駒村圭吾「ヘイトスピーチ規制賛成論に対するいくつかの疑問」『金沢法学』61巻1号(2018年)
*
「<記録>シンポジウム『ヘイト・スピーチはどこまで規制できるか』」に収められた報告である。
*
駒村論文は次のように始まる。
「まず、はじめに申し上げておきたいことは、私は憎悪表現を憎悪している、という点です。日本社会において憎悪表現と指称される発話のいくつかはまったく私の言論作法の埒外にありますし、二度と耳にしたくないものです。したがって、私は、時に誤解されるのですが、“ヘイトスピーチ容認派”ではありません。」
そして、駒村は。自分はヘイト・スピーチ規制消極派ではなく、「むしろ積極派に分類していただきたいところです」という。違いは、駒村は既存の法的手段でヘイト・スピーチ規制は可能かつ十分と考えるのに対して、いわゆる“積極派”はそれでは不十分として新たな規制を提案している点だという。
*
以下、私のコメント。
第1に、駒村は、自分の個人的感情ないし心情と、ヘイト・スピーチの法的規制の可否という問題を混同している。おそらく故意に混同しているのだろう。駒村が憎悪表現を憎悪しているか否かは、憎悪表現の刑事規制の可否をめぐる憲法論とは関係ない。関係ない話題を持ち出して議論を始めるところに駒村憲法学の特徴がある。これは、ヘイト・スピーチ問題をめぐる議論が始まった時期に、一部の評論家が「ヘイト・スピーチは汚い言葉だから聞きたくないが、表現の自由だ」と述べたのと同じレベルの話である。ヘイト・スピーチは汚い言葉であるが、汚い言葉がヘイト・スピーチではない。このことを敢えて混同させることによって、論じるべき本質問題を見えなくさせるのが駒村の「言論作法」なのであろう。
第2に、駒村は、ヘイト・スピーチを言論問題と決めつけている。だから「言論作法」という言葉が出てくる。現実のヘイト・スピーチ問題を知っているのだろうかと疑いたくなる。憲法学者がヘイト・スピーチと呼んできた事件の代表は京都朝鮮学校襲撃事件、新大久保ヘイト・デモ、川崎ヘイト・デモ・集会等である。これらを見て「言論だ」というのであれば、駒村は器物損壊、威力業務妨害、暴行、脅迫、迫害を「言論」と考えていることになるだろう。現実の事例の中から言葉だけを切り取って、他の事実を無視して言論について語る憲法学者が多いが、駒村もその一人である。
*
駒村論文は、Ⅰ憲法学的観点から、Ⅱ刑事学的関連から、Ⅲ哲学的観点から、の3つの部分からなる。憲法論は5頁に満たない。ここで駒村は威力業務妨害等の事実にも触れるが、それには現行の法的対応が可能であり、「これらの法的対応を尽くしてもなお残るもの」は「ある種の『品格』の問題が残るのみ」として「不品行としてのヘイトスピーチ」と呼ぶ。そして、集団誹謗に対する法的規制について、憲法21条を持ち出して、内容規制や見解規制になると指摘する。
「集団誹謗の法的規制は、個人の集合的アイデンティティを前提とする話になりますので、あらゆる歴史的・社会的文脈から個人を析出することを旨とする近代的前提と原理的な不整合を生む恐れがあります」と指摘する。
*
以下、私のコメント。
ここで注意を要するのは、「刑事規制と集団」に関連する理解のあり方である。連座のように集団的な刑罰の禁止という局面と、集団誹謗のように集団を保護する局面とは全く異なるはずだ。近代法の原理の一つに個人主義を仮設することが適切であるとしても、従来の刑法理論では、連座処罰や集団処罰の禁止が念頭に置かれていた。個人主義だから集団を保護してはならないという理屈には飛躍があるのではないだろうか。個人主義であっても、個人を保護するために諸個人の集団を保護する論理は可能であろう。
駒村は「近代的前提と原理的な不整合を生む」というが、どこの「近代」に言えることなのか不可思議な話である。近代の社会と思想を産み出したイギリス、フランスをはじめEU諸国はすべてヘイト・スピーチを処罰する。集団誹謗類型の規定も少なくない。駒村によれば、イギリスやフランスをはじめとするEU諸国は「近代的前提と原理的な不整合を生む」ということである。奇抜な思考である。
駒村は、ヘイト・スピーチを表現、言論に抽象化し、被害をすべて無視する。多くの憲法学者と同様に、駒村論文はヘイトの被害を語らない。「品格」の問題に過ぎないとし、「そのような残余の言論に明白かつ現在の危険があるのか、という問題です」という。被害が起きていることを認めないので、結果が起きているにもかかわらず、結果を否定し、さらに「危険があるのか」と語るのである。
セクシュアル・ハラスメントでも同じような議論が繰り返されてきた。セクハラ被害により通院を余儀なくされるなど、多大の被害を訴えても、「品格」の問題に過ぎないとして、被害を否定する論法がまかり通った時代があった。
*
以上が駒村論文の憲法論文である。その後に政治学的関連や哲学的観点と称する素人談義が続く。哲学的観点の結論は「思想の自由市場論」である。
「私が他所でよく使う言葉に“意味の秩序”というものがありますが、それに倣えば、意味の秩序の構築・解体は思想の自由市場における発話の反復に委ねよ、ということになります。」
「この点、思想の自由市場が生み出すダイナミズムに賭けるというのが表現の自由論のレガシーであったわけです。私自身はその方向性を大事にしたいと思っております。」
*
以下、私のコメント。
「思想の自由市場」論については何度も批判してきた。
思想の自由市場論は、憲法原理でもなければ社会科学理論でもない。一度も検証されたことのない仮説であり、単なる比喩的表現に過ぎないのではないか。
