Saturday, May 31, 2014

大江健三郎を読み直す(20)疎外された青年の戯画

大江健三郎『孤独な青年の休暇』(新潮社、1960年)                                     
表題作の中編のほか、「共同生活」「後退青年研究所」「上機嫌」「ここより他の場所」の4篇が収録されている。「後退青年研究所」以下は文庫本『見るまえに跳べ』に収められている。1960年代に出た「大江健三郎全作品(全6巻)」(新潮社)では、2巻に「共同生活」「ここより他の場所」、3巻に「上機嫌」、4巻に「後退青年研究所」が収められている。中短編は、一緒に収められた他の作品との関係で、読後感が異なることがある。                                      
表題作「孤独な青年の休暇」を読んだのは、通っていたお茶の水の大学の図書館の開架書庫だったと思うが、はっきりした記憶はない。当時(1970年代中葉)、開架書庫にあった大江作品はすべて読んだが、本作のインパクトはあまり強くなかった。大江初期の主題である青年像に繰り返し挑んだ時期の作品だが、『青年の汚名』や『遅れてきた青年』といった代表作の陰に隠れるのはやむをえないだろう。一つの特徴は、不条理と実存の不協和音の奏でる感覚であり、もう一つは、左翼と右翼への屈折した距離感である。大江は戦後民主主義を代表する文学者であり、一般に左翼とみなされがちだが、当時からすでに左翼に対して奇妙な屈折感を持ち、その投影として右翼の存在感が増している。後に本人も、右翼や民族的なものに惹きつけられる面があり、それとの思想的格闘が続いたことを語っている。「後退青年研究所」の構想もここから出ている。60年安保闘争の「敗北」以前から、大江にはこうした実感があったようだし、60年安保闘争に加わって一定の役割を果たした後も、その実感を維持し続けたように思われる。なお、本書は1960年5月に出版されており、3月執筆の「後記」には、「達成された作品がはたして日本の現代の青年をリアリスチクにえがきだしているかどうかについての批判は、それも否定的な批判は、この作品集の上梓にあたって再び激しくおこなわれることだろうと思います。その批判が、この作品集の著者が《われらの時代》以後いだいている懐疑、自分は現実から疎外されている青年作家にすぎず、真の作家とは、逆に現実に参加するものだとすれば、自分は誤謬をおかしているのではないか、という懐疑に方向づけを与えてくれるものであることを私は予感します」と記されている。


Friday, May 30, 2014

ヘイト・クライム禁止法(78)タジキスタン

タジキスタン政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/TJK/6-8. 29 September 2011)によると、公務員には人権や自由を擁護する義務があり、行政犯罪法第五〇一条により、公務員が違法行為を行えば犯罪とされている。刑法第三一四条は政府による職権濫用、第三一六条は権限踰越の責任を定め、これは被害者の民族的出身、性別、皮膚の色、国民的民族的又は社会的背景、世系、信仰又は政治的意見にかかわりなく適用される。国軍法第一三条から第一六条は、国軍の行為に関連して上記の差別的動機による行為を違法としている。タジキスタンには包括的な人種差別禁止法やヘイト・クライム法はないようである。                                                         人種差別撤廃委員会は、タジキスタン政府に次のような勧告をした(CERD/C/TJK/CO/6-8. 24 October 2011)。タジキスタン刑法、労働法、行政法に一連の関連規定があるが、包括的な人種差別禁止法がなく、現行法は条約第四条に合致していない。包括的な人種差別禁止法を制定するよう強調する。条約第四条は義務的性格を有するので、条約第四条の全ての要素を考慮した立法をするよう勧告する。タジキスタン政府報告書には、人種差別事例の具体的情報がない。委員会は人種差別行為に対する不服申立て、予防措置、被害者救済について検討するよう勧告する。

Wednesday, May 28, 2014

宮城県美術館散歩

仙台へ寄ったので宮城県美術館を覗いてきた。1981年開館で、宮城県および東北地方にゆかりのある作品を中心に収集し、明治時代以降現代までの日本画、洋画、版画、彫刻、工芸などをもつほか、クレーやカンディンスキーの外国作品も収蔵されている。常設展で、近代日本 絵画とクレー、カンディンスキーを見てきた。                                          本館隣には佐藤忠良記念館があり、彫刻作品がずらりと並ぶ。                                 http://burarisendai.masa-mune.jp/03sendai/06bijyutsukan/bijyutsu1.htm                                       勤務先の名誉教授の記念館を初めて訪れた。遅すぎるが。先月、館山に行った時に、館山博物館の玄関前にも、佐藤忠良作品が舟越保武作品と2つならべて設置されていた。1つだけの展示と、宮城県美術館の記念館とは大違いだ。仙台で、佐藤忠良という 彫刻家の全体像が徐々に見えてくる。                                                     佐川美術館                                                                 http://www.sagawa-artmuseum.or.jp/plan/sato/profile.html                                             

