Tuesday, June 26, 2012

世界人権宣言を読む(一)


ヒューマン・ライツ再入門  

世界人権宣言を読む(一)


統一評論522号(2009年4月)


六〇周年を契機に

二〇〇八年一二月六日、在日朝鮮人・人権セミナーは、世界人権宣言六〇周年を記念して集会を開催した。世界人権宣言を中心とする国際人権法が在日朝鮮人の人権擁護にとって持つ意味を確認するとともに、近年相次いでいる朝鮮総聨「関連」施設に対する政治弾圧との闘いについて報告がなされた。
世界人権宣言は、一九四八年一二月一〇日に国連総会で採択された。一九五〇年の国連総会で、一二月一〇日が世界人権デーとされ、その前後に世界人権週間の取り組みがなされている。
当時、日本は「国連の敵」であり、連合国に占領されていたから、世界人権宣言の採択は専門家以外にはほとんど知られていない(田畑茂二郎『世界人権宣言』アテネ文庫、一九五一年)。日本は一九五六年に国連加盟を認められた。しかし、世界人権宣言は「宣言」であって、各国政府による批准手続きがないので、日本政府は世界人権宣言について特別に何かを行うということもなかった。それでも今では世界人権週間に合わせて「人権ポスター」を貼り出すことだけはしている。
国際人権規約や人種差別撤廃条約が採択され、国際人権法の体系が整備され始めると、日本でも世界人権宣言に注目が向けられるようになった(武者小路公秀『世界人権宣言』岩波ブックレット、一九八二年、『世界人権宣言三五周年と部落解放』解放出版社、一九八三年、斎藤恵彦『世界人権宣言と現代――新国際人道秩序の展望』有信堂高文社、一九八四年)。
一九八八年一二月八日、弁護士や市民が有志で世界人権宣言四〇周年記念集会を開催した。この集会を契機として、翌八九年に「在日朝鮮人・人権キャンペーン」を一年間展開した。同キャンペーンの実行委員が主体となって、一九九〇年に在日朝鮮人・人権セミナー(実行委員長・床井茂弁護士)を発足させた。呼びかけ人の中心は社会人類学者の故・鈴木二郎(東京都立大学教授、東京造形大学学長などを歴任)であった。
二〇年の歳月を経て六〇周年記念集会を開いたが、この間、在日朝鮮人の人権状況は決して改善を見ていない。
「一九九一年問題」の後、JR定期券問題、高校体育連盟参加問題、朝鮮学校卒業生の大学受験資格問題、看護士試験受験資格問題、チマ・チョゴリ事件、年金差別問題などさまざまな問題が生起し、人権セミナーも諸団体と協力しながら活動してきた。当初の参加者の中には「もう基本問題は解決した。あとは落穂拾いのようなものだ」と言って、人権セミナーから去っていった仲間もいた。しかし、この認識は完全に誤っている。
第一に、そもそも日本人の人権さえも決して改善していない。その日本社会で朝鮮人の人権が保障されるとは考えられない。人種・民族差別は深刻なまま残されている。
第二に、九〇年代から浮上した戦後補償問題に明らかなように、植民地支配や侵略戦争の戦争責任をまったくとろうとしない日本政府である。過去の人権侵害に目を塞ぎ、何一つ反省していないのに、現在の人権保障が可能とは思えない。歴史認識問題が人権問題に直結している。
第三に、女性、子ども、高齢者などさまざまな分野の人権問題がある。ここでも日本人の人権状況が悪化しているくらいであるから、朝鮮人女性、子ども、高齢者の人権は軽視されたままである。
第四に、人種差別撤廃条約批准後の日本政府の報告書をめぐる審査を通して明らかになったのは、アイヌ、琉球民族、朝鮮人、中国人、来日外国人など、さまざまの層に対する新しい差別が生産され、再編成されていることである。
第五に、朝鮮と日本の国交正常化はいまだにメドがたっていない。東北アジアにおける政治的緊張のもとで、日本政府は朝鮮人に政治弾圧を加えている。朝鮮総聨関連施設に対する無法な強制捜査、朝鮮会館に対する課税問題、金剛山歌劇団公演に対する暴力的妨害をはじめとして、次々と重大深刻な差別と抑圧が強行されている。
朝鮮人に対する人権侵害は歴史的に根が深く、日本国家と社会に構造的に組み込まれている。むしろ、戦前戦後を通じた日本政府の朝鮮人政策は「コリアン・ジェノサイド」と呼ばれるべきものである(前田朗「コリアン・ジェノサイドとは何か」本誌五一七号)。
従って、今なお世界人権宣言を手元にたぐり寄せて朝鮮人の人権を考える必要がある。世界人権宣言六〇周年とは、歴史を振り返るだけの記念ではなく、もっとも切実で実践的な問題関心を持った営みでなければならない。
しかも、朝鮮人の人権問題は、日本と朝鮮のレベルを超えて、世界的なグローバルな問題圏にもかかわっている。二一世紀に入って、アメリカのブッシュ政権が呼号してきたグローバリゼーションと「テロとの戦い」は、現代帝国主義による新植民地主義政策の展開であり、抵抗する者への圧殺の試みである。そこでは問答無用に人権が破壊される(前田朗「国際人権法VS『テロとの戦い』」『歴史地理教育』二〇〇八年一二月号参照)。
それゆえ、現在の問題関心に従って、世界人権宣言を吟味しなおし、再解釈していくことが求められている。