第1に、思想の自由市場を経済市場と類比する根拠や具体的内容が明らかでない。思想の自由市場論は比喩的表現であるが、比喩の正当性自体疑わしい。ウォルドロンは、思想の市場というイメージの支持者を批判して、「彼らはロースクールの学生に、『思想の市場』という呪文をまくしたてることを教えるだけである。経済市場においては政府による一定の規制が重要だと一般的に思われている。にもかかわらず、私たちは、『思想の市場』に関しては、そうした規制に類比されるものを何も生み出してこなかった。そうしたものがあれば、ヘイト・スピーチ規制に賛成または反対の議論をするのに役立つことだろう。思想の自由市場の支持者は、こうした事情を学生に思い出させることをしないの である」と述べる(前記『ヘイト・スピーチという危害』186頁)。経済市場には貨幣という「共通言語」があり、市場参入者は経済的合理性に従って利潤を追求する。思想の自由市場にはこうした「共通言語」が存在しない。
第2に、思想の自由市場論が成立するためには、市場参入者の同質性と平等性が保障されていなければならない。この前提を掘り崩すヘイト・スピーチに思想の自由市場論を適用することはできない。同質的で平等な市民同士の意見交換の場合であれば、少数意見が多数意見に変わることもありうるかもしれない。しかし、マジョリティとマイノリティが異なる人種・民族に属するがゆえに、構造的差別の下でヘイト・スピーチが発信されている場合、マイノリティがマジョリティに変わる可能性は最初からない。小谷順子によれば「ヘイト・スピーチの衝撃的かつ威圧的なメッセージ性ゆえに、被害者や一般市民が沈黙してしまう可能性があり、そうなると対抗言論が発信されないままになる可能性があるほか、仮に論理的な対抗言論が発信されても、威圧的かつ感情的なヘイト・スピーチによってかき消されてしまう可能性があることが指摘されている。そうなると、ヘイト・スピーチへの対抗言論が将来的に『真実』または『良い思想』として社会や市場を制覇する可能性はきわめて低くなる」。
第3に、思想の自由市場論はタイムスパンを明示しない。仮に長期的には思想の自由市場論が当てはまる場合がありうるとしても、一般的に適用できるとは限らない。まして短期的には、大衆がナチスを支持し、マッカーシズムの熱狂がアメリカを席巻する。最終的にナチスが崩壊し、マッカーシズムが消失したとしても、渦中にあって甚大な被害を受けた人々の救済を阻む理由にはならないだろう。
第4に、市場の論理に喩えるのであれば、思想の自由市場論を唱える前に、「悪貨は良貨を駆逐する」という常識を考慮する必要がある。経済市場だけではなく、思想の市場においてこそ悪貨が良貨を駆逐してきたことは、マスメディアを見ればたちどころに明らかである。ましてインターネット時代においては改めて証明する必要がない。
第5に、ヘイト・スピーチ被害者が思想の自由市場に参入するつもりがない場合に、なぜ参入を強制されなければならないだろうか。ヘイト・スピーチ加害者が一方的に押し掛けてきて罵声を浴びせる事例で、被害者に対抗言論を強制することは二次被害の拡大でしかない。
思想の自由市場論をヘイト・スピーチに適用する論者は、ヘイト・スピーチに様々の行為類型があることを考慮していないように見える。名誉毀損型や差別表明型だけではなく、迫害型やジェノサイド煽動型に至る多様なヘイト・スピーチを見るならば、その暴力性が明らかになり、人間の尊厳に対する侵害が見えてくる。これを「思想」と呼ぶことで、見えなくなるものが大きすぎることに注意する必要がある。
結論として、①思想の自由市場論は検証されたことのない仮説であり、その内容は極めてあいまいであり、比喩的表現を超えるものではない。そもそも検証可能性のない妄想を仮説と称することは疑問である。②思想の自由市場論が仮に検証されても、それをヘイト・スピーチに適用することの相当性が明らかにされていない。③思想の自由市場論がアメリカにおいて採用されているとしても、日本国憲法がこの仮説を採用しているという論証がなされたことは一度もない。
*
憲法学等の動向について、前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』では、奥平康弘、内野正幸、小谷順子、奈須祐治、上村都、遠藤比呂通、芦部信喜、佐藤幸治、辻村みよ子、初宿正典、長谷部恭男、渋谷秀樹、赤坂正浩、市川正人、川口是などの見解を検討した。
その後、成嶋隆、塚田哲之、尾崎一郎、市川正人、齊藤愛、浅野善治、光信一宏、木村草太、齋藤民徒、藤井正希、曽我部真裕、田代亜紀、榎透、奈須祐治、山邨俊英、桧垣伸次等の見解を紹介・検討してきた(これについては次の私の本で取り上げる)。
ここでの最大の論点は、レイシズムは民主主義と両立するか、しないかである。私見では両者は両立しない。それゆえレイシズムの具体的現象形態であるヘイト・スピーチは民主主義と両立しない。ヘイト・スピーチを容認・放置すると民主主義の基礎を掘り崩すことになる。民主主義を重視し、表現の自由の保障を実現するためにはヘイト・スピーチを規制する必要がある。マイノリティの表現の自由を考慮するならば、マジョリティの差別表現の自由に優越的地位を認めることはあってはならない。マジョリティの表現の自由を一方的に尊重するのではなく、マイノリティの表現の自由こそが優越的地位を認められるべきである。民主主義と表現の自由を真に尊重するにはヘイト・スピーチ刑事規制が不可欠である。
以上が、これまで何度も繰り返してきた私見の基本命題であるが、これに対する憲法学者からの応答は見られない。駒村論文にも私見への応答はない。陳腐な「思想の自由市場論」の“反復”という“無意味の秩序”に過ぎないのではないか。