見平典「第14章 表現の自由」曽我部真裕・見平典編『古典で読む憲法』(有斐閣、2016年)
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見平論文は学生向けの「入門書」の一章であって、研究論文ではない。見平のオリジナルではなく、これまでに多くの論者によって言われてきたことをまとめただけとも言える。その意味では、これをヘイト・スピーチ研究の一つとして検討する必要はないかもしれないが、内容を見ると、憲法学の水準を踏まえて手際よく整理している。そして、日本憲法学の論文を見れば一目瞭然だが、専門研究ではない解説文やエッセイを引用して議論するのはごく普通のことである。頻繁に行われてきたことだ。現に佐藤潤一論文は、見平の議論を引用し、立論の根拠にしている。
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見平論文はとても不思議な構成を採用している。この不思議さこそが日本憲法学の基本的特徴である。目次は次のとおりである。
<目次>
Ⅰ 表現の自由をめぐる闘争
Ⅱ 表現の自由の保障根拠
Ⅲ ヘイト・スピーチの規制
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Ⅰ 表現の自由をめぐる闘争で、見平は、紀元前5世紀のギリシアと紀元前3世紀の秦の始皇帝、そして宗教改革のマルティン・ルターに言及する。ギリシアと秦を無媒介に並べるのは荒唐無稽としか思えないが、まあいいだろう。市民革命後について、見平は、ジョン・ミルトンの検閲なき出版の自由論の意義にふれてイギリスにおける表現の自由の進展を見たうえで、アメリカ憲法修正1条の制定と運用の前進を振り返る。近代西欧の憲法史の古典から学ぶのだから、ルターとミルトンを挙げるのはよくわかる。
Ⅱ 表現の自由の保障根拠で、見平は、1 真理への到達――「思想の自由市場」論、2 自己統治、3 個人の自己実現・自律、4 表現の自由の脆さについて議論する。ミルトンも出てくるが、ここではホームズ、マイクルジョン、エマーソンと、アメリカ詣でになる。Ⅰでは西欧だったのに、Ⅱではアメリカになる。全体として欧米だからまだ一貫しているのだろうか。
Ⅲ ヘイト・スピーチの規制で、見平は、1 ヘイト・スピーチ規制の積極論、2 ヘイト・スピーチ規制の消極論、3 まとめ、を論じるが、すべてアメリカの議論を参照する。西欧の議論は一切顧みようとしない。
西欧近代の憲法史の古典に学ぶはずが、突如としてアメリカ一本やりになるのは不思議だ。だが、これは見平に固有のことではない。日本憲法学にはこうした立論、構成が非常に多い。西欧、西欧と言って、イギリスやフランスから始めながら、いつの間にか「世界はアメリカだけでできている。学ぶべきはアメリカだけだ」となる。表現の自由の議論では特にこの傾向が強い。
議会制民主主義の議論ではこうはならないし、天皇制の議論でもこうはならない。アメリカ憲法と日本国憲法は、決定的に違う。大統領制のアメリカ、天皇制の日本、議会制民主主義の日本、9条のある日本、9条のないアメリカ、連邦制のアメリカ。基本構造が全く違う。だから、日本の憲法学はこれらの点でアメリカ憲法に学ぶことはしてこなかった。当然だ。ところが、日本憲法学の比較法には一貫した方法論がないから、そのつどのそのつど、論者の趣味でふらふら、あちこちさまようことになる。気分次第でギリシアに行ったり、中国に飛んだりする。そして落ち着くのが「西欧からアメリカへ」だ。
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以上のことは、些末な話に見えるかもしれないが、そうではない。学問の方法にかかわることだ。見平は次のように述べる。
「現代の立憲民主政諸国は、こうした表現に規制を加えるべきか長く苦悩してきた。というのも、それらの諸国では、差別の克服や少数者の保護は重要な課題とされているが、表現の自由もまた憲法上の重要な権利として保障されているからである。実際に、各国の対応は割れており、ヨーロッパではヘイト・スピーチに何らかの規制を設けている国も少なくないが、アメリカでは連邦最高裁判所がこうした規制を認めることに消極的である。」(225頁)
奇怪な文章だ。「現代の立憲民主政諸国は、こうした表現に規制を加えるべきか長く苦悩してきた」というが、本当だろうか。「実際に、各国の対応は割れており、ヨーロッパではヘイト・スピーチに何らかの規制を設けている国も少なくない」というが、本当だろうか。
見平は「各国の対応は割れており、ヨーロッパではヘイト・スピーチに何らかの規制を設けている国も少なくないが、アメリカでは連邦最高裁判所がこうした規制を認めることに消極的である」という。この文章を、普通の読者はどう読むだろうか。「少なくない」というレトリックから、「ヨーロッパではA国とB国は規制し、C国、D国、E国は規制せず、アメリカは消極的」と読むのではないだろうか。見平は具体的な国名を一つも挙げずに、「少なくない」と述べる。それでは、C国、D国、E国はどこか。
師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書、2013年)の読者なら、EU議会決議によって、EU諸国はすべてヘイト規制することになっていることを知っている。実際にすべてのEU諸国に規制法がある。EU加盟国以外の欧州諸国の多くにも規制法があることは、前田『ヘイト・スピーチ法研究序説』(三一書房、2015年)に示しておいた。つまり、見平論文が書かれた2015年には、すでに、その内容が虚偽であることは明白だった。小手先のレトリックを用いて事実から目を背けるのはなぜなのか。
