの道』からの長い旅』、『未完なるものへの情熱―英米文学エッセイ集』(スペース伽耶)――ここには立野文学の精髄が収められている。ただし、議論のエッセンスがお行儀よく収められているわけではないので、読者は要注意だ。あまり真剣に読むと<立野病>に罹患する恐れがあるし、軽い気持ちで入ると立野ワールドから弾き飛ばされてしまうかもしれない。
他方、『紀行 失われたものの伝説』『紀行 星の時間を旅して』(彩流社)では、文学と人生と旅をめぐる、もう一つの立野ワールドに触れることができる。旅行ファンや旅の達人や旅行作家ではなく、生きること、体験すること、泣き、笑うこと、ぶつかり合うこと、愛し合うこと、闘うこと、そのすべてに翻弄されながら、打ちのめされながら、鼓舞されながら、語ること。語り続けること。

Saturday, March 04, 2017

西欧の混迷とアジアの勃興の意味を解き明かす

進藤榮一『アメリカ帝国の終焉――勃興するアジアと多極化世界』(講談社現代新書)
アメリカ外交研究と国際関係論の碩学が、これまでの研究を踏まえて集大成した現代世界論のエッセンスである。
アメリカを中心とする西欧の文化的経済的衰退と混迷、その象徴としてのアメリカ産業・製造業の衰退、これに対して中国を中心とするアジア世界の文化的経済的飛躍。西欧の没落とアジアの台頭という、わかりやすい図式は目新しくないが、いま改めてその意味を具体的に問う著作である。
単にアジアが発展しているというだけのことではなく、ASEANが域内生産ネットワークの中心となったこと、その主導役が日本から中国に変わったこと、そして東アジアのトライアングル(日本、中国、ASEAN)とともに、南アジアのトライアングル(中国、インド、ASEAN)が形成され、両者を合わせて、アジアのダイアモンド構造への進展がみられるという。経済生産、貿易量、資本投下その他各種の指標から言って、いまやすでにアジアが世界の牽引車となりつつあり、今後その勢いは増すばかりだという。それゆえ、著者は「資本主義の終焉」ではなく「資本主義の蘇生」を語る。
グローバリゼーションがアメリカ中心の資本主義体制を支え、発展させたはずが、逆にアメリカの衰退とアジアの発展を帰結した理由を探り、そこから次を展望する。それゆえ、日同盟一本やりの安倍外交の破たんは明らかであり、異なる道を模索する必要が説かれる。
2020年や2050年の予測が示されているが、大筋は著者の言う通りだろう。多少の変動や揺り戻しはあるが、もはや現実は止められない。アメリカが断末魔の戦争に打って出ない限り。

Friday, March 03, 2017

「子ども母親」問題・写真展

ジュネーヴの国連欧州本部旧館Aビルの旧本会議場前ホールで「子ども母親」問題・写真展が開かれている(2月27日~3月17日)。主にバングラデシュ、ブルキナファソ、ハイチ、ガーナ、コロンビア、ザンビアの女性と赤ん坊の写真が30数枚展示されている。映像作家ピーター・テン・フーペンによる映像も上映されていた。
子ども結婚・早期結婚・強制結婚、人身売買、レイプの結果として、妊娠した女の子、出産して母親になった女の子の写真だ。それぞれ簡単なキャプションしかついていないが。
2月28日、ブルキナファソ司法・人権大臣ベソレ・ルネ・バゴロや、人権高等副弁務官ケイト・ギルモアらがトークを行った。司会の女性はヨーロッパでは知られた女優だそうで、喋りのうまさは抜群だった。
YVORNE ROUGE, La Fierrausaz,2015.

