福島至編『團藤重光研究――法思想・立法論、最高裁判事時代』(日本評論社)
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高田久実「第5章 改正刑法準備草案と團藤――名誉に対する罪をめぐる戦前・戦後の刑法改正事業」は、刑事立法における團藤の刑法学がどのような内実を有したかを、名誉毀損罪の規定、特に事実証明規定に即して検討する。1921年に始まった刑法改正作業のまとめとしての改正刑法仮案(総則1933年、各則1940年)における名誉毀損罪の検討過程を、泉二説や小野説に即してフォローしたうえで、戦後に始まった刑法改正作業における改正刑法準備草案(1963年)における團藤説の位置を測定しようとする。刑法230条の2の導入過程をつぶさに検討し、小野と團藤の理解を対比し、團藤の提案が改正刑法準備草案では削除された意味を考察する。團藤刑法学の形成過程の一面を明らかにすると同時に、刑法改正作業の研究にも新たな光を当てる。
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玄 守道「第6章 團藤重光の人格責任論――その形成過程に着目して」は、團藤刑法学の要である人格責任論、あるいは主体性の理論の形成過程を解明する。その際、玄は、刑法理論だけでなく、團藤の初期の刑事訴訟法学の形成過程や、行刑理論の構築においてすでに人格責任論がみられたことに着目し、分析を加える。レンツやメツガーの理論に学びながら、團藤の独自の理論がいかに形成されたかである。「團藤は犯罪論、刑罰・行刑論、刑事手続論を人格ないし主体性の理論を基礎に動的に一貫して把握しようとしている」という。そのうえで、1949年の人格責任論論文で骨格が提示されたので、詳しくフォローする。玄は、團藤の「普遍的な理論構築への問題関心」と、人格の動的・発展的性格を理論に組み込もうとする野心的な試みに着目しつつ、理論的整合性がとれたとはいいがたく、人格責任論を支持することはできないという。團藤から継承すべきは、問題意識や思考方法である。
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出口雄一「第7章 昭和28年刑事訴訟法改正と團藤重光」は、刑事訴訟法の1953年大改正の際の、法制審議会刑事法部会小委員会、及び法制審議会刑事法部会、そして国会における議論を紹介・検討する。主な改正点は、陪審制度採用の要否と不当勾留抑制、簡易公判手続きの導入とアレインメント制度、控訴審の構造であり、さらに検察官と司法警察職員との関係(捜査の適正化)をめぐる位置づけであった。刑事裁判における職権主義と当事者主義の関係をいかに理解するかが問われていた。出口は、「憲法化・アメリカ法化・当事者主義化・操作の適正化の4つの特色を持つ新刑事訴訟法にとって、1950年代は『模索と定着』の時代」であるとし、職権主義を定着させようとする立場と、伝統的な職権主義に押し戻そうとする立場が「交錯」していたとし、團藤は当事者主義の定着を図ったとみる。
この点はとても興味深かった。平野龍一の刑事訴訟法学を学んだ者にとっては、「團藤の職権主義vs平野の当事者主義」という構図で見てしまいがちになる。だが1953年当時は「小野清一郎の職権主義vs團藤の当事者主義」が対抗しており、團藤は恩師・小野の議論にチャレンジしていたのだということがわかる。
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兒玉圭司「第8章 團藤文庫『警察監獄学校設立始末』から見えてくるものーー明治32年・警察監獄学校の設立経緯」は、團藤文庫の『警察監獄学校設立始末』を紹介しつつ、その設置経過において設置目的に変更があったこと、歴史的に重要な役割を果たしたことを明らかにする。1915年の全国65名の「典獄」のうち27名が警察監獄学校卒業生だったという。本資料が團藤の法思想の形成に直接的に関係したとは言えないと兒玉自身が述べているが、興味深い資料であり、研究である。
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團藤刑法学には長い歴史があり、幅広い射程があるため、総合的研究を行うには多数の研究者による共同が必要である。そのための作業はこれまでも行われてきたし、高田と玄も先行研究に学びつつ、さらに團藤文庫資料を活用して新たな知見と分析を加えている。
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以下、余談。
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学会は別として、團藤が一般社会で認知されたのは、その死刑廃止論者としての発言であったといえよう。東大教授として、刑法学者として、最高裁判事としてきわめて広範で重要な貢献をしたとはいえ、團藤は一般には知られていなかった。死刑廃止論こそ、社会に知られることになった理由であり、社会における團藤の存在意義であったと言って過言でない。
そこで気になるのは、人格責任論と死刑の関係である。というのも、最高裁判事時代までの團藤刑法学は死刑積極存置論であり、最高裁判事として死刑判決を書いた。死刑廃止論に転じたのは判事退官後である。つまり、團藤の人格責任論は死刑存置論であった。少なくとも死刑存置論と矛盾しなかった。そして、人格責任論をあまり口にしなくなって以後に死刑廃止論に転じたのだ。このことの意味をきちんと分析しないと、團藤の人格責任論を論じたことにならないのではないか。