福島至編『團藤重光研究――法思想・立法論、最高裁判事時代』(日本評論社)
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太田宗志「第3章 東大と防空――團藤重光と東京帝国大学特設防護団法学部団」
小石川裕介「第4章 法学の研究動員と團藤重光――戦時下の学術研究会議を中心として」
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2本の論文は、團藤文庫資料を基に、戦時下の團藤重光の活動と研究に一側面を明らかにする。従来、資料が少なく、先行研究もわずかで、当事者の証言も多くはない分野であるだけに、いわば空白期である。
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太田は、團藤文庫資料にある東京帝国大学特設防護団法学部団の資料――『防護団登番記録』と『防護団ノート』――によって、その活動の様子を明らかにし、そこにおける團藤の位置と役割を解明する。1941年10月に設置された東京帝国大学特設防護団は、大学全体の組織だが、学部ごとに編成されたので、法学部団も設置され、その記録が残された。これによると、教官(教授、助教授、助手)と学生350名を、総務、防火、研究室の分に編成していたという。團藤は総務班長だった。太田は、当番日記から見えてくる防護団の状況を解説し、空襲の危機への太陽、そして敗戦後の灯台防空の終焉までたどる。基本的に資料紹介にとどまるが、興味深い。国家総動員体制で臨んだ「大東亜戦争」における異様に貧弱な防空体制--国民の生命財産を軽視した戦時体制の批判的検討はなされていない。
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小石川は、戦時下の学術研究の一側面を明らかにする。科学研究動員委員会において、團藤はインド刑法の研究を担当し、その記録を残している。「インド刑法略史」の記述が紹介され、團藤が「政治的」ではなく、「一個の法律学徒」として「文化的」考察を試みたという。特別委員会においては、團藤は経済犯罪研究委員会に所属し、価格統制、配給、消費等の経済刑法研究を行っていたという。重要な資料が紹介されている。敗戦後の1946年には、突如として「民主主義と法律」「民主主義的裁判期間の構成」を担当したことにも言及があるが、「法学における共同研究の戦前・戦後の連続性/断絶性の問題については、今後の課題としたい」と述べるにとどまっている。
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以下は余談。
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私は大学院時代にナチス刑法研究に手をつけた時期があり、最初の著書『鏡の中の刑法』(水曜社、1992年)270~367頁に収録した。そのさい当時の日本刑法学者(牧野英一、木村亀二、小野清一郎、不破武夫、安平政吉、佐伯千仭、團藤重光、市川秀雄ら)がナチス刑事法をいかに紹介・受容したかを論じた。
その後、戦時期における日本刑事法の特質を評定する研究も始めた。なかなか成果が出なかったが、小田中聡樹先生古稀記念論文集に論文「日本法理の歴史意識」を書くことができた。そこでは、小野清一郎と團藤重光の2人に絞って、日本法理、大東亜法秩序がいかなる法理であったかを解明するとともに、戦後に再編成された團藤刑法学――その理論的中核をなす主体性の理論と人格形成理論の淵源の一つが小野清一郎の日本法理であったことを論じた。「戦前・戦後の連続性/断絶性の問題」そのものを取り上げた。この論文は、のちに私の『ジェノサイド論』に「侵略の刑法学――日本法理の歴史意識」と改題して収録した。
しかし、私はその後、このテーマを深めることはしなかった。研究環境が大きく変わったことと、他に抱えるテーマが多数あったため、この研究を放棄してしまった。
その後、宮本弘典、本田稔をはじめ、戦時刑事法の実相とイデオロギーを解明する研究は続いている。最近では法制史における出口雄一らの研究も重要である。
今年2月、私の著書『500冊の死刑』出版記念会で、宮本弘典に話をしてもらったが、その際の配布資料は宮本の論文「二ホン刑事司法の古層」『今,私たちに差し迫る問題を考える Vol.2」(関東学院出版会)であった。宮本は、戦後司法改革の担い手たちが、実は戦時刑事イデオロギーの張本人たちであったこと、理論的にも思想的にも連続性を否定できないことを逐次明らかにしている。
ここ数年、私自身は植民地主義批判、植民地主義法批判の作業を続けているが、刑法学における植民地主義批判にたどり着いていない。『團藤重光研究――法思想・立法論、最高裁判事時代』には、植民地主義批判という問題意識がみられないのが気にかかる。