Tuesday, August 09, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(204)古典で読む表現の自由04

見平典「第14章 表現の自由」曽我部真裕・見平典編『古典で読む憲法』(有斐閣、2016年)

見平の議論にもう少し学ぶことにしたい。

1.      思想の自由市場論

2.      自己統治

3.      表現の自由の脆さ

4.      対抗言論

5.      民主的討議への寄与

6.      代替策

7.      差別思想の隠蔽

8.      ヘイト・クライム

 

1.思想の自由市場論

思想の自由市場論が不適切であることは私の論文及び著書で何度も指摘してきた。このブログでは、例えば下記参照。

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/06/blog-post_14.html

上記に書いた通り、思想の自由市場論は、社会科学でも何でもない、単なるたとえ話に過ぎない。日本国憲法と無縁である。理論の射程もいいかげんで、あいまいであり、議論に使えない。論外だ。

見平は「ホームズ反対意見のもう一つの重要な特徴は、市場のメタファーである。『思想の自由市場』論は、国家による介入を排した完全に自由な市場における競争こそが、国家や社会に最大の利益をもたらすとの当時の経済の自由市場論を、市場に見立てた言論空間に類推している。」(233頁)と述べる。

明確に「メタファー」「類推」と認めている。理論をわかりやすく説明するためにメタファーを利用することはありうる。しかし、理論を根拠づけるためにメタファーを利用するのは失格だろう。

経済市場には需給関係が成立するが、思想の自由市場には成立しない。経済市場には貨幣があるが、思想の自由市場には貨幣に相当するものが存在しない。被害を生む欠陥商品は経済市場から法的に排除されるように、被害を生む表現を市場から排除することも選択肢の一つだ。

2.自己統治

見平は、「民主政が打ち立てられた諸国においては、真理への到達という点とは別に、民主政の維持という点から、表現の自由を擁護する声も挙がるようになった。」(234頁)、「このような見方に従えば、民主政は表現の自由があってこそ成立しうるものであり、その意味で、表現の自由は特別な意義を有するといえる。」(235)

しかし、民主政は法の下の平等と差別の禁止なしに成立するだろうか。社会の構成員の一部を排除するヘイト・スピーチを放置して、「見平の民主政」は成立するのだろうか。

見平は「民主政は表現の自由があってこそ成立しうるものであり、その意味で、表現の自由は特別な意義を有するといえる」というが、「民主政は法の下の平等があってこそ成立しうるものであり、その意味で、法の下の平等は特別な意義を有するといえる」。表現の自由と法の下の平等の両方とも重要であり、もし両者が衝突することがあるとすれば、バランスをとる必要があるはずだ。

3.表現の自由の脆さ

見平は、「表現の自由がきわめて脆いものである」とし、表現の自由が手厚く保障されるべきなのは「歴史的経験をふまえ、表現の自由がこわれやすいものであるという認識がある。」という(238)

不思議な議論だ。何を言っているのか、理解できない。

歴史的経験をふまえ、法の下の平等はきわめて脆いものではないのか。人間の尊厳はきわめて脆いものではないのか。民主主義はきわめて脆いものではないのか。学問の自由は極めて脆いものではないのか。思想・良心の自由は極めて脆いものではないのか。

4.対抗言論

見平は「実際に、ヘイト・スピーチ規制を支持する声が少数者集団・多数者集団に跨る形で存在しており、規制導入の是非が議論されていることは、対抗言論や思想の自由市場、民主的討議が機能していることを例証している、とされる。」(242頁)と述べる。

果たしてそうだろうか。

1に、「実際に、ヘイト・スピーチ規制を支持する声が少数者集団・多数者集団に跨る形で存在」しているというのは、いつ、どこでなのだろう。

①京都朝鮮学校襲撃事件では、ヘイトが行われた時、どこに対抗言論があっただろう。被害が生じて、何日も後に対抗言論がなされたとして、それが何の例証になるのだろうか。

②川崎ヘイトデモで被害者が対抗言論に立ち上がらざるを得なかった。そこに多数者集団による対抗言論も加わった。それが何の例証になるのか。現に生じた被害を無視した議論だ。

2に、「規制導入の是非が議論されていることは、対抗言論や思想の自由市場、民主的討議が機能していることを例証している」とはいったいどのような事態なのだろうか。

「規制導入の是非が議論されている」が、規制は導入されず、しかも論者は規制に消極的であり、規制に反対しているのだ。差別とヘイトが続いているのに、「規制導入の是非が議論されている」ことが何の例証になるのか。ヘイトを擁護する論者が多数派であることの例証でしかないだろう。

被害者に対して、「規制導入の是非が議論されているから良かったね。規制は導入されないけど、未来永劫、議論だけで我慢してね。被害を受け続けてね」と言うのだろうか。

5.民主的討議への寄与

見平は「ヘイト・スピーチは社会の中に差別思想が存在していること、差別主義者が活動していることを明らかにするが、これは、差別の原因やとるべき政策を議論することを促すという点で、民主的討議に(消極的に)寄与しているとみることも可能である。」(242頁)と述べる。

差別があれば、差別をなくそうと議論するのが普通だ。差別をなくそうと議論しても、差別をなくさないという意見が強いため、規制ができず、差別が温存され続けることは社会的不正義だ。

