斉藤拓実「『自由』と『尊厳』の狭間のHate Speech規制――アメリカ例外主義と憲法21条」『中央大学大学院研究年報』第45号(2016年)
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斉藤は2018年に論文「日本におけるヘイトスピーチ――法的対応とこれからの課題」憲法理論研究会編『岐路に立つ立憲主義』を公表している。
https://maeda-akira.blogspot.com/2019/01/blog-post_31.html
そこでは斉藤は「刑事規制以外の手段を中心的な対象」、「刑事規制を敢えて迂回した手段」としていた。その背後にある斉藤の思想がよくわからなかったが、その2年前に発表した本論文で、ヘイト・スピーチ刑事規制に関するアメリカの学説及び判例の法理をフォローした上で、日本の学説と判例を検討している。これを前提として、次の一歩として「刑事規制を敢えて迂回した手段」を考察していたようだ。
本論文では、発話者の表現の自由の保障を理由にヘイト・スピーチの刑事規制に否定的なアメリカの学説・判例の中にも、被害者側の尊厳に注目して刑事規制の可能性を唱える新たな学説が登場していることに留意しつつ、両者の間の対話を確認する。
続いて斉藤は、日本について、奥平康弘と芦部信喜以来、憲法学説ではアメリカの判例法理に学んだ表現の自由論が圧倒的に強く、定説となっていることを確認する。近年も多数の表現の自由論が公表されているが、枠組みは奥平・芦部とさして変わらないと言って良い。
斉藤は、日本について、最高裁判例の動向を確認する。公務員の政治活動に関する猿払事件最高裁判決は「表現の自由にとって乗り越えなければならないハードルと考えられてきた」という。集会の自由と公共施設利用権に関する新潟県公安条例事件最高裁判決、泉佐野事件最高裁判決を踏まえて、日本では「明白かつ現在の危険」論がきちんと採用されず、独自の「明らかな差し迫った危険」論が採用されているという。
憲法学説は、明白かつ現在の危険に始まり、二重の基準論、表現内容規制、表現内容中立規制、ブランデンバーグ原則、LRAをはじめ、アメリカの理論を借用して数々の「理論」を提示してきたが、斉藤によると、最高裁はこれらを受容していない。最高裁判例を丁寧に読み解けば、憲法学説がさまざまに影響を与えてはいるのだが、受容されたわけではない。
結論において、斉藤は「少なくとも最高裁判所の立場に立てば、日本国憲法は必ずしもアメリカ例外主義を受容しているものではないように思われる。このような視点が、Hate Speechをめぐる今日の日本の議論状況において、どのような意味をもつものとなるだろうか」と問う。
そして斉藤は、①表現の自由論による規制消極論と、②差別解消のための規制積極論の対立を、上記の確認に照らして見直す。①の立場を自明の前提のように語る憲法学者が多数いる。しかし、この立場は、最高裁判所によって採用されていない。今後に向けてアメリカ例外主義を受け入れるべきだと主張するしかないだろう。日本におけるヘイト・スピーチの議論として、いきなり①の立場を前提とすることはできないことが分かる。
他方、斉藤によると、②の立場に立つためには、規制が予防的なものとなるため「憲法21条違反を問われた時、立法政策上それに耐える十分なものとはなりえず、そればかりか不当な動機に基づく表現規制であることさえ疑われるだろう」という。
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表現の自由についてアメリカ憲法学と判例に関する研究は膨大にある。多くの憲法学者がアメリカ表現の自由の法理を盾に、ヘイト・スピーチ刑事規制を否定してきた。
だが、その法理はそもそも日本の最高裁によって採用されていない。憲法学者にとっては重要か理論もしれないが、現実と交錯していない。このことを斉藤も確認している。
他方、差別解消のためにヘイト・スピーチ刑事規制を唱える見解は、斉藤によると、やはり憲法21条に照らして疑問が残るという。
斉藤は、①表現の自由を理由にする規制消極説と、②差別解消を理由とする規制積極説を対比して、検討する。私は、①や②ではなく、③表現の自由を理由にヘイト・スピーチ規制積極説を唱えてきたが、斉藤の視野には入っていないようだ。
斉藤は「アメリカ合衆国が、いわば表現の自由の『過剰』ゆえにHate Speech規制を困難にしているとすれば、日本においては、表現の自由の『過少』ゆえに困難が伴うのであって、Hate Speech規制にかかわる問題は両国に大きな隔たりがある」という。
半分納得するが、半分疑問である。
第1に、アメリカにおける表現の自由の「過剰」とは何を意味するのか。現実には差別表現をするマジョリティの表現の自由の過剰にすぎないだろう。マイノリティにとっては表現の自由の「過少」ではないだろうか。法の主体はすべて自由で独立で平等であるという「信念」が無媒介に前提とされると、現実無視の議論にならないだろうか。
第2に、日本における表現の自由の「過少」とは何を意味するのか。最高裁判例への批判としては適切であるが、現実の表現はどうか。とりわけインターネットの無法状態をどう見るか。
以上の2点を含めて、誰のどのような自由がどの文脈で、という観点で見ていく必要がある。この点では、斉藤は論文の終わりで、適切に、ヘイト・スピーチの類型論を考慮する必要性を指摘している。