Wednesday, November 17, 2010

アイヌ先住民族の権利(1)

旅する平和学(34)

アイヌは先住民族

 二〇〇七年に国連総会で先住民族権利宣言が採択されて以後、日本政府のアイヌ民族に対する政策が大きく変化した。

 それ以前、アイヌ民族の代表や、いくつもの人権NGOが「アイヌは先住民族である」と指摘しても、日本政府は認めようとしなかった。人種差別撤廃委員会や、国連人権委員会において、「アイヌは典型的な先住民族ではないか」と指摘されても、日本政府は認めなかった。理由は「先住民族とは何かの国際法上の定義が定まっていないから、アイヌが先住民族か否かは判断できない」というものであった。およそ理由になっていない。日本政府の主張を認めると、先住民族と判断できる民族は世界のどこにもいないことになってしまう。これほど奇怪な主張をしてまでもアイヌの先住民族性を認めない日本政府の姿勢は実に頑なであった。

 国連先住民族権利宣言の採択にともなって状況が変化した。国家で、「アイヌが先住民族あることを認めるように求める決議」が採択された。これもおかしな話で、国権の最高機関である国会が「アイヌは先住民族である」と断定すればよかったのだが、なぜか行政府に「求める決議」であった。ともあれ、国会決議を受けて、日本政府もついにアイヌ民族を先住民族として認めた。

 もっとも、二〇一〇年二月二五日、人種差別撤廃委員会における日本政府報告書審査の席上、日本政府人権人道大使は「先住民族の国際法上の定義はない」などと発言して顰蹙を買っていた。どこまでも愚かな政府である。

 近代日本においてアイヌが先住民族となったのは、とりあえず、明治国家がアイヌモシリ(蝦夷地)を北海道と名づけて日本領土に組み入れ、和人の移住政策を開始したためである。移住政策は「屯田兵」という名前に明らかなように、開拓民でありつつ軍事的侵略の手先による。アイヌモシリを一方的に「国有地」とし、屯田兵に国有地を払い下げる方式が採用された。先住民族の土地に対する侵略である。

 アイヌ民族から見れば、和人による侵略はそれ以前からずっと続いていた。もっとも有名なシャクシャインの戦いは、一六六九年である。シベチャリ(北海道日高の新ひだか町静内)のチャシ(城)を拠点に、和人・松前藩の不公正な貿易やアイヌに対する差別に抗して起きた蜂起である。きっかけはアイヌ民族の内部対立の面もあったが、本質はアイヌ民族による対松前藩蜂起であった。

 シャクシャインは蝦夷地各地のアイヌ民族に松前藩への蜂起を呼びかけ、日高、釧路、天塩など多くのアイヌ民族が呼応した。武器の格差や、アイヌ側の統率の乱れ、和人によるだまし討ちなどから、蜂起は失敗に終わった。これ以後、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の主導権を握った。同時に、アイヌにとって不利になる一方だった米と鮭の交換レートを、いくぶん緩和するなど、和人に融和策もとらせた。

 一四五七年のコシャマインの戦いにおいても、アイヌ民族は和人による差別に抵抗し、武装闘争を敢行した。二百年後のシャクシャインの戦い、そして一七八九年のクナシリ・メナシの戦いと続く歴史は、和人による侵略と差別に対するアイヌ民族の抵抗戦争であった。アイヌ民族の抵抗を全面的に抑圧することになったのが、明治維新後の屯田兵であった。

 つまり、五百年の歴史をかけて先住民族アイヌが形成されたということになる。こう見ることによって、コロンブスに始まる近代西欧諸国による世界の植民地分割による先住民族の形成とパラレルに論じることが可能となる。明治以後の屯田兵だけを語るべきではないだろう。

先住民族権利宣言

 国連総会は、二〇〇七年九月一三日、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を採択した。この宣言は、先住民族に対する普遍的な人権宣言であり、歴史的、画期的なものである。先住民族が国際法の主体であると宣言された一九七七年から三〇年を経て、人権主体として確認された。国連先住民族作業部会が設置された一九八二年から二五年という長い年月をかけ、先住民族と政府の気の遠くなるような話し合いを経て採択されたのが、この宣言である。

国際人権法の端緒をつくりだした世界人権宣言は、後に二つの国際人権規約に練り上げられた。子どもの権利宣言から子どもの権利条約へ、人種差別撤廃宣言から人種差別撤廃条約へ、女性差別撤廃宣言から女性差別撤廃条約へ、拷問禁止宣言から拷問等禁止条約へ、障害者権利宣言から障害者権利条約へと、国際社会はまず基本的権利のカタログと基本思考を示す宣言をつくり、後にそれを条約にまとめ上げてきた。

その意味では、先住民族権利宣言も将来、先住民族権利条約となることが期待されるが、今はむしろ宣言の射程距離に注目するべきだろう。というのも、先住民族権利宣言は、子どもの権利宣言、拷問禁止宣言、人種差別撤廃宣言などとは大きく異なって、実に詳細な独自の権利条項を網羅しているからである。

 まず宣言の前文を見ていこう。一般的な国際文書の前文と同様に、先住民族権利宣言前文は、宣言採択に至るまでに形成されてきた歴史を確認している。

 出発点は言うまでもなく国連憲章である。そして「すべての民族が異なることへの権利、自らを異なると考える権利、および異なる者として尊重される権利」(第二段落)が確認される。先住民族権利宣言らしい規定である。「すべての民族が、人類の共同遺産を成す文明および文化の多様性ならびに豊かさに貢献すること」(第三段落)、「先住民族は、とりわけ、自らの植民地化とその土地、領域(領土)および資源の奪取の結果、歴史的な不正義によって苦しみ、したがって特に、自身のニーズ(必要性)と利益に従った発展に対する自らの権利を彼/女らが行使することを妨げられてきたこと」(第六段落)、「先住民族の政治的、経済的および社会的構造と、自らの文化、精神的伝統、歴史および哲学に由来するその生得の権利、特に土地、領域および資源に対する自らの権利を尊重し促進させる緊急の必要性」(第七段落)が確認される。

 続いて、「先住民族の知識、文化および伝統的慣行の尊重は、持続可能で衡平な発展と環境の適切な管理に寄与すること」(第一一段落)、「先住民族の土地および領域の非軍事化の、世界の諸国と諸民族の間の平和、経済的・社会的進歩と発展、理解、そして友好関係に対する貢献」(第一二段落)が強調される。

 そして、国連憲章、二つの国際人権規約、ならびにウィーン宣言・行動計画が、「すべての民族の自己決定の権利ならびにその権利に基づき、彼/女らが自らの政治的地位を自由に決定し、自らの経済的、社会的および文化的発展を自由に追求することの基本的な重要性を確認していること」(第一六段落)、「国家に対し、先住民族に適用される国際法文書の下での、特に人権に関連する文書に関するすべての義務を、関係する民族との協議と協力に従って、遵守しかつ効果的に履行すること」を述べている。

 前文を受けて、第一条以下に詳細な人権のカタログが列挙される。

日本のNGOとして、アイヌ民族や沖縄・琉球民族とともにこのプロセスに参加してきた市民外交センターがこの宣言の翻訳を行っている。さらに、市民外交センターブックレット『アイヌ民族の視点から見た「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の解説と利用法』二〇〇八年参照。