ヒューマン・ライツ再入門5
世界人権宣言を読む(二)
統一評論523号(2009年5月)
参照されない世界人権宣言
世界人権宣言は国際人権法の中核文書である。
国連憲章の人権関連規定に基づいて、かつ憲章を補完して作成された世界人権宣言は、採択当時から国連憲章とともに現代国際法、とりわけ人権の国際法の基本文書であった。今日では国際慣習法として確立し、国際人権法の根幹とみなされている。
それにもかかわらず、日本では人権活動家や研究者によって世界人権宣言が参照されることが非常に少ないように思われる。国際人権法のテキストでは、当然の事ながら冒頭で世界人権宣言の意義と内容が解説されている。しかし、力点は国際人権規約などの条約に置かれている。
在日朝鮮人の人権に関連する著作で国際人権法に言及している文献の多くも、世界人権宣言に形だけ一言触れるものの、立ち入って議論しているものはあまり見当たらない。
最近の著作を見てみよう。金宣昌『在日朝鮮人の人権と植民地主義』(社会評論社、二〇〇八年)は、在日朝鮮人の人権を総合的に捉える意欲的な著作である。「総合的」というのは、第一に歴史的考察を踏まえて将来へのパースペクティヴを切り拓こうとしていること、第二に日本国内における諸問題を国内法的観点だけではなく国際法的観点からも分析していること、第三に在日朝鮮人だけでなく来日外国人も含めた人権問題を射程に入れながら在日朝鮮人の人権状況の特殊性を浮かび上がらせていること、第四に理論と実践の両面にわたって問題提起を試みていること、などである。この意味で同書の重要性は明らかである。
しかし、『在日朝鮮人の人権と植民地主義』は、世界人権宣言にはほとんど言及していない。同書巻末には「事項索引」が掲載されており、国際人権法、国際人権規約、人種差別撤廃条約の項目はあるが、世界人権宣言の項目はない。「第三章 在日朝鮮人の法的地位の確立過程」において、第二次大戦後のGHQ政策から講和後の日本政府による差別政策とその展開を追跡している中でも世界人権宣言への言及はない。それが正しい認識だからである。一九四八年の世界人権宣言は、GHQによっても日本政府によっても決して顧みられることのない文書だった。
同書「序章 在日朝鮮人の人権とアイデンティティ」においても、世界人権宣言は参照されていない。しかし、序章の記述は、在日朝鮮人をめぐる状況の変化に着目し、アイデンティティ・クライシス、在日朝鮮人社会の質的変化と量的変化、朝鮮人以外の在日外国人の増加、在米コリアン、在中コリアンの状況を捉え返して同書の課題を設定している。言葉は登場しないが世界人権宣言が問われているといってよいであろう。同書で世界人権宣言が登場するのは次の二箇所である。
「国際人権規約の歴史的意義は、世界人権宣言とは違って法的拘束力を持つことであり、世界人権宣言では認められていなかった権利が新たに規定されたことにある。・・・(中略)『人民の自決権』は、世界人権宣言が採択されてからまもなく、かつて欧米列強の植民地であったアジア、アフリカ諸国が次々と独立を果たすなかで・・・(後略)」(一二三頁)
「国籍選択制度は、世界人権宣言などで明記された『国籍の自由』すなわち『国籍非強制の原則』の具体化でもあり、それは旧植民地民の国籍選択権は割譲地住民の意思と無関係に生じた領土変更にともなう人々の生活を可能な限り保護しようとするものである。」(二一一頁)
参照されない理由
いずれにせよ世界人権宣言への言及は少ない。このことは決して珍しいことではない。在日朝鮮人の人権を取り上げた著作も、来日外国人の人権を取り上げた著作も、難民の人権を取り上げた著作も、世界人権宣言に依拠することは驚くほど少ない。その理由は何であろうか。一般的に考えられるのは、次のような理由であろう。
第一に、「宣言」には拘束力がないと思われたことである。世界人権宣言は国連総会で採択されたが、条約のような批准手続きがなく、それゆえ批准による発効も観念しにくい。このため一般向けの解説などでは、「宣言には拘束力がない」と明言しているものさえある(この点は後述する)。