ヘイト・スピーチ研究文献(95)フランス法の状況

光信一宏「フランスにおける人種差別的表現の法規制(4)」『愛媛法学会雑誌』43巻1・2合併号(2016年)
同誌に連載された詳細なフランス法研究の最終回である。全体で次の4部構成。
Ⅰ 1972年7月1日のプレヴァン法
Ⅱ 人種的名誉毀損罪および同侮辱罪
Ⅲ 人種的憎悪煽動罪
Ⅳ ホロコースト否定罪
今回はⅣのホロコースト否定罪の研究である。フランス法については、成嶋隆の研究(『獨協法学』92・93号)が先行するが、情報内容が古く、なぜか最近の情報を入れていない等疑問が少なくない。成嶋論文への疑問は下記で指摘しておいた。
光信論文は、フランスにおけるヘイト・スピーチ法の包括的で最新の研究であり、重要だ。法律制定過程、条文の解釈、事件や判例の紹介を含めて、しっかりした論文になっている。今回の分について若干のコメント。
第1に、ホロコースト否定罪について、「ドイツ、オーストリア、スイス、ベルギー、ルクセンブルク、リヒテンシュタイン、ルーマニア、ポーランド、チェコおよびスロヴァキアなど十数カ国にのぼっている」としている。フランスについては詳細な研究をしている。オーストリア、スイス、ベルギーについても若干言及している。従来の研究はドイツに偏り、それ以外には言及がないのが普通であった。私は、光信とは別の情報源に基づいて、同じく十数カ国と繰り返し紹介してきた。さらに調査が必要だ。
第2に、ホロコースト否定罪の「法規制の動きの先鞭をつけたのがフランス」としている。1990年の社会党のミッシェル・ロカール内閣の下で提案されたゲソ法を念頭に置いている。一般にドイツに始まったというイメージがあり、私もその点を詳らかにしてこなかったが。
第3に、ホロコースト否定犯罪処罰論と、これに対する批判を丁寧に紹介している。立法段階での議論、適用段階での議論の双方にわたって、表現の自由や歴史研究(学問の自由)との関係を明示している。
第4に。欧州各国の法規制を推進したのがEUの枠組み決定であることにも的確に言及している。EU枠組み決定自の重要性は、師岡康子(岩波新書)がいち早く指摘している。ただ、EU枠組み決定が出来上がる過程についての研究は従来、ないようだ。これほど影響の大きい文書なのに。私は国連サイドの研究で手いっぱいで、ラバト行動計画やCERD一般的勧告35は見てきたが、EUの調査はできていない。誰かやってくれないだろうか。
第5に、光信はフランス法の状況を紹介するが、非常に謙抑的であり、その先に言及がない。分析を深めることなく、論文はあっけなく連載終了である。外国法紹介は重要だが、比較法研究としては物足りないし、日本についてどう考えているのか気になる。

Wednesday, March 01, 2017

死刑台から生還したウガンダ女性、スーザン・キグラ

「昨年秋、オスロで開かれた死刑廃止世界会議に招かれたので、びっくりしました。旅行なんてしたことがなかったからです。2000年に逮捕されて、法律には無知だったので何が何だかわからないうちに死刑になりました。泣いて、絶望して、困惑して、どうしようもない日々でした。やがて、本を読むようになり、監獄の学校で勉強するようになりました。アフリカ監獄プロジェクトの協力で、ロンドン大学通信教育を受けました。それで法律を勉強したんです。わからないことばかりで、何度も何度も勉強しているうちに、ようやく訴願の出し方を知りました。それで憲法裁判所に訴願を出したんです。その結果、憲法裁判所が死刑は憲法違反だと判断しました。おかげで、2016年1月に釈放されたので、いまも法学の勉強を続けています。オスロに呼ばれたし、今日はジュネーヴに呼ばれました。」(スーザン・キグラ)
3月1日、ジュネーヴの国連欧州本部で開催中の国連人権理事会34会期において、死刑に関する2つのパネルが開かれた。
1つは、ECPM(ともに死刑に反対する)主催の「猶予から廃止へ:2019年までの廃止戦略」である。
もう1つは、人権理事会公式のパネル「死刑問題に関するハイレベル・パネル」である。
前者のECPMパネルのメインスピーカーが、監獄で法律を勉強して、違憲判決を勝ち取り、出獄した元死刑囚スーザン・キグラである。
他に、ノルウェー外務副大臣のマリト・エルガー・レスランド、ECPM事務局長のラファエル・シュヌイル・ハザン、中央アフリカ死刑反対連盟のメトル・リエヴィン・ンゴンジ。参加者は約80名。うち30名は政府代表で、私の隣に座ったのはブラジル、エストニア、リヒテンシュタイン政府。日本政府は不参加。
スーザンの演説以外の大きな話題は、2016年のオスロ会議を経て、今後の取り組み。2018年にアフリカで地域会議を開き、2019年にブリュッセルで世界会議を開くので、その準備。
後者のパネルは、西インド大学教授のヴェレーネ・シェパード(ジャマイカ)が司会をして、ザイド・アル・フサイン人権高等弁務官、ハーレム・デシル・フランス外務大臣の挨拶、そして、チュニジア元大統領モンセイフ・マルゾウキ、ケニア人権委員会議長のカグヴィラ・ンボゴリ、ASEAN人権委員会タイ代表のセレエ・ノンハスート、人権理事会拷問問題特別報告者ニルス・メルザーの報告。
死刑廃止論者ばかりだが、後半の討論では、マレーシアやボツワナなどが死刑必要論を唱えていた。議論の中身は相変わらず同じことの繰り返し。
唯一おもしろかったのは、メキシコが「デュープロセスの下で死刑はなぜ可能なのか」と発言した部分。これは、死刑存置国が「死刑は人権問題ではなく、刑事司法の問題であり、国家主権の問題である。デュープロセスやフェアトライアルが保障されていれば、死刑は認められる」としてきたのに対して、普通は、「死刑は人権問題だ。死刑は拷問に当たる」と反論してきたところ、メキシコは「死刑とデュープロセスは両立しないのではないか」と唱えたのだ。この論点を詰めるべきだが、他の国が続かなかった。
理論的に整理すると、デュープロセスは刑事手続法の問題であり、死刑は刑事実体法の問題とされてきた。しかし、メキシコは「死刑は手続法と実体法の両方の問題だ」としているようだ。重要だ。