Friday, August 14, 2020

ジャーナリズムが崩壊した理由

 望月衣塑子・佐高信『なぜ日本のジャーナリズムは崩壊したのか』(講談社+α新書)

「ジャーナリズムの危機」は何十年と語られてきた。ジャーナリズムはつねに危機を抱え、改善することなく、腐敗と腐朽の途を歩んできた。御用ジャーナリズム論者は別として、誰もがジャーナリズムの危機を唱え、是正策、改善策を提示してきた。しかし、ジャーナリズムの再生が語られたことはない。転落の一途であり、自壊の一途であった。

『新聞記者』の望月と、辛口評論家の佐高は、「ジャーナリズムの危機」ではなく「崩壊したジャーナリズム」を語る。なぜ崩壊したのか。

大石泰彦編著『ジャーナリズムなき国の、ジャーナリズム論』(彩流社)は、ジャーナリズム研究者による精緻なジャーナリズム批判だが、そこでは「日本のジャーナリズムの危機」を語ることは誤りであり、もともとジャーナリズムではないのだから、その変質を語ることもできない、と喝破していた。私は本書を『マスコミ市民』で紹介した。

同様に、望月と佐高は、もともと日本のジャーナリズムには多大の限界があったが、それでもいちおうジャーナリズムではあった。それがなぜ崩壊したのか、と問う。

安倍や菅を批判してきた望月と、歴代政権批判・メディア批判を徹底してきた佐高であるから、矛先は何よりも安倍と菅に向けられ、続いて御用マスコミに向けられる。

「アベノマスク狂想曲」「安倍政権こそ緊急事態」「命の選別、国民蔑視」に始まり、「人間を休業するという残酷さ」「ヘイト国家の先にある闇」、そして「記者が権力の番犬になってしまった」。

次々と紹介されるエピソードは、2人の著者の本を何冊か読んだ読者には既知のことだが、2人のやり取りの中で提示されているので、単なる繰り返しではなく、あらためて、なるほど、と受け止めることができる。「権力の番犬」と化した記者クラブの腐敗ぶりは想像を絶する。

本書はジャーナリズムの死亡宣告だが、実は2人はジャーナリズムを諦めていない。

「文化は権力と対峙して磨かれる」「パージされても新たな出会いがある」「変えようとしなければジャーナリズムじゃない」。

固有名詞では、松坂桃李、岸井成格、前川喜平、佐橋滋、赤木雅子、吉田ルイ子が。そして、望月は最後に「ジャーナリズムの危機と光明と」と語る。ただ、解決策はほとんどない。ジャーナリストの自覚の必要性が唱えられるにとどまる。自覚して闘ってきた望月が言うから説得力があるように見えるが、記者クラブの記者たちが同じように自覚して闘うとは思えない。この点では、何十年と同じ事が指摘されてきたが、改善したためしがない。