第二に、国際慣習法の意味が理解されにくいことがある。国際法は、基本的には国家実行の積み重ねによって形成されるのであって、本体は国際慣習法である。ところが、一般向けの解説などでは、国連憲章や国際人権規約のような明文化された文書だけが国際法であるかのように書かれているものもある。国内法が日本国憲法や数々の法律から成り立っているように、国際法も国連憲章や数々の条約から成り立っていると考えた方が「理解しやすい」と思われている。このため世界人権宣言の内容は国際慣習法の地位を獲得していると言っても、一般には理解しにくい。
第三に、国際人権規約や人種差別撤廃条約を参照すれば足りると考えられた。国際人権規約などには、国家報告書の審査のような手続き規定があり、自由権委員会や社会権委員会が活動している。自由権規約選択議定書には個人通報の規定もある。世界人権宣言には、人権の実体規定を担保する手続規定がない。従って、人種差別を取り上げるには国際人権規約や人種差別撤廃条約に直接依拠することになる。女性の権利を取り上げるには女性差別撤廃条約、拷問を取り上げるには拷問等禁止条約に依拠する。具体的な権利を支える手続き規定のある条約にウエイトが置かれるのは当然のことではある。
日本に国際人権法の波が押し寄せてくるようになったのは、一九八〇年代に国連人権委員会等の人権機関で精神病院における人権問題や代用監獄問題が大きく取り上げられ、自由権規約の第二回日本政府報告書の審査が法律家の間で話題になった頃からといってよい。この時期の最大の焦点は、国際人権規約であった。日本の法制度や実務が国際人権規約に照らしてどのように評価されるかが問題であった。もちろん世界人権宣言も参照枠の一つではあったが、具体的な手続き規定をもつ自由権規約のほうがはるかに重要視された。その後、女性差別撤廃条約、子どもの権利条約、人種差別撤廃条約、拷問等禁止条約の批准と報告書審査が続いたことによって、ますますその傾向が進んだ。
第四に、世界人権宣言には人民の自決権や少数者の権利規定がない。人民の自決権は国際人権規約に、少数者の権利は自由権規約に規定された。さらに「人種・言語・宗教的少数者権利宣言」が続く。世界人権宣言の起草作業において少数者の権利規定が用意されていたが、最終的に削除された(この点は後述する)。このため、在日朝鮮人の人権を考える際に直接参照できるのは国際人権規約や人種差別撤廃条約ということになりがちである。
第五に、世界人権宣言の研究そのものが少なかった。世界人権宣言が採択された一九四八年は、日本は連合国による占領下にあった。外務省や国際法学者による研究はなされてはいたが、数も少なく、理論水準も今日の眼から見ればかなり低いものであった。それでも、日本国憲法制定時に文部大臣として署名し、後に国際司法裁判所判事となった田中耕太郎(『続世界法理論(上)』有斐閣、一九七二年など)や、戦後国際法学の泰斗である田畑茂二郎(『世界人権宣言』アテネ文庫、一九五一年など)による研究があるが、後に見るように、例えば世界人権宣言の制定過程についてさえ本格的な研究は半世紀後になってようやく登場している。現在、世界人権宣言の本格的研究と呼びうるのは、斎藤恵彦によるそれと、寿台順誠によるそれである。次にこの二冊を瞥見してみよう。
世界人権宣言の位置づけ
斎藤恵彦『世界人権宣言と現代――新国際人道秩序の展望』(有信堂高文社、一九八四年)は、四部構成である。
「第一部 到達点としての世界人権宣言」では、日本国憲法と国連憲章の対比から始めて人権の一般論を確認し、国際法、自然法、世界法の文脈に置き直し、近代社会と国家における人権宣言の系譜をたどり、第一次大戦と第二次大戦の間の時期に世界人権宣言への基礎が固まってきた経過を明らかにしている。
「第二部 宣言の成立、意義、内容」では、 ダンバートン・オークス会議、チャプルテペック会議などに始まる第二次大戦戦後の人権宣言への流れを、特にNGOが果たした役割にも注意を払いながら跡づけ、国連パリ総会での審議など世界人権宣言の具体的な制定過程に即して、生命権、死刑、奴隷禁止、居住・移動の自由、庇護、国籍権、宗教変更の自由の意味を確認し、世界人権宣言の普遍的性格を強調したうえで、宣言の道義的権威・法的拘束力を問題とし、植民地独立付与宣言への展開をフォローしている。
