見平典「第14章 表現の自由」曽我部真裕・見平典編『古典で読む憲法』(有斐閣、2016年)
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<目次>
Ⅰ 表現の自由をめぐる闘争
Ⅱ 表現の自由の保障根拠
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Ⅲ ヘイト・スピーチの規制
見平は、「現代の立憲主義諸国は、ヘイト・スピーチ規制の導入をめぐって苦悩しており、国によって対応も分かれてきた」(239頁)と述べ、検討を加える。
1 ヘイト・スピーチ規制の積極論
2 ヘイト・スピーチ規制の消極論
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1 ヘイト・スピーチ規制の積極論
見平は、積極論の論拠を5つにまとめる。
第1に、「その標的とされた集団の構成員に深刻な精神的・身体的害悪をもたらすという点である」(239頁)。見平は、マリ・マツダの議論を引用する。
第2に、「既存の差別構造を強化・再生産するという点である」(239頁)。ここでもマリ・マツダを引用する。
第3に、「通常の対抗言論の減速や思想の自由市場の考え方が機能しないとされる」(240頁)として、沈黙効果や思想の自由市場のゆがみに言及する。
第4に、ヘイト・スピーチは表現の自由を支える諸価値に寄与しないとされる」(240頁)。
最後に、見平は、「ヘイト・スピーチ規制は表現の自由の抑圧ではなく、むしろ思想の自由市場のゆがみを矯正し、犠牲者の表現の自由を確保するためのものであると主張する」(240~241頁)という。つまり「国家からの自由」ではなく「国家による自由」の議論であるという。
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2 ヘイト・スピーチ規制の消極論
見平は、消極論の論拠を5つにまとめる。
第1に、「政府が規制を乱用するおそれが存在する点である」(241頁)。
第2に、「規制が市民に広範な委縮効果を及ぼすおそれがある点である」(241頁)。
第3に、「ヘイト・スピーチの領域においても、対抗言論や思想の自由市場は機能しうるとされる」(242頁)。犠牲者が反論できない場合でも、多数者集団の中から対抗言論がなされればよいからだという。
「実際に、ヘイト・スピーチ規制を支持する声が少数者集団・多数者集団に跨る形で存在しており、規制導入の是非が議論されていることは、対抗言論や思想の自由市場、民主的討議が機能していることを例証している、とされる。」(242頁)
第4に、「ヘイト・スピーチは表現の自由を支える諸価値にまったく寄与しないとはいえない、とされる」(242頁)。
「ヘイト・スピーチは社会の中に差別思想が存在していること、差別主義者が活動していることを明らかにするが、これは、差別の原因やとるべき政策を議論することを促すという点で、民主的討議に(消極的に)寄与しているとみることも可能である。」(242頁)
第5に、見平は、「差別の克服や平等の実現のためにとりうる手段は、ヘイト・スピーチ規制以外にも存在していることが指摘される」(242頁)
「特に、差別の克服という観点からみれば、ヘイト・スピーチ規制によって社会に存在する差別思想が隠蔽されてしまうことの方が問題であるとされる。」(242頁)
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3 まとめ
見平は、積極論と消極論を紹介するにとどめ、それ以上の検討をしていない。「入門書」なので、読者が自分で考えるようにという趣旨であろうか。
最後に見平は、「留意点」を2つ述べる。
第1に、「日本の現状を精確に認識する必要がある」(243頁)。「日本における差別の実態、ヘイト・スピーチの被害状況、表現規制の運用実態を把握するとともに、ヘイト・スピーチ規制の効果等について日本の文脈に照らしながら考えることが必要であろう」(243頁)という。
第2に、「この問題が表現の自由に関する原理的な問いを提起しているという点である」(243頁)。「『国家からの自由』か、それとも『国家による自由』という局面も認めるかという問いを投げかけるものである。読者も、この問題を通して、表現の自由の保障のあり方について、ぜひ考えてみてほしい」と締めくくる(243頁)。
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見平は、参考文献として、大石眞・石川健治編『憲法の争点』、内野正幸の2014年の論文及び内野の1990年の著書『差別的表現』、アンソニー・ルイス『敵対する思想の自由』、エリック・バレント『言論の自由』をあげる。
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2015年当時に日本でヘイト・スピーチについて議論するのに、師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書、2013年)をあげないのは不思議。金尚均編『ヘイト・スピーチの法的研究』(法律文化社、2014年)も無視されている。「古典で読む表現の自由」だからというわけではないだろう。大石・石川も内野もルイスもバレントも古典とはいえない。