ところが、見平の議論は違う。①ヘイト・スピーチがあるから、②差別思想があるとわかり、③政策の議論を促すから、④民主的討議に(消極的に)寄与している、という。

この議論では、①ヘイト・スピーチがなければ、②差別思想があるとわからず、③政策の議論を促さないから、④民主的討議に(消極的に)寄与しない、となる。ヘイト・スピーチがあることは良いことだとなってしまう。

「民主的討議に(消極的に)寄与」とはいったい何なのだろう。積極的に差別をなくすことには意味を見出さず、差別の原因や政策を議論することだけを評価する議論とはいったい何なのだろう。

先にも指摘したが、見平の民主政は法の下の平等や差別の禁止とは距離を置いて、表現の自由だけを唱える。社会から一定の集団を排除し、その主張を容認し、つまり迫害を容認して、見平の民主政が成立する。

もちろん、見平は差別に反対しており、法の下の平等を守ろうと考えているだろう。だが、見平論文は、法の下の平等や差別の禁止の意義よりも、表現の自由の保障を重視する立場を鮮明にしている。差別とヘイトの被害があっても表現の自由の名でヘイトを規制しないことを優先しようとしていると読める。見平論文は差別をなくすことについては一切語らない。

見平が編集した本書には「第11章 平等」という章が設けられているが、そこでは女性の権利を論じている。本書全体としてヘイト・スピーチの容認という結論が明確に打ち出されている。

6.代替策

見平は、「差別の克服や平等の実現のためにとりうる手段は、ヘイト・スピーチ規制以外にも存在していることが指摘される」(242頁)という。一般論として、他に取りうる手段があるのに刑事規制という手段を安易に用いるべきでないのは確かだ。

しかし、他に取りうる効果的な手段の提唱はなされていない。具体策を提示せずに、このような主張をするべきではないだろう。

また、二者択一には根拠がない。他に取りうる手段というが、ヘイト・スピーチ規制論者は、あれかこれかの二者択一を主張していない。国際自由権規約も人種差別撤廃条約も、刑事規制と他に取りうる手段の両方を推奨している。人種差別撤廃条約は、差別の禁止、差別法の撤廃、アパルトヘイトの禁止、ヘイト・スピーチの刑事規制、被害者救済、反差別教育、反差別の情報・メディアをすべて必要だとしている。当然だ。そのすべてを総動員しても、西欧や北欧ではヘイトがなくならないのだ。差別とヘイトをなくすために必要なすべての手段を取るべきである。

見平は、刑事規制を採用せずに、他の取りうる手段で、具体的にどのようにして差別やヘイトをなくせるのか、明確に提唱するべきではないだろうか。

7.差別思想の隠蔽

見平は「特に、差別の克服という観点からみれば、ヘイト・スピーチ規制によって社会に存在する差別思想が隠蔽されてしまうことの方が問題であるとされる」(242)と述べる。

実に奇怪な主張である。

反差別の思想や運動にかかわってきた者なら、ヘイト被害をなくすために刑事規制をと唱える。規制によって、まず何よりも深刻なヘイト被害をなくす必要がある。そのうえで、なお残る差別をなくすためにさらに措置が必要なことは当然である。

ところが、見平によると、①ヘイトを抑止すると、②「社会に存在する差別思想が隠蔽されてしまう」、③その方が問題であるという考え方が成立するという。

つまり、①ヘイトを容認し、温存しておけば、②「社会に存在する差別思想」が明らかになるから、③差別の克服という観点からは、その方が良い、④だからヘイトがあり、深刻なヘイト被害が続くことが良いことだ、ということになるだろう。見平はこうは述べていないが、他にどのような解釈が可能なのだろうか。

補足しておくと、見平の議論は、時制が不明確である。

思想の自由市場論もそうだが、時制を不明確にしておけば、なんでもありの暴論の世界に陥る。「より良い思想が生き残る」という妄想が可能になるのは、1か月後のことを言っているのか、1年後なのか、10年後なのか、100年後なのか、それとも1万年後なのか、一切特定しないからだ。

いつ、どこで、どのようなヘイトがなされ、どのような被害が起きているのかを明確にして、そのヘイトをなくす議論をしなければならない。いつまでになくすのかを吟味・検討しなければならない。ところが、見平は時制を特定しない。

8.ヘイト・クライム

最後に見平論文では言及されていないことを一つだけ取り上げておこう。通常、その論文で取り上げていないことをあれこれ論評することは筋違いになりかねない。

しかし、ヘイト・スピーチとヘイト・クライムは切っても切れない関係にある。このことは、この10年以上ずっと主張してきた。私の2010年の本は『ヘイト・クライム』であり、そこではヘイト・クライムとヘイト・スピーチを取り上げている。ヘイト・スピーチはスピーチに重点があるとはいえ、暴力的であり、差別と暴力の煽動である。

見平はヘイト・クライムに言及しない。多くの憲法学者の議論は、ヘイト・クライムに言及しない。多くの憲法学者が京都朝鮮学校襲撃事件をヘイト・スピーチという。だが、京都朝鮮学校襲撃事件は威力業務妨害罪や器物損壊罪で有罪になった事件である。ウトロ等放火事件はヘイト・クライムだが、同時に差別思想の宣伝であってヘイト・スピーチでもある。相模原やまゆり園事件もヘイト・クライムだが、優生思想を宣伝したヘイト・スピーチでもある。

現実に目を閉ざして、「表現としてのヘイト・スピーチ」だけに限定した議論をすることで、具体的な問題解決を困難にする論法だ。