二月二日の衆議院予算委員会審議には誰もが愕然としただろう。憲法9条2項に関する「芦田修正」について石破茂議員が質問したのに対して、田中直紀・防衛大臣が「私自身は理解いたしておりません。先生のご知見を拝聴しながら、よく理解をしたいと思います」と答えた件だ。メディアは田中大臣の資質を厳しく批判し、テレビではお笑いネタとされる始末である。
防衛省は、普天間基地と辺野古問題で沖縄県民をさんざん傷めつけながら、「犯す前に言わない」発言や、年末年始の環境影響評価書運び込み事件など、恥を知らない挙動を続けている。田中防衛大臣の資質は防衛省に最もふさわしいと、冗談を言うしかない。その後も選挙干渉事件が明かるみに出たかと思うと、海の向こうのアメリカから米軍再編見直しが報じられ、内閣も防衛省もごまかしの言い訳に汲々とする有様である。国民だけではなく、世界中が「この人たちにはまともな知性があるのか」と疑っているのは当然のことである。
政治家も官僚も水準低下が著しく、劣化という言葉が用いられている。かつての政治家や官僚の資質がさほど高かったかどうかは別として、現状が目も当てられない水準であることだけは、誰にでも断言できる。
田中大臣が「まるでクイズのようだ」と弁明したこともお笑いネタになった。この程度の弁明しかできないのかと呆れるほかないが、「国会審議でクイズなどやっていてどうするのか」という批判は当然のことである。「空気を読めない首相」や「漢字の読めない首相」に仕えてきた“軍事オタク”石破議員にできることは、クイズ遊びをすることだけなのだろう。政策論議などおよそ考えることもできない国会議員である。
憲法論議で他人の無知を嘲笑っている本人は、憲法四一条を読んだことがあるのだろうか。「国会は、国権の最高機関」とされているが、石破とか、安部、麻生、野田、田中といった固有名詞は「国権の最低機関」を象徴するものでしかない。
「芦田修正」をめぐる議論に、この国の政治家や官僚たちの資質の異様な低さが顕著に現れている。「芦田修正」なるものは、第九〇回帝国議会における日本国憲法審議過程において、9条2項冒頭に「前項の目的を達するため」が挿入されたこと等を指す。
憲法制定史研究においても議論が残るところではあるが、自民党歴代政権によって、芦田修正が自衛隊保有の根拠とされてきたことは事実である。
このことをどう評価するかが問題である。なぜなら、芦田修正にこのような意味があるということは、芦田均が事後になって言い出したことである。帝国議会審議録によっても、『芦田均日記』によっても芦田修正説の根拠となる事実は確認されていない。つまり、立法者意思説から言えば、芦田修正なるものは虚構の根拠でしかない。GHQや極東委員会は、芦田修正の結果として何らかの実力装置の保有が可能となることを認識していたとされるために、解釈が分かれることになる。最初から解釈が分かれている芦田修正を、自民党歴代政権は唯一の根拠として自衛隊保有を説明してきたのである。長年にわたって戦力概念の小手先の修正を続けたのもこのためである。
9条の解釈をめぐるドタバタは、日本国家がいかに無責任であるかを世界に示すものでしかない。
第一に、諸外国の憲法と比較すれば、これほど明確に戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認を明確に示した条文はない。それにもかかわらず、芦田修正を持ち出して自衛隊保有を正当化することは、そもそも憲法など守るつもりのない国家であると世界に向かって宣言することでしかない。
第二に、芦田修正説は、憲法制定審議において主張されなかった内容を後から持ち出して解釈を変更した。つまり、騙し打ちの論法である。芦田修正に焦点を当てることは、騙し打ちの好きな日本を世界に向かって宣伝することである。
憲法は国民主権を採用しているから、日本国民が憲法とは何かを理解できず、それゆえ守る能力も意思ももたず、テキトーに政治を行っていることを「自白」していることになる。知性の崩壊はずっと以前から始まっていたのだ。