世界人権宣言と日本国憲法

世界人権宣言前文は次のように述べる。
「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権を保護することが肝要であるので、諸国間の友好関係の発展を促進することが、肝要であるので、国際連合の諸国民は、国際連合憲章において、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認し、かつ、一層大きな自由のうちで社会的進歩と生活水準の向上とを促進することを決意したので、加盟国は、国際連合と協力して、人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守の促進を達成することを誓約したので、これらの権利及び自由に対する共通の理解は、この誓約を完全にするためにもっとも重要であるので、よって、ここに、国際連合総会は、社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の規準として、この世界人権宣言を公布する。」
世界人権宣言の採択に至る過程を見る前に指摘しておかなければならないことは、前文と日本国憲法前文との「連関」である。先に述べたように、世界人権宣言が採択された時期、日本は国連に加盟していない。ところが、二つの前文には、その表現に顕著な類似性があるのだ。念のために引用しよう。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」
日本国憲法前文における基本的人権の理解は、世界人権宣言のそれと同じであることが容易に読み取れるはずだ。理由は簡単だ。同じ人権思想の持ち主が起草したからである。
ジョアンズ・モーシンク(ドリュー大学教授)の著書『世界人権宣言――起源、起草、内容』(ペンシルヴェニア大学出版、一九九九年)は、世界人権宣言を普通に読めば、一九四八年の国連文書と一八世紀の古典的宣言の間に言葉の類似性があることがわかり、特に文書の初めの部分ほど類似性が強いとする。世界人権宣言前文第一節の「固有の尊厳」や「平等で譲ることのできない権利」という表現は、啓蒙思想を反映しているとし、一七七六年のヴァージニア権利宣言、アメリカ独立宣言、一七八九年のフランス権利章典との類似性を指摘している。思想家としてはペイン、ロック、ルソー、ジェファーソンを列挙し、神、自然、理性に関する捉え方の共通性を確認している(二八〇~二八一頁[以下、モーシンク著の頁である])。
世界人権宣言の思想の源流を探るという意味では、モーシンクの指摘は正当である。とはいえ、日本国憲法前文との類似性も指摘しておく必要があるだろう。もっとも、両者の差異にも注目する必要がある。

世界人権宣言への道

世界人権宣言採択に至る過程は、一般に次のように理解されている。
一九四七年、第四回国連経済社会理事会は、国連人権委員会委員長の要請に基づき、国際人権章典起草のため委員会を設け、オーストラリア、チリ、中国(後の台湾)、フランス、オランダ、ソ連、イギリス、アメリカを委員に選出した。起草委員会は、事務局作成の章典概要、イギリスの章典案、アメリカの章典条項案、フランスの宣言条項案を基礎に審議した。その結果、法的拘束力はないが人権保障の目標(基準)を宣言する人権宣言と、法的拘束力をもつ人権規約の双方が必要であるとして、その草案を国連人権委員会に提出した。起草委員会は人権規約の実施問題も審議し、メモランダムを国連人権委員会に提出した。
 同年の第二回国連人権委員会は、国際権利章典について、人権宣言、人権規約、及びその実施措置の三分野のすべてを含むべきであると決定し、まず人権宣言の検討を行って、経済社会理事会を通じて総会に提出した。の人権規約は後に一九六六年の二つの国際人権規約として実現する。
人権宣言案は、一九四八年一二月一〇日に第三回国連総会において「世界人権宣言」(Universal Declaration of Human Rights)として賛成四八、反対〇、棄権八(ソ連、ウクライナ、ベラルーシ、ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、サウジアラビア、南アフリカ)、欠席二(ホンジュラス、イエメン)で採択された。
この過程における議論の様子を、ジョアンズ・モーシンクを参考にして見ていくことにしよう。
モーシンクによれば、世界人権宣言準備は国連創設期に行われたので、当然のことながらその表現の一部は国連憲章に由来する。起草者は国連憲章を手にして、その他の近代的人権文書を積み重ねていったのである。具体的には七ヶ所の類似性が指摘されている(二~四頁)。
例えば、国連憲章前文冒頭の「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進する」である。
また、国連の目的を定めた国連憲章第一条第三項の「経済的、社会的、文化的又は人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること」という表現が、世界人権宣言の表現のもとになったと指摘している(同様に国連憲章第一三条第一項、同第五五条)。

