Wednesday, November 24, 2010

人間疎外とたたかう刑事法学の可能性(2)

『救援』499号(2010年11月)

厳罰化政策批判

  森尾亮・森川恭剛・岡田行雄編『人間回復の刑事法学』(日本評論社)は、「厳罰化政策と人間疎外」(第一部)「差別の克服」(第二部)「人間回復に向けて」(第三部)に、一三本の論考を収める。

陶山二郎「謙抑主義に関する一考察」は、集合住宅でのビラ配布が住居侵入罪とされた立川テント村事件を素材に、一審無罪判決と控訴審・最高裁有罪判決の間に、刑罰による処罰は「最後の手段」とする謙抑主義に対する態度の相違があるのではないかとして、戦前日本における謙抑主義に関する学説をフォローし、謙抑主義の法的根拠をめぐる議論を検証した上で、謙抑主義を源とする可罰的違法性の理論を、基本原理の実体刑法解釈への具体化の例として素描し、佐伯千仭の可罰的違法性論がもつ実践的意義を確認する。

福永俊輔「教唆犯規定の意義に関する一考察」は、刑法典における「正犯」と「共犯」をめぐる規定の齟齬に着目し「教唆犯は正犯ではない」という命題を俎上に載せる。フランス刑法、特にオルトランの刑法思想の影響を受けた刑法における正犯と共犯の意味を探るために刑法史を詳細に追跡し、現行刑法の理解として「教唆犯は正犯ではない」ではなく「教唆犯は身体的正犯ではない」と理解すべきとし、教唆犯が「知的正犯」である可能性を浮上させる。

雨宮敬博「入札談合等関与行為防止法の処罰規定について」は、独占禁止法に発しつつ、二〇〇〇年の入札談合等関与行為防止法に発展した処罰規定について、法律制定過程を検討した上で、職員による入札等の妨害の罪の成立範囲に疑問があり、正犯への「格上げ」に伴う処罰範囲の拡大や、処罰規定を設けたこと自体の当否について検討し、拙速な処罰規定導入であったとし、本質的な問題解決にならないと批判する。

春日勉「刑事弁護と防御権」は、「司法改革で被疑者・被告人の防御権保障は拡大したか」を問うために、戦後刑訴法理論における防御権論を踏まえ、司法制度改革審議会における議論に被疑者・被告人の権利の理解が十分ではなく、権力を行使する側から見た「適正な弁護」の議論が前面に出て、捜査の現状に対する批判を抜きに公判前整理手続きが導入されたと見る。

以上の諸論文は、前号で紹介した二論文とともに「厳罰化政策と人間疎外」としてまとめられている。刑法原則を直接取り上げたもの、刑法総則規定に関するもの、特別刑法に関するもの、そして刑事訴訟法を主題とするものと、研究領域は多様であるが、現代日本における厳罰化政策・重罰化が刑事司法にもたらしている歪みとその原因をていねいに明らかにしている。

差別の克服と人間回復

本書後半では、「差別の克服」と「人間回復に向けて」がテーマとされる。

櫻庭総「差別煽動行為の刑事規制に関する序論的考察」は、副題が「刑法におけるマイノリティ保護と過去の克服」であり、差別煽動行為に関する議論状況を見据えつつ、差別煽動行為と表現の自由に関する従来の刑法学説を検討して、「差別表現の自由」という論理に焦点をあて、「無制約な表現の自由を盾に差別煽動行為の規制を否定することは、必ずしも表現の自由を保障することにはならない。つまり、保障されるべき表現の自由が持つべき価値、ないし質に関する検討が阻害され、結果として何が許されない差別表現かを議論する土台が一向に築かれないという矛盾に陥っている」とする。筆者は最後に次のように述べる。「差別事件を刑事罰によってのみ対応することは、何ら問題の解決にならない。しかし、『表現の自由』を盾に問題を市民社会の『見えざる手』に全権委任することもまた、厳しい現実に直面している当事者にとっては差別の放置にしかならない。マジョリティたる『市民』の『表現の自由』を保障するため、マイノリティの人権が犠牲にされてきた側面はないだろうか」。

稲田朗子「戦前日本における断種法研究序説」は、医師による議論と優生学の広がり、法律家の反応を詳細に検討し、ここにも「新派」と「旧派」の対立があるが、真の対抗関係には立ち入っていない疑問を指摘する。

平井佐和子「ハンセン病問題と刑事司法」は、熊本県菊地市で起きたダイナマイト事件など菊地事件をとおして、ハンセン氏病患者に対する差別による隔離と「みせしめ」としての処刑にほかならなかったことを明らかにする。

森川恭剛「ヨーロッパ中世のハンセン病と近代日本の隔離政策」は、日本における隔離政策の意味を考察するために、ヨーロッパ中世における隔離思想の展開を跡付け、排除と救護と感染予防の歴史的相関関係を踏まえ、「慈善の覚醒における関心が施す側にあったことは強調されているが、そこに隔離が排除の意味に傾くというハンセン病療養所の機能転換の一因がある」と指摘する。

第三部「人間回復に向けて」では、鈴木博康「福知山線列車事故報告書をめぐって」が、業務上過失致死事件として処理された事件について、刑事責任追及型システムから原因究明型システムへの転換を強調する。

大藪志保子「フランスの薬物政策」は、薬物自己使用罪の非刑罰化をめぐってフランスの経験を歴史的に検証して、非刑罰化、非犯罪化の議論を展望する。

岡田行雄「少年司法における科学主義の新たな意義」は、少年事件における鑑別や社会調査における科学主義とは何であり、いかなる実践がなされるべきかを問い返し、新たな科学主義の構築を試みる。

以上、極めて簡潔に紹介してきたが、本書の特質は、執筆者が内田博史門下の研究者であるという人的なつながりだけによるのではない。内田刑法学に学んで、「近年における人間疎外の刑事法改革を批判的に検証し、人間回復の刑事法学への転換を提起する」という問題意識を共有しながら、各自の課題に応じて、独自のスタイルで各自の論考を書き上げたことが重要である。一つひとつの論考それぞれに学ぶべき点を列挙する余裕がないが、若手研究者中心の意欲的な挑戦に感銘を受けたことを表明しておきたい。第三部が分量的に非常に少なく、個別論文しか収録されていない点はやや物足りないが、言うまでもなくこの挑戦はこれからも続く。九州発の人間回復の刑事法学は、他の刑事法研究者に対する見事な挑発であり、それぞれの応答を求めている。より若い世代の研究者を含めて、第二、第三の挑戦が世に問われるであろうことを期待して本稿を閉じたい。