『救援』498号(2010年10月)
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森尾亮・森川恭剛・岡田行雄編『人間回復の刑事法学』(日本評論社、二〇一〇年)が公刊された。内田博文(現・神戸学院大学教授)の九州大学法学研究院退官を記念して、門下生たちが編んだ論文集である。
編者は、一九九〇年代からの刑事法改革が「厳罰化」「犯罪化」「処罰の早期化」「処罰のボーダレス化(国際化)」や、犯罪被害者の保護や司法参加、公判前整理手続き、裁判員制度の導入、公訴時効の廃止に結びついているが、これは市民の声を反映したとされているものの、「今や日本の刑事司法における人権保障はきわめて希薄化ないしは限定化され、さらには刑事法改革を評価しているはずの犯罪被害者やその遺族にさえ孤立感・疎外感をもたらす事態になっている」という認識に立っている。日本刑事法学は伝統的に欧米学説の翻訳紹介によって成り立ってきたが、内田刑事法学の方法論的関心は、「『孤人』主義化した現代社会システムはグローバルな偏在性をもっており、私たちの眼前で進行している。そうであるならば私たち一人一人がベッカリーアの目をもち、正面からこれと向き合うべきであろう。私たちの課題は、人間疎外の深刻化した現代社会において、片隅に追いやられ、声をあげることすらできない人々の苦痛や哀しみを理性と感性で受け止め、必要に応じて刑事法学から踏み出して学び、これを打開しようとすることである」とまとめられ、編著者たちはこれを自らのものとして継承し、発展させようとしている。正面切って『人間回復の刑事法学』と命名したのは、旧来の刑事法学への挑戦状とするためである。各論文に言及する余裕がないので、構成・目次を掲げておこう。
第一部は「厳罰化政策と人間疎外」をテーマに、梅崎進哉(西南学院大学教授)「厳罰化・被害者問題と刑法の存在理由」、森尾亮(久留米大学准教授)「刑事立法の活性化と罪刑法定主義」、陶山二郎(茨城大学講師)「謙抑主義に関する一考察」、福永俊輔(九州大学法学研究院協力研究員)「教唆犯規定の意義に関する一考察」、雨宮敬博(宮崎産業経営大学講師)「入札談合等関与行為防止法の処罰規定について」、春日勉(神戸学院大学准教授)「刑事弁護と防御権――司法改革で被疑者・被告人の防御権補償は拡大したか」が収録されている。
第二部は「差別の克服」をテーマに、櫻庭総(九州大学法学研究院助教)「差別煽動行為の刑事規制に関する序論的考察」、稲田朗子(高知大学准教授)「戦前日本における断種法研究序説」、平井佐和子(西南学院大学准教授)「ハンセン病問題と刑事司法――菊地事件をとおして」、森川恭剛(琉球大学教授)「ヨーロッパ中世のハンセン病と近代日本の隔離政策」を収録する。
第三部は「人間回復に向けて」をテーマに、鈴木博康(九州国際大学准教授)「福知山線列車事故報告書をめぐって」、大藪志保子(久留米大学准教授)「フランスの薬物政策――薬物自己使用罪の非刑罰化をめぐって」、岡田行雄(熊本大学教授)「少年司法における科学主義の新たな意義」が収録されている。
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刑事立法と刑法原則
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近年における刑事立法の活性化は、凶悪犯罪増加キャンペーンに代表されるように、犯罪被害を恐れる市民の法感情に牽引された。立法事実の冷静な検証は割愛され、立法が社会に与えるさまざまな波及効果の測定も省略され、刑法原則との整合性も抜きに、情動的な拙速主義が貫かれていた。このことがもたらしている負の影響を的確に認識し、是正することが刑法学の課題となっている。
梅崎進哉「厳罰化・被害者問題と刑法の存在理由」は、厳罰化・被害者問題の噴出の構造を検討したうえで、刑法学の理論的特質を分析していく。まず機能主義刑法学について、社会を形成する「価値の共有」の観点で、「機能主義刑法学は、人間が本来的に有している結合の絆をわざわざ断ち切り、『法』を多数決原理にもとづく実定法規に置き換える。それ故、結局は、価値中立の装いをこらしながら多数者による少数者の『効率的な』支配と排除に資するものとならざるをえない。今回のように、厳罰化の要求が『国民の意思』の形をとって現れた場合、機能主義刑法学にはそれを制止する論理はなく、相互不信に基づく『不安感の拡大再生産過程』に同調するしかないのである」と見る。そして一般予防論と人間疎外に関連して、「おそらく問題は、近代以降の刑法学が『国家』に秋波を送ることに熱心なあまり、人間存在への洞察をなおざりにしてきたことにあるだろう」とし、刑罰を根拠付ける応答とはいった何であるのかを問い直す。「刑罰自体の問題としては、『修復』は『目指されるべき方向』ではあっても『到達目標』ではない。刑罰の最も本質的な意味は、社会による『赦し』にある」とする梅崎は「テクノクラーティックな刑法理論を捨てて本来の共生の法則として市民のものに戻し、真の応報を超えた厳罰化や侵害原理を超えた処罰範囲拡大要求はきっぱりと拒絶すべきだ」と結論付ける。一つひとつの刑事立法の必要性や効果への疑念はもちろんであるが、これら刑事立法の活性化の根底にある思考様式と人間観の問題性を抉る論稿である。
森尾亮「刑事立法の活性化と罪刑法定主義」は、同じ問題を解釈方法論のレベルで捉え返すために、「客観的解釈としての目的論的解釈」が「国民の予測可能性」の保障を損なう帰結をもたらすことを、判例を素材に跡付ける。二〇〇六年二月二〇日の最高裁判決は児童ポルノ禁止法違反事件につき、画像データのダビング行為は同法が禁止する児童ポルノの「製造」に当たると解釈した。立法当局は、ダビング行為のような「複製」は「製造」には当たらないとしていたものを、最高裁は、処罰を求める目的論的解釈を採用して、ダビング行為は製造に当たるとしたのである。同様の解釈方法は公害罪法違反の大東鉄線事件最高裁判決にも見られる。判例の「柔軟な」方法を、学説も「国民の法意識論」を媒介に肯定してきた。森尾は「近時の刑事立法の活性化は、決して司法府における罪刑法定主義違反の抑制に繋がるものではないこと、換言すれば、これまでの通説的理解であった刑事立法の活性化によって判例の罪刑法定主義違反を抑制するという処方箋はきわめて観念的なレベルにとどまっていたものであることが明らか」であり、それ故、近代刑法原則の歴史的意義を踏まえた「現代的再構成」が求められるという。立法と司法の関係性の現代日本的形態、すなわち癒着と瞞着を射抜くと同時に、刑法学説と立法の関係性、および刑法学説と司法の関係性の、ほとんど戯画的な縺れ合いを暴露している。
ここでは国家刑罰権によって推進される人間疎外と、国家刑罰権に添い寝して自らを貶める人間疎外とが、重層し、競合している。刑法学に求められる「内破」、それが問題である。