Tuesday, December 01, 2015

朴裕河訴追問題を考える(3)学問の暴力について

(3)学問の暴力について

「知識人」の抗議声明は「今回さらに大きな衝撃を受けたのは、検察庁という公権力が特定の歴史観をもとに学問や言論の自由を封圧する挙に出たからです。何を事実として認定し、いかに歴史を解釈するかは学問の自由にかかわる問題です。特定の個人を誹謗したり、暴力を扇動したりするようなものは別として、言論に対しては言論で対抗すべきであり、学問の場に公権力が踏み込むべきでないのは、近代民主主義の基本原理ではないでしょうか。なぜなら学問や言論の活発な展開こそ、健全な世論の形成に大事な材料を提供し、社会に滋養を与えるものだからです。」と述べる。

余りにも乱暴な主張であり、目を疑った。抗議声明は学問の自由と言論の自由を唱えるが、ここでは学問の自由に絞って言及する。言論の自由については次回の予定。

第1に、「虚偽の事実」に基づいて、「慰安婦」とされた女性たちの名誉を毀損し、人間の尊厳を傷つける行為を「学問の自由」などといって正当化することはできない。抗議声明は「近代民主主義の基本原理」などと大仰に言うが、人間の尊厳を貶める学問の自由など「近代民主主義の基本原理」に反する。

第2に、抗議声明の主張が正しいのなら、ナチスの優生学も、かつての日本の殖民学も学問の自由ということになる。「学問や言論の活発な展開こそ、健全な世論の形成に大事な材料を提供し、社会に滋養を与えるものだからです」などと言うが、核兵器の開発や、その投下(軍事理論)や、投下された核兵器の効果測定(医学等)といった学問が「社会に滋養を与える」と言うのだろうか。

第3に、誰が誰に向かって「学問の自由を侵害するな」と唱えているのか。抗議声明は直接的には韓国検察に向けられているとはいえ、それは直ちに告訴した被害女性たちに向かうことになる。

被害女性たちは、植民地支配のために十分な教育を受けることが出来なかった。それどころか民族の言葉や文化を奪われていた。その上さらに「慰安婦」とさせられたのだ。彼女たちが苦難の人生を経て半世紀後に「私の尊厳を返せ」と必死の思いで立ち上がったのである。

その被害者に向けて、日本人「知識人」たちは「学問の自由を侵害するな」などと言い放ったのである。そのほとんどが大学教授と著名な作家である日本人「知識人」たち、日本社会において特権的エリートの地位を占める彼らの「学問の自由」が、どれほど他人を傷つけるものであることか。思い上がりも甚だしい。これを暴力と言わずして、何と呼べばいいのだろう。「知識人」とはここまで腐敗できるものなのか、と暗澹たる気分になる。

補足*)1996年にハーグの国際司法裁判所判事として、核兵器の使用は国際法違反であるとの意見を書いたウィーラマントリ博士の著作に『核兵器と科学者の社会的責任』(中央大学出版部、1987年)がある。訳者の一人は私の恩師である。


補足**)「学問の暴力」という言葉を用いた重要な著作として、植木哲也『学問の暴力――アイヌ墓地はなぜあばかれたか』(春風社、2008年)がある。同じ著者の『植民学の記憶――アイヌ差別と学問の責任』(緑風出版、2015年)もある。いずれも貴重な研究である。