 国連憲章と世界人権宣言の間の表現の類似性はあまりにも当然のことなので、ここでは省略する。

七段階の起草過程

次にモーシンクは、一九四七年四月以後の人権宣言起草過程に立ち入る。当初、核兵器委員会(準)が、ラテンアメリカ諸国提出の国際章典案を受け取って検討した。人権委員会で審議することが望ましいものであり、多くのNGOの意見を聞く必要もあったため、経済社会理事会は人権委員会を選出し、審議を委ねた(なお、寿台順誠『世界人権宣言の研究――宣言の歴史と哲学』日本図書刊行会、二〇〇〇年)
モーシンクは、起草過程を七段階に整理している(四~一二頁)。人権委員会第一会期、起草委員会第一会期、人権委員会第二会期、起草委員会第二会期、人権委員会第三会期、国連総会第三委員会、国連総会本会議、である。


第一段階では、国連事務局人権担当者ジョン・ハンフリーが、エレノア・ルーズベルトの指示のもと、中国代表チャンやレバノン代表マリクらと見解を調整しながらさまざまな草案を準備していった、一九四七年二月二八日にエレノア・ルーズベルトに提示して検討しなおした上で、六月の起草委員会に提出したことが知られる。その際、パナマがサンフランシスコに設置していたアメリカ法研究所や米州法律家委員会の提案から借用した条項もあったという。

第二段階では、数々の草案が提出された。ハンフリー案、概要文書、概要草案計画、イギリス提案などである。

第三段階は、一九四七年一二月の人権委員会である。ここにはアメリカ労働連合、国際キリスト教者労働組合連合、列国議員連盟、国際カトリック女性連合、ユダヤ人組織連合、赤十字国際委員会、国際女性理事会、女性国際民主連合、専門職業女性国際連合、国連協会世界連合、世界ユダヤ人会議などのNGOが参加し、提案を出していた。政府間交渉ではジュネーヴ草案をもとに、この段階でほぼ骨格がまとまった。

第四段階、一九四八年五月の起草委員会では、宣言とともに採択されるべき人権規約の内容が議論された。

第五段階、同年六月までの人権委員会では、各条文を簡略化するイギリス・インド提案による修正が行われた。また、人権規約の仕上げを延期し、宣言だけを採択する方針が採用された。

第六段階、同年九月から一二月の国連総会第三委員会では、各国憲法を調査したハンフリーによる報告がなされ、特に宣言が単なる勧告にすぎないのか、法的拘束力を有するのかをめぐって議論がなされ、投票は賛成二九、反対〇、棄権七であった。第三委員会は、世界人権宣言は国連加盟五八カ国だけのものではなく、世界のすべての人民の権利の表明であると強調した。

第七段階、同年一二月一〇日の国連総会本会議では、各国代表やそうか議長らによる討論の後に投票が行われ、賛成四八、反対〇、棄権八で採択された。



植民地から人権へ



以上の起草過程で確認しておくべきことは、第一に、欧米諸国とそれ以外(東洋、あるいはイスラム圏)のバランスである。近代国際法は西欧列強による植民地支配を正当化する法体系であった。第一次大戦後の国際連盟のもとでも西欧中心主義は歴然としていた。それに比較して、第二次大戦後、国連のもとでは、両者のバランスを取ることが、少なくともタテマエとして目指されていた。一九四一年の大西洋憲章は、領土不拡大、領土変更における人民の意思、政府選択における人民の権利、恐怖と欠乏からの自由、を掲げていた。第二次大戦はナチス・ドイツや日本軍国主義の膨張主義との戦いという一面を有していた。それゆえ、国連は、西欧中心主義と植民地支配からの脱皮をめざさなければならなかった。ハンフリーが、チャンやマリクと協議しながら物事を進めたのは、このためである。

第二に、NGOの参加である。女性NGOだけでなく、さまざまなNGOが国連においてロビー活動を展開した。主権国家による国際機関において、非政府組織に場が与えられたのは画期的なことであった。労働組合、宗教者、ユダヤ人などのNGOも活躍した。現在では国際人権や国際人道の分野ではNGO抜きには物事が動かないほどになっている。国連総会や安保理事会などはいまなお主権国家の国際外交の場ではあるが、国連のさまざまなレベルにNGOの存在を見ることができる。それは国連創設期から始まっていた。

第三に、女性の存在である。人権委員会第二会期においてロビー活動を行ったNGOには女性NGOが含まれていた。国際政治の文脈で女性NGOがこれほどの参加を果たしたのは、言うまでもなく初めてのことである。各国においても、女性参政権は二〇世紀になってようやく実現し始めていた。一八九三年に女性参政権を認めたニュージーランドに続いて、位置九〇二年にオーストラリア、〇六年にフィンランド、一五年にデンマークとアイスランド、一七年にソ連、一八年にカナダとドイツと続くが、アメリカは二〇年、イギリスは二八年、フランス、イタリア、日本は四五年のことであった。国内参政権をようやく手にした女性たちがNGOとして国連に乗り込んだのである。

以上のように、植民地主義への反省、NGO、女性の参加という流れの中で世界人権宣言は採択された。そして世界人権宣言がこの流れを加速させることになった(もっとも、すでに冷戦の構図が生まれつつあり、さまざまな制約がかかることになる)。それゆえ、在日朝鮮人の人権を考える場合にも、世界人権宣言の意義は極めて高い。