「第三部 出発点としての世界人権宣言」では、宣言後の時期区分として、第一期・不干渉の時代(一九四五年~六〇年)、第二期・人権保護の時代(六〇年~七三年)、第三期・新しい国際人権規範設定の時代(七三年~現在[八四年])にわけて、国際人権法の形成過程を一瞥し、差別禁止の展開、開発・発展と人権、新国際経済秩序と人権の三つの分野における発展を検討している。
最後に「第四部 国連と人権、そして日本の役割」において、女性差別撤廃条約を批准した時期、そして国連人権委員会で日本が取り上げられるようになった時期の状況をもとに、日本における国際人権の活用の意義を展望している。
普遍性と法的拘束力
四半世紀前の著作であるが、今日なお注目すべき数々の指摘がなされているが、ここでは、次の諸点を引用しておくにとどめる。
第一に、世界人権宣言制定におけるNGOの役割である。
宣言は国連人権委員会、第三委員会、総会の決議を経て制定されているので、主権国家の連合体である国連が制定したものであるが、NGOの役割を無視することはできない。そもそも国連憲章の人権規定の議論にNGOが大きな役割を果たしていた。
「作業の開始の時点で、会場には、将来の世界機構の基礎、目的、構造についての、多くの民間団体からの提案が届いていた。この中には、一九四四年四月に公にされていた、アメリカとカナダの二〇〇人の法律家からなるグループの作成した『将来の国際法の基準、原則、提案』というきわめて詳細なものもあった。これを人権についてみると、戦争続行中にすでにアメリカや外国の平和主義、教育、教会、またユダヤ人の各グループを代表する運動体は、人権の国際化を達成するために活動を展開してきていたことがわかる」(同書六七頁)。
具体的には、H・ウェルス、ユダヤ人アメリカ委員会、H・ローターパクト、G・グティエレス、アメリカ平和機構研究委員会、アメリカキリスト教会連邦協議会、アメリカユダヤ協会、バプテスト教会対外合同委員会、一二人のカトリック司教、カーネギー国際平和財団、国連協会などである。
国連憲章、国連人権委員会、そして世界人権宣言への流れを、NGOは少なくとも加速させ充実させた。そのことによって、後に国連人権委員会など人権諸機関におけるNGOの活動が承認され、確立していったといえよう。今日の人権NGO活動の基礎は当初にできていたのである。
第二に、世界人権宣言の普遍性である。
換言すると、制定時におけるイデオロギー論争の位置づけである。自由主義陣営と社会主義陣営の間の対立、そしてサウジアラビアなどイスラム諸国の立場など、宣言制定過程では、宣言の基礎や目的から具体的な条文に至るまで激しい議論が闘わされたが、それにもかかわらず最終的に一定の一致を見ることができた。このことは、世界人権宣言が単に西側自由主義陣営の近代人権論が世界人権宣言にそのまま反映したわけではないことを示している。実際、中国(台湾)、レバノン、パナマなどの活躍も知られる。
「以上若干の例でみたように、基本的人権尊重の各規定、その内容の詳細な点については、ソ連を先頭とする社会主義陣営と、西欧自由主義陣営とのあいだには確かに不一致があった。イディオロギーにもとづく差異である。しかし、差異のあったことは、民主々義的自由主義国家群に属する学者のあいだにも同様で、世界観的、学問的立場においてそうであった。だが、ジャック・マリタンも言うように、それらの国や学者のあいだにも、実際的一致はあったのである」(同書九九頁)。
世界人権宣言は、一九四八年当時の自由主義と社会主義の対立、およびイスラム諸国の立場などさまざまな矛盾・対立を克服する努力(激しい論争)の結果として成立した。個別の条文を見れば、それぞれの典拠となった近代人権宣言や各国憲法の条文を指摘することができないわけではない。実際、世界人権宣言制定過程において主要な近代人権宣言や各国憲法規定が直接具体的に参照されている。しかし、総体としての世界人権宣言は、それまでの特定のイデオロギー的世界観に基づくものではない。このことが、その後の国際人権法の発展にとっても大きな意義を有する。
国際人権宣言ではなく、世界人権宣言(Universal