見平が師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』を参考文献に挙げない理由がよく見えてくる。
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見平は、「現代の立憲主義諸国は、ヘイト・スピーチ規制の導入をめぐって苦悩しており、国によって対応も分かれてきた」(239頁)と述べる。なるほど、「国によって対応も分かれてきた」のは一面の事実である。アメリカと日本は規制に消極的だからだ。とはいえ、アメリカではジェノサイドの煽動は法規制されるし、脅迫類型も処罰される。
「入門書」において、学生に事実に基づいて考えてもらうためには、見平は次のように書くべきだったであろう。
「現代の立憲主義諸国は、ヘイト・スピーチ規制の導入をめぐって苦悩しており、国によって対応も分かれてきた。イギリスもフランスもドイツもイタリアもスペインもポルトガルもアイルランドもベルギーもオランダもスイスもオーストリアもスウェーデンもノルウェーもデンマークもアイスランドもフィンランドもチェコもスロヴァキアもルクセンブルクもリヒテンシュタインもカナダもニュージーランドも規制し、アメリカは消極的だがジェノサイドの煽動等のヘイト・スピーチを規制する」と。
アメリカ政府は人種差別撤廃委員会に「我が国はヘイト・スピーチを許さず、一定の場合に刑事規制する」と報告してきた。日本の憲法学者は「アメリカはヘイト・スピーチを刑事規制しない。刑事規制に消極的である」と決めつけてきた。どちらが事実だろうか。
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事実に基づく思考を忌避する憲法学は、さらに奇妙な展開を示す。見平は、Ⅲ ヘイト・スピーチの規制において、1 ヘイト・スピーチ規制の積極論、2 ヘイト・スピーチ規制の消極論をまとめる。
欧州諸国には規制する国が「少なくない」とし、アメリカは規制に消極的というのなら、普通は、欧州諸国における積極論の論拠と、アメリカにおける消極論を紹介して、読者に両者を対比させて考えるように促すはずだ。ところが、見平は積極論も消極論もアメリカの議論を紹介する。欧州の議論は参考にしない。
見平は積極論の箇所でマリ・マツダの見解を紹介する。なるほどマリ・マツダはアメリカにおいては積極論の代表的論者の一人であり、よく引用される。しかし、欧州におけるヘイト・スピーチ文献でマリ・マツダが引用されることはほとんどない。「ほとんどない」というのは、私は欧州におけるヘイト・スピーチ論の英語文献を数十本読んだが、マリ・マツダが引用されているのを見たことがないという意味だ。フランス語やドイツ語やスペイン語やイタリア語等の諸文献でも同じだろうと思うが、自分で読んだわけではないので断定できない。
欧州におけるヘイト・スピーチ文献は何千本あるのか知らない。欧州におけるヘイト・スピーチ処罰判例が何千件あるのか知らない。とはいえ、人種差別撤廃委員会に報告された欧州数十か国の法状況を見れば、おおよそのことはわかる。私の『ヘイト・スピーチ法研究序説』『ヘイト・スピーチ法研究原論』『ヘイト・スピーチ法研究要綱』で詳しく紹介した。
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見平はなぜアメリカだけを参照するのか。アメリカだけを参照するのなら、なぜ「アメリカだけを参照する」と断らないのか。なぜヨーロッパを含めて「現代の立憲主義諸国」などと語るのだろうか。
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見平は、アメリカでは表現の自由は優越的地位にあるとし、「日本においても、憲法学界では、アメリカの影響を受けて同様の考え方がとられてきた」と述べる(228頁)。これは事実だ。同様にアメリカ法を参照するべきだと唱える憲法学者も似たようなことを唱えてきた。ただ、論者によって微妙な差異がある。
ある論者は、アメリカ憲法に学ぶべき理由を、表現の自由規定の類似性に求める。しかし、米修正第1条と日本国憲法第21条は似ても似つかない条文だ。そもそも憲法構造が違うし、個人の尊重や法の下の平等規定も異なるので、日米の類似性を言い募るのは無理がある。
見平はこの難点を乗り越えるために、「原理的な問い」と言う。表現の自由について原理的に考察すれば、日米の対比には大きな意味があるのはその通りだろう。それでも、なぜイギリスやフランスやドイツを排除するのか、理由にならない。また、原理的に考察するのなら、世界人権宣言、国際自由権規約、人種差別撤廃条約の基本的考え方こそ参照するべきだろう。
そこで、見平は「日本においても、憲法学界では、アメリカの影響を受けて同様の考え方がとられてきた」と重ねる。「憲法学界では同様の考え方がとられてきた」のは事実だ。だが、憲法の構造も条文もまったく違うのに、「憲法学界が同様の考え方を取ってきた」ことを、憲法解釈が同じであるべきだという論拠にできるだろうか。これは「立法論」であり「解釈改憲」だろう。憲法学界では多数説であっても、最高裁判所は長年にわたってこれを採用していない。そんなことをしたら、憲法解釈はなんでもありになってしまうからだ。
この点はこれまで何度も書いてきた。