Tuesday, July 19, 2011

迷走する排外主義--人種差別禁止法が必要な理由

「IMADR-JC通信」166号(2011年6月)



迷走する排外主義


――人種差別禁止法が必要な理由



ナショナリズムとポピュリズムの野合



 ナショナリズムと排外主義がこの国と社会を覆い始めたのはいつの頃だろう。予兆はずっと以前からあったのだが、1990年代の「従軍慰安婦」論争や「歴史教科書」論争が一つの転機だったのは間違いないだろう。戦争犯罪の歴史的事実を否定し、「国家の誇り」を殊更に強調する風潮が、政治家や評論家の支持を得て蔓延し、ボディブローの効き目のように日本社会を劣化させ始めた。真っ先に失われたのは、平等や連帯の思想と実践である。代わりに不寛容と排除の思想が浸透してきた。


 21世紀に入ると「9.11」を口実に開始されたアフガニスタン戦争とイラク戦争、そしてイスラエルによるレバノン戦争やガザ攻撃といった具合に「テロリズムとの戦い」と称しながら、圧倒的な軍事力で非武装の市民を殺戮する戦争が吹き荒れた。日本政府が殺す側にまわったのは言うまでもない。政治的には、日の丸君が代の強制、教育基本法改悪、朝鮮半島危機を利用した戦争準備の有事立法と国民保護法が続き、憲法改悪も射程に入った。社会の風潮も「安全と安心」を求め、他者を排除する方向に流れた。ナショナリズムとポピュリズムの野合が、石原とか橋下という固有名詞とともに進軍している。


 もちろん、社会が差別や排除一辺倒になったわけではない。東日本大震災のさなかにも、インターネット上で外国人排除の言説が飛び交った。しかし、日本人と外国人がともに助け合い、人間として向き合ったケースも多数報告されている。自由・独立・平等の市民を仮設した市民社会は、一方では個人主義の弊害を生み出しつつ、他方では連帯の精神を育んできたことを忘れるべきではない。



在特会という自画像



 排外主義の頂上に跋扈しているのは「在日特権を許さない市民の会(在特会)」などの暴力集団である。従来の保守や右翼とは異なって「直接行動」を呼号し、他者に直接攻撃を加えている。差別、蔑視、虚言、暴言の嵐であり、暴力も辞さない。インターネットを活用し、差別、脅迫、恫喝、暴力シーンの映像をわざわざ自分たちで公表してきた。多くの市民には顰蹙を買っているが、若者の中には「新鮮だ」「本音を言っている」「そうか、この程度のことは言ってもいいのか」などと受け止める向きもあり、支持を広げたという。


 在特会という暴力は、この数年間、各地に繁殖してきた。蕨市ではオーバーステイのため強制退去されるフィリピン人の子どもが通う学校に押しかけて蔑視発言を投げつけたり、三鷹市では日本軍性奴隷制展(従軍慰安婦展)を暴力的に妨害したり、秋葉原での差別デモに抗議した市民に暴力を振るったり、名古屋市立博物館に押しかけて韓国史展示を妨害し、徳島県教職員組合事務所に乱入して暴力を振るったり、やりたい放題であった。他者を蔑視し、貶め、下劣な差別発言を撒き散らし、弱者に襲いかかるのが彼らの思想であり、行動様式である。残念ながら、21世紀初頭の日本社会の自画像を描くとき、在特会の醜悪な精神を無視することはできないだろう。


 人種差別撤廃NGOネットワークは、2010年2月にジュネーヴで開催された人種差別撤廃委員会における日本政府報告書審査時に、在特会による差別を放置する日本政府の責任を訴えた。



朝鮮学校高校無償化排除問題



 日本政府は、差別を放置してきただけではない。差別を容認してきただけではない。むしろ、率先して差別政策を推進し、社会に向かって差別を煽ってきた。


 植民地時代の強制連行や関東大震災朝鮮人大虐殺に始まり、戦後も日本政府は朝鮮人抑圧政策を推進してきた。1948年の阪神教育闘争事件は朝鮮人の民族教育を破壊する上からの暴力問題であった。その後も、入国管理法、外国人登録法による管理と差別が続いた。朝鮮人の権利獲得闘争や、日本社会における権利の一定の定着に伴って、数々の差別が是正されてきたが、その都度、差別は沈潜し、再編成されてきた。1990年代にも、朝鮮学校生徒に対する暴行・暴言の「チマ・チョゴリ事件」、朝鮮高校卒業生の国立大学受験差別問題、看護師資格受験差別問題、JR定期券差別問題などが続いた。21世紀に入っても「チマ・チョゴリ事件」が継続してきた。