Declaration of Human Rights 人権の普遍的宣言)という名称が採用されたこと。すべての国、すべての人の住む地域に適用されること。内容においても、ばらばらの自由と権利を統合し、国家的宣言の総合ではなく、国家を超えた観点での人権規定を内在させていること。こうした点からも世界人権宣言の普遍性を確認できる(同書一一七~一二四頁)。
第三に、法的拘束力の問題である。
世界人権宣言は国連憲章の延長として理解されたので、国連憲章に次ぐ道徳的、政治的権威を獲得した。今日では、各国政府の状況が国連等で判断される際の国際的基準となっている。欧州やアフリカを初めとする地域的国際文書にも大きな影響を与えている。各国の現代憲法にも直接影響を与えている。そして国際慣習法として認められ、法的拘束力を有している。
「ここで注目したいことは、このように、宣言が道義的、政治的権威を認められたことに加えて、今日では国際慣習法の一部として、法的拘束力を持つに至ったということである。ことに宣言の第二条から第二一条までの裁判になじむ権利規定についてそうである。法には言うまでもなく、その規範的拘束力の源として法源がある。国際法の場合、法源というのは究極的には国際社会の意思である。この意思は従来から直接的には慣習法、間接的には条約によって表明されてきている。この条約自体その拘束力は、慣習法である『条約は守られなければならない』(Pacta
sunt servanda)にもとづいている。周知のように、この両者に加えて、国際司法裁判所規程には、第三の法源として『法の一般原則』が加わっているが、この法の一般原則自体もその実体は何んであれ、国際社会の意思の表明である。宣言が条約ではないというまぎれもない事実は、しかし、宣言が法的性質を有するということを否定するものではない。このことをすでに一九四八年の国連総会で、フランス代表は、全部とは言わないが宣言に謳われている多くの原則は法の一般原則であると述べている。この立場は、一九四七年に人権委員会の世界人権宣言の起草小委員会のために国連事務局が用意したドキュメントにも明白である。とすると、これらは『文明諸国』の法体系によって認められた法の一般原則であることによって、すみやかに国際慣習法の一部となり拘束力を持つにいたったのである。つまり法の一般原則として宣明された世界人権宣言の内容は、国際慣習法として世界的レベルで定着するにいたった」(同書一三〇~一三一頁)。
第四に、植民地の問題である。
第二次大戦の過程で大西洋憲章は新しい国際秩序志向を掲げた。反ファシズム戦争としての戦争であり、同時に植民地主義への反省が生まれていた。世界人権宣言がナチス支配への反省に基づくことは繰り返し語られてきた。ところが、世界人権宣言には具体的な植民地への言及が条文として定められていない。人民の自決権も書かれていない。
植民地主義への反省と人民の自決権が具体的に明示されるのは、一九六〇年の植民地独立付与宣言と、一九六六年の二つの国際人権規約(自由権規約と社会権規約)に共通の第一条である。このため世界人権宣言を語る際に、植民地主義への反省や人民の自決権に言及することは少ないのが実情であった。
しかし、世界人権宣言と植民地独立付与宣言を切り離して、別の文脈で語ることは適切ではない。
「世界人権宣言を国際慣習法として宣言した国連の実行の好例は、『植民地諸国、諸人民に対する独立付与に関する宣言』である。この宣言は、『外国による人民の征服、支配及び搾取は、基本的人権の否認であり、国連憲章に違反し、世界平和と協力の促進に障害となっている』と宣言し、二段で自決権について、『すべての人民は自決の権利をもち、この権利によって、その政治的地位を自由に決定し、その経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する』と規定する」(同書一三九頁)。
世界人権宣言に直接の規定はないが、大西洋憲章、国連憲章、世界人権宣言と続く国際文書、そして、第二次大戦後に多くの植民地が独立した国際実行に即して、人民自決の原則から人民自決の権利に発展し、植民地独立付与宣言の具体的内容が獲得されたのである。そして、一九六三年の人種差別撤廃宣言前文は、植民地独立付与宣言を世界人権宣言とともに法的に拘束力ある文書として確認している。
