Tuesday, March 23, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(166)内容中立性原則

鈴木崇之「アメリカにおける内容中立性原則の分析――hate speech規制をめぐる合衆国最高裁の判例法理を中心に」『東洋大学大学院紀要』五三集(二〇一六年)

アメリカでは学説・判例上「公理」となっていると言われる内容中立性原則について、日本では多くの先行研究があるが、鈴木は「その内実に関しては、いまだ論争的であり、これを整理し、明確にすることでその理解が容易になる」という。Cox事件判決、Mosley事件判決からChaplinsky事件判決、Beauharnais事件判決を経て、R.A.V.事件判決における原則の確立、さらにBlack事件判決を辿り直す。

R.A.V.事件判決とBlack事件判決の整合性について、鈴木は、「規制される言論の表現行為類型については、R.A.V.事件判決とBlack事件判決で異なるが、内容規制の対象については、歴史的に差別されてきた個人あるいは集団に対する耐えがたい表現という点で、ある程度の一致がみられる。つまり、hate speechは、表現行為類型によって特徴づけられるのではなく、特定の内容(歴史的に差別されてきた個人あるいは集団に対する耐えがたい表現)を選び出していることによって特徴づけられている。法廷意見のように十字架焼却に特定のイデオロギーが付帯しないと解すれば、Black事件判決は、hate speechに関する事例ではなく、単に象徴的言論規制あるいは十字架焼却規制の合憲性について判断した事例として認識されるべきである」という。

hate speechについて、上述のように、その目的を歴史的に差別されてきた個人あるいは集団に対する耐えがたい表現から彼らを保護することにあるとすれば、保護されない言論全体を規制した場合に、hate speech規制との関係でその規制の広範性が問題となる。しかし、その目的に沿うように規制を行えば、中立性を欠くこととなる。つまり、保護されない言論の中で内容規制を行う場合に、規制の広範性と中立性との間でディレンマが生じる。その結果、アメリカにおいて、hate speechを規制することが事実上不可能となった。」

ただ、最後に鈴木は「アメリカの判例法理が、日本におけるhate speechの議論に対して、どのような意味を有するかという点については明らかにしえなかった」と正直に述べる。

「じゃあ、なんで論文書いたの?」と言うべきところだが、鈴木論文にはそれなりの意味がある。R.A.V.事件判決によって確立された内容中立性原則の射程を明らかにしているからだ。

私自身は内容中立性原則なるものをもともと評価していないので、あまり関心はない。ただ、多くの憲法学者が「内容中立性原則だ」と断定的に述べて問答無用の態度を示すので、いちおう応答しておく必要はある。若干の感想を述べておこう。

1に、鈴木によれば、「その内実に関しては、いまだ論争的であり、これを整理し、明確にすることでその理解が容易になる」が、R.A.V.事件判決とBlack事件判決の整合性についてさえいまだに理解の幅がある。それをなぜ「原則」などと呼ぶことができるのか。原則が確立されたとか「公理」だというのは、レッテル詐欺に近い話であることを鈴木が教えてくれた。

2に、日本における内容中立性原則は、芦部信喜がアメリカの判例法理を検討して抽出した原則とされ、日本の憲法学においては絶大の影響力を持っているが、判例には採用されていない。判例の読み方について、芦部は「二分説の考え方を明示すると否とを問わず一つの前提にしている、とみることは十分に可能であろう」と述べている。「明示的に否定されていないから、黙示的に前提とされているとみることが十分に可能」というトンデモな議論である。

3に、内容中立性原則なるものは、内容規制・内容中立規制二分論を説明する際に用いられてきた。よく言えば明快な議論である。悪く言えば過度の単純化の弊と言うべき議論である。内容規制・内容中立規制や、価値中立論の特質は、これに賛同する者には極めて明快な点である。だが、疑問を持つ者にとってはこれほどあいまいな議論はない。線引き不能の内容規制と内容中立規制という基準をあえて持ち出すことで、説明を要する概念を増やしただけではないだろうか。日本国憲法前文や第一二条は内容に満ちた法世界、価値に満ちた法世界を想定しているのであって、内容中立や価値中立に逃げ込むことは背理というべきではないだろうか。

もっとも、法解釈というものは試行錯誤を繰り返すことで、概念の明晰さを錬成していくプロセスであるから、内容中立性原則や、内容規制・内容中立規制二分論がそのための積極的な試みであることを否定することもできない。万が一、日本の裁判所において積極的に採用されることがあれば、その時には重要な意味を持つであろう。