 高校無償化問題は、2010年2月に中井大臣による差別発言に始まったが、当初は平等適用を唱えていた文部科学省もいつの間にか差別路線に転じ、ついには菅直人首相がじきじきに差別政策を指示する異常な事態になった。日本政府は、朝鮮人差別を放置したり見逃しているのではなく、自ら先頭に立って差別政策を推進し、日本社会に向かって「朝鮮人は差別しても構わない」というメッセージを執拗に発し続けている。「差別のライセンス」を発行する菅直人とは、在特会のための避雷針にほかならない。



対向するメッセージ――差別は社会を壊す



 朝鮮学校が日本社会に発しているメッセージを考えてみよう。朝鮮学校卒業生がサッカー・ワールドカップで活躍した。大阪朝鮮高級学校ラグビー部は花園で大活躍した。ボクシングでは世界チャンピオンも生まれた。そして、2010年には朝鮮大学校法律学科卒業生が司法試験に合格した(4人目である)。


 これに対して、日本が朝鮮学校に対して発しているメッセージはどうだろうか。日本政府は朝鮮学校を高校無償化から排除した。地方自治体の中には助成金をカットした例がある。日本社会では在特会という代表選手が暴れまわってきた。


 対向するメッセージのアンバランスは目を覆わんばかりである。


もちろん、ここでも日本社会の醜悪性だけを強調するべきではないだろう。京都朝鮮学校を支えるために日本の市民や弁護士も立ち上がり、京都市内で人権擁護の集会やデモに取り組んだ。東京や大阪など全国各地から朝鮮学校に連帯のメッセージが送り届けられた。高校無償化問題でも、日本の教員、学生、NGOが直ちに声をあげ、無償化平等適用を求めた。詩人たちは無償化問題をテーマに「アンソロジー」を編んだ。


 それでは、私たちは何を守ったのだろうか。何を守るべきなのだろうか。デモのさなかでは「朝鮮学校を守れ」という言葉が使われたこともある。在日朝鮮人の人権擁護は当然だ。しかし、守るべきは日本社会自身の健全性である。政府による差別や、憎悪にまみれたヘイト・クライム(差別を煽る憎悪犯罪、差別を動機とする暴力犯罪など)をなくすことは、日本社会のための運動課題である。


 「美しい日本」とか「国家の品格」などと称しながら自己満悦にふけり、他者と向き合うことなく、排除し、抑圧している社会は、実は自らを貶めているのだ。差別を見て見ぬふりをする社会は自壊するしかないだろう。



人種差別禁止法を求めて



 人種差別撤廃条約第4条(a)は人種差別思想の煽動を禁止する処罰立法、4条(b)は人種差別団体の規制を求めている。日本政府は第4条(a)(b)の適用を留保しているが、2001年3月と2010年3月の2回にわたって、人種差別撤廃委員会は、条約に基づいて提出された日本政府報告書審査の結果、人種差別禁止法の制定だけではなく、第4条の留保の撤回と、ヘイト・クライムの処罰を勧告した。


 日本社会においても弁護士会における議論や、自由人権協会などの団体による人種差別禁止法の提案がなされてきた。人種差別撤廃NGOネットワークに結集した諸団体も議論を積み重ねてきた。人種差別禁止法の制定を求める市民運動がいよいよ始まった。


 人種差別禁止法のうち、特に悪質なヘイト・クライムを規制する刑事立法も議論の俎上にのぼってきた。教育、雇用、店舗、公共施設など民事・行政法分野における差別の是正を企図する人種差別禁止法は、ただちに立法するべきである。


ヘイト・クライム法も必要であるが、この点ではまだ社会における議論が不十分という面もある。差別を煽る憎悪犯罪とは何であるのか。それは社会的にどのような実態を有しているのか。刑事規制する場合にどのような法的定義がなされるべきなのか。ヘイト・クライムの被害はいかに把握するべきか。こうした論点を、国際的な比較法に基づいてさらに議論する必要がある(前田朗『ヘイト・クライム』三一書房労組、2010年)。


 法規制することが目的ではない。国家が襟をただし、自由で差別のない社会をめざす市民が自ら住みよい社会を実現するために、何が必要かを考えれば答えはおのずと明らかになる。人種差別禁止法は早急に制定するべきであるし、ヘイト・クライム法に向けた調査・研究を急ぐべきである。