世界人権宣言の制定過程
寿台順誠『世界人権宣言の研究――宣言の歴史と哲学』(日本図書刊行会、二〇〇〇年)は、世界人権宣言成立過程の研究であるが、それは「世界人権宣言の哲学に関する歴史的考察」を行うためである。
従来、近代初頭に主張された基本的人権は「自由権モデル」で理解され、後に労働権や社会保障権など社会権が登場すると「社会正義モデル」による修正が語られた。自由権は、人間が生まれながらにして持つ権利であり、国家の介入を防ぐことに権利の意味がある。これに対して、社会権は、社会構成員として持つ権利であり、国家による介入によって権利が保障されるというイメージである。世界人権宣言の理解についても、自然権モデルと社会正義モデルの両者が語られてきた。
これに対して、寿台は、まず議論の交通整理を行う。自由権か社会権の議論には、「人権相関的義務及び義務保持者」に関するレベル(その人権の実現のために、義務保持者に要求される事態の区別)と、「人権の正当化根拠」に関するレベルとを区別して論じる必要があるという。他方、世界人権宣言成立過程の研究について、従来の研究が重要資料を十分に参照せずに行われてきたことを指摘して、できうる限り成立過程の事実経過を解明し、そこにおける人権の理解、意見の対立、変容がどのようなものであったかを踏査することによって、実証的具体的に世界人権宣言の哲学を浮き彫りにしようとする。同書は「第一部 世界人権宣言の起草過程--宣言の哲学に関する歴史的考察」「第二部(補論)世界人権宣言の起草過程における『少数者の権利』条項削除の問題」から成る。
「第一部 序論」では、モーシンク(Johannes Morsink)の一九八四年の論文「世界人権宣言の哲学」に学びながら、その理論的限界を明らかにして、これを克服する課題を掲げる。モーシンクが世界人権宣言を自由権と社会権の二分法で理解しているのは、人権相関的義務及び義務保持者の議論と、人権の正当化根拠の問題を区別していないためではないか、と。
「第一章 世界人権宣言の起草過程」では、先行研究の水準を確認したうえで、モーシンク論文の見解を踏まえて、自ら制定過程の資料を徹底的に読み込んで、世界人権宣言の制定過程を詳細に明らかにしている。
「第二章 世界人権宣言における人権の二分法の問題」では、宣言第三条における自由権と社会権の問題を起草過程に遡って問い直し、第二二条の社会権の傘条項についても起草過程を詳らかにしている。
「第三章 世界人権宣言の起草過程における人権の正当化根拠の問題」では、第一条「すべての人間は自由、かつ、尊厳と権利において平等に生まれた・・・」の起草過程、共同体への義務を明示した第二九条の起草過程を解明している。
「結論」では、以上の詳細な調査研究のまとめとして、「一国社会正義モデル」から「多元的社会正義モデル」への流れを抽出しようとする。
同書の特質は、第一に、成立経過の実証的研究を従来よりも遥かに前進させたことである。第二に、人権の正当化根拠をめぐる議論を通じて「多元的社会正義モデル」を提示している点も重要である。
少数者の権利削除
「第二部(補論)世界人権宣言の起草過程における『少数者の権利』条項削除の問題」では、世界人権宣言の基本性格を解明するために、最終的に盛り込まれた条項だけではなく、当初は準備されていたのに最終的に削除された「少数者の権利」条項の削除理由を解明しようとする。そうすることによって世界人権宣言の抱える問題点を明らかにすることができ、宣言の持つ意義をより理解できるからである。ここでも起草過程の詳細な実証研究が提示されているが、結論として、理論的には、同化主義の問題と抽象的普遍主義の問題があったという。
同化主義の問題では、少数者の権利条項を擁護する側も批判する側も、実は「新世界=単一民族・単一文化国家/旧世界=多民族・多文化国家」という前提認識に立って議論を展開していたことを確認し、こうした誤った前提での議論のために人権委員会は「自ら墓穴を掘ることになってしまった」(同書一五三~一五四頁)とみる。
他方、抽象的普遍主義の問題では、集団的権利と人権をめぐる対抗、および無差別平等原則と少数者の権利をめぐる対抗の行方を見定めて、少数者の権利条項を削除することによって無差別平等原則を単なる抽象的普遍主義の定式にしてしまったと批判的に検討している。
こうして世界人権宣言の哲学、目的、基本性格が従来よりもずっと鮮明かつ具体的に明らかになった。
もっとも、寿台は、こうした研究をもとにして世界人権宣言の各条項の解釈論を展開することには興味を示さない。従来のテキストや注釈書が提示してきた解釈、あるいは国際司法裁判所判決における解釈、さらには国際人権規約その他の人権条約の類似条項の増加と解釈例の増加によって世界人権宣言の条項にいかなる影響があったと見るべきなのかといった個別の解釈問題は取り上げられない。換言すれば、世界人権宣言に新たな光を当てる可能性を確認することが目的とされていて、新たな光を当てた結果として世界人権宣言の各条項がどのようにその光を反射するのかには言及する必要がないと判断されている。さらに具体的に言えば、国際人権規約その他の人権条約を実際に活用して展開されている現在の国際人権活動において世界人権宣言の再解釈が何らかの意義を有するのか否かについての問題関心が示されていない。おそらくこれらは、寿台の研究を受けて、国際人権法の現場で各自が問い返していくべきことなのであろう。
植民地・人種差別・少数者
斎藤および寿台の貴重な研究を受けて、再び最初の問題関心に戻ってみよう。今日の人権理論と実践の場面で世界人権宣言が参照されることは、その歴史的意義にもかかわらず、必ずしも多くない。特に、在日朝鮮人の人権を考える際に、世界人権宣言が射程の外に置かれがちである。
その理由はすでにいくつか推定したが、在日朝鮮人の人権との関係では、やはり植民地の問題と少数者の権利問題に着目する必要がある。
世界人権宣言はナチスへの反省に始まって制定された。大西洋憲章、国連憲章、世界人権宣言、植民地独立付与宣言、人種差別撤廃宣言、人種差別撤廃条約、ダーバン人種差別反対世界会議という歴史を踏まえてみれば、ナチスによるユダヤ人迫害、西欧諸国による世界の植民地分割、植民地主義と奴隷制や奴隷類似慣行が人権の重大侵害であり、それゆえその除去と抑止が人権保障の最低限の要請であることは明らかである。それゆえ世界人権宣言に注目する必要がある。
従来、世界人権宣言には人民の自決権の規定がないこと、少数者の権利条項が準備段階で削除されたことが知られているため、この問題枠組みと世界人権宣言との対応関係が存在しないように思われてきた面がないわけではない。
しかし、ジョアンズ・モーシンク(ドリュー大学教授)の著書『世界人権宣言――起源、起草、内容』(ペンシルヴェニア大学出版、一九九九年)は、植民地と奴隷制に着目した議論を展開している。
ちなみに、寿台が検討・克服の対象としたのはモーシンクの一九八四年論文であった。寿台によれば、モーシンクの一九九九年の同書も基本趣旨は変わっていないという。そのため二〇〇〇年の寿台の著作はやはり一九八四年のモーシンク論文を主たる対象としている。世界人権宣言の成立過程の研究、あるいは世界人権宣言の哲学の研究という関心からは、寿台が述べるとおりであろう。
ただし、世界人権宣言と植民地問題という関心からは、モーシンクの著作に改めて注目するべき理由がある。
モーシンクの著作の目次はつぎのようなものである。「序論 五〇年目の宣言」「第一章 説明された起草過程」「第二章 触媒としての第二次大戦」「第三章 植民地、少数者、女性の権利」「第四章 プライヴァシーとさまざまの財産」「第五章 社会主義者による労働関連諸権利の形成」「第六章 社会的安全、教育、文化」「第七章 義務と共同体」「第八章 第一条、前文、啓蒙」。
モーシンクは、寿台と同様に、世界人権宣言の成立過程を実証的に研究して、世界人権宣言の哲学を解明しようとするが、同時に世界人権宣言の内容となっている各条項の解釈にも目を差し向ける。以下では「第三章 植民地、少数者、女性の権利」の一部を簡潔に紹介する。
第一に、非差別である。
モーシンクによると、非差別という言葉を世界人権宣言に組み入れるよう強く主張したのはソ連など共産主義諸国である。起草委員会第一会期において、宣言の基本原則を議論した際に、ソ連代表のヴラジミル・コレツキーは、最初の原則として差別や不平等を取り壊すことを入れるべきだと主張した。差別を根絶するために、国際的政治行動を考慮すること、主権国家内で行われている差別慣行をなくすことを国連の任務と主張した。コレツキーは、諸草案における非差別条項は十分に練り上げられていないとして、例えば南アフリカにおけるインド人の処遇、女性に対する不平等な処遇、アメリカにおける黒人に対するリンチを取り上げた。第二会期においても、差別は国内法で処罰される犯罪とするべきだと唱え、非差別が国境を超えた道徳原則となることを要求した。
ところが、第七条の「恣意的差別からの法の平等保護」という表現をめぐって、「恣意的」を削除すべきだとか、差別と区別の差異をめぐる議論が行われ、例えば、エリノア・ルーズベルトは「高齢者に対する保護は有益な差別だ」といった主張を唱え、「差別」「恣意的差別」「不公平な区別」などの議論の結果、「恣意的」を削除して「差別」だけが残ることになった。黄金海岸、ナイジェリア、ローデシアなどイギリス植民地における大規模な差別を考慮するか否かも分水嶺になった。ソ連のアレクセイ・パヴロフは欧米諸国における女性の政治的地位の低さを強く主張した。女性NGOのロビーもあって、宣言起草において性差別も意識されるようになった。差別の教唆・煽動からの保護も共産主義諸国が持ち出した。
宣言起草過程において共産主義諸国が非差別条項の導入にこのように大きな役割を果したことは、日本の研究書では知ることができない。
第二に、植民地である。
モーシンクによると、宣言が起草された時期はちょうど植民地帝国が崩壊し始めた時期であった。宣言起草に活躍したマリクはレバノン、ロムロはフィリピン出身で、ともに一九四六年に独立した国家である。シリアもこの年に独立した。一九四七年にはインド、ビルマ(ミャンマ)、パキスタン、一九四八年にはセイロン(スリランカ)が独立した。その後、五〇年代、六〇年代に続々と独立国家が誕生することになる。アダマンティア・ポリスとピーター・シュワブは、世界人権宣言の普遍的性格というが、歴史的事実と矛盾すると指摘している。地球上の過半数がまだ植民地状態だったからである。
モーシンクによると、植民地問題を宣言起草過程に持ち込んだのも共産主義諸国であった。初期の草案には植民地問題への言及はなかった。一九四七年、ソ連が植民地問題を取り上げた。アンドレイ・ジュダーノフは、世界を、アメリカがリードする帝国主義諸国陣営と、ソ連がリードする民主的な反帝国主義陣営に分けていた。当時はこうした言説が一定の支持を得ることができた。独立していない地域や信託統治地域の人民にも普遍的な人権を保障しなければならないという主張となる。これに対してイギリスが反発して論争となったが、エジプト修正案により「その管轄下にある領域の人民」という形で決着した。
また、第三委員会での議論の際に、ユーゴスラヴィアが「非自治領域」という言葉を提案した。ニュージーランドも植民地諸国を代表する形で、植民地人民に対する抑圧を批判した。さらに、外国による占領地域問題も浮上した。ユーゴスラヴィアは「つねに権利を否定されてきた不幸な植民地人民に正義の大原則を」と唱えた。ウクライナは「優越人種と根絶されるべき劣等人種があるという植民地権力の馬鹿げた理論」を非難した。ナチス、南アフリカ、インドネシア(オランダの植民地)などを指摘した。結局、共産主義諸国の中でもユーゴスラヴィアとその他の諸国との間に不一致が生じたため、植民地条項を格下げした形で残すというイギリス提案が採択された。
このように宣言起草過程において植民地問題は正面から議論されたことを無視してはならない。
第三に、差別の原因である。
モーシンクによると、国連憲章は人種や皮膚の色に基づく差別を禁止しているので、宣言にも同種の規定が入るのは当然であった。宣言草案も人種と皮膚の色を掲げていた。ところが、人権小委員会の審議の結果、皮膚の色が削除された。人種に基づく差別を禁止すれば、皮膚の色に基づく差別も禁止されるから、同じことであるという理由である。人種概念と皮膚の色概念が同じであるのか、差異があるのかが議論となった。また、人種に科学的定義があるのか否かも問題となった。フランスのサミュエル・スパニエンもイランのレザザダ・シャファクも、人種の科学的定義はないことで一致した。人権委員会第二会期で、インドは、人種が皮膚の色を含むとしても、宣言に人種と皮膚の色を並列した方がよいと述べ、レバノンのマリクは、人種と皮膚の色とは同じではないと述べた。インド提案が採択されて、皮膚の色が復活した。モーシンクは、人種、皮膚の色、国民的出身の概念は互いに重なり合う面もあるが、これらがそろうことによって少数者のための強力な保護の壁をつくることができるとみる。
国民的出身に基づく差別の禁止を提案したのは、人権小委員会委員だったソ連のボリソフである。当初は「国民的または社会的出身」であった。これは「国籍」と同じではないか、「国民的または社会的」を削除して「出身」だけでよいのではないかなどの議論がなされた。スパニエンとイギリスのモンローは「出身または階級」を提案した。ボリソフは、ソ連には同一出身で異なる国籍の者がいるので「出身」だけでは不十分であるとか、「階級」概念は不適切であると主張した。
モーシンクによると、言語に基づく差別の禁止は、宣言第二六条の教育の権利と密接に繋がる。法廷において自己の言語を使用する言語的少数者の権利は、人権委員会第二会期の作業部会で、ベラルーシのステパネンコが指摘したことによって議論の対象となった。言語問題を宣言に挿入するか、それとも後につくられる人権規約に入れるべきか。長い歴史を有する少数者と移住者の区別をどう考えるか。少数者の権利条項をどうするか(この点は、寿台の著作で詳しく取り上げられている)。さまざまな議論の結果、言語に基づく差別の禁止も採択された。
詳細は省くが、結局、宣言第二条では「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的その他の意見、国民的または社会的出身、財産、出生又はその他の地位」に基づく差別の禁止が明示された。
おわりに
冒頭の問いに帰ろう。世界人権宣言は、その重要性にもかかわらず、あまり参照されてこなかった。在日朝鮮人の人権を保障しようとする場合にさえ、参照されてこなかった。
確かに、国際自由権規約や人種差別撤廃条約があり、それぞれの委員会による日本政府報告書審査が行われる。人権NGOのエネルギーは委員会の審査に向けたロビー活動に配分するのが合理的である。国連人権理事会における普遍的定期審査(UPR)もある。
しかし、世界人権宣言は今日でも国際人権法の中核をなす文書であり、国連憲章に準じる地位を獲得している。国際慣習法であり、法的拘束力がある。日本政府に守らせなければならない。人権NGOはそのために努力する必要がある。
第一に、国際自由権規約や人種差別撤廃条約の委員会審査の際にも、国連人権理事会のUPRの際にも、世界人権宣言を真っ先に掲げて議論を展開するべきである。世界人権宣言に照らして日本の総点検をするべきである。
第二に、そのためには(それと同時に)、世界人権宣言の諸条項の解釈論を十分に踏まえる必要がある。
ところが、人権NGOが利用できる世界人権宣言の注釈書が存在しない。国際人権規約の解釈についてはかなりの蓄積がある。あるいは、欧州人権裁判所の判例研究も増えている。しかし、世界人権宣言となると研究そのものが少ない。斉藤や寿台のすぐれた研究も、個別の条項の解釈論には立ち入っていない。
寿台によると、世界人権宣言の注釈書は、ネーミア・ロビンソンの著作(ユダヤ問題研究所、一九五〇年、英語)、アルベール・フェアドーの著作(道徳社会法学研究協会、一九六三年、フランス語)、アズビョルン・アイデとグドムンドル・アルフレドソン編の注釈書(スカンジナヴィア大学出版、一九九二年、英語)くらいしか見当たらないという(他にイスラム系の注釈書もあるという)。日本語による注釈書が必要である。
第三に、以上と重複することであるが、世界人権宣言と国際人権規約の関連、世界人権宣言とその他の人権条約の関連を理論的に解明していく作業も必要である。国際人権法の体系を的確に明らかにして、世界人権宣言をしかるべき位置にすえる作業である。それは世界人権宣言の意義と限界の双方を明らかにすることでもある。