Thursday, May 22, 2014

ポスト・フクシマの思想を紡ぐ

徐京植・高橋哲哉・韓洪九『フクシマ以後の思想をもとめて』(平凡社、2014年)                                                同時代に向き合って問い直すべき問いを問い続け、語るべき言葉を語り直しながら、思想の最前線を駆けてきた在日の作家、日本人哲学者、そして韓国の歴史家3人による5つの鼎談である。副題「日韓の原発・基地・歴史を歩く」の通り、福島、ハプチョンとソウル、東京、済州島とソウル、最後に沖縄で、原発や基地や東アジアの国家と民衆の歴史を語りあう。日本に関わる部分は知っていることばかりだし、済州島の4・3事件やカンジョンマルのことも比較的よく知っているが、何を、どのように、知っていたのか、自らどのように考えていたのかと、振り返る手掛かりをいくつも与えてくれる。読書と思索の愉しみとは、こういう本に巡り合えた時の心境である。つまらないとわかっていても読まなくてはならない本に時間を奪われることの多い最近、こういう本に出会えると、まさに砂漠でオアシスだ。                                                                           国家と民衆の衝突と分裂のさなかに失われ、引き裂かれ、辱められ、忘れられる命と心の軋みと轟く轟音を、いかにして言葉に表現するのか。しかも国家と民衆は単純に2項対立の存在ではない。国家の側に立つ民衆が、自らの中に「敵」を見出し、狩り出していく現実を前に、何度も何度も言葉を失いかけてきた、その経験と記憶にさいなまれながらも、それでも歴史をさかのぼり、言葉を紡ぎ直す志が、ここにある。3人の著者のうち2人は知り合いだ。ちょっと嬉しい。                                                                                              本書の実現のためには優れた訳者が不可欠だが、3人の訳者のうち2人は知り合いだ。ちょっと、ではなく、とても嬉しい。一読者として、6人の著訳者と担当編集者に感謝したい。

Saturday, May 17, 2014

大江健三郎を読み直す(19)大江文学を生み出すための失敗作

大江健三郎『夜よゆるやかに歩め』(中央公論社、1959年[講談社、1963年])                                             先に「『燃え上がる緑の木』第一部『「救い主」が殴られるまで』以前の主要な小説作品はすべて読んだ」(大江健三郎を読み直す(1)、本年1月4日)と書いたが、本作は読んでいない。『われらの時代』(中央公論社、1959年5月)の2か月後に、同じ中央公論社から出版されているが、古書で購入したのは講談社・ロマン・ブックスに収録された1冊だ。大江は1957年に「奇妙な仕事」でデヴューし、「死者の奢り」を発表し、1958年に「飼育」で芥川賞を受賞し、『芽むしり仔撃ち』も公表している。1959年には『われらの時代』と本作を相次いで出版し、1960年には『孤独な青年の休暇』『青年の汚名』、そして1962年には『遅れてきた青年』と続く。                                                 つまり、最初期の、少年時代や動物をモチーフにした作品群から、現代青年の苦悩を主題に、長編作家となるべく試行錯誤した時期へと移行した時期である。この前後、大江の文学的主題は、青年、そして同時代であった(この時期だけではないが)。そして、長編小説を書き続けるために実験を重ねていたと言ってよいだろう。                                                  『大江健三郎 作家自身を語る』(新潮文庫)の回顧では、作品名には言及することなく、「自分の人生を振り返って、あの時をよく生き延びたな、とぞっとする時期がいくつかあります。それが一番はっきりしているのが、小説を書くようになってからの四年ないし五年だったと思います。」と述べる。また、『芽むしり仔撃ち』について語りながら、「そのあたりまでは、いま読んでもかなり面白いと思う作品がありますけど、その後の二、三年、自分が書いた小説はよくない。よくない、と自分でわかってるんだけど、文芸誌というものは、いったん顔を水面に堕した新人には寛大でね、受け入れてくれるから、それを発表する、という感じで文壇での生活を始めていたわけです。」とも述べている。                                                               「よくない」作品の代表が本作だろう。新人作家が陥った最初のスランプを見事に証明する作品だ。                                                                                     しかし、「セヴンティーン」「政治少年死す」、そして『個人的な体験』へと、作家としての大事件及び人生の激変に直面しながら、大江は最大の危機を乗り越え、同時に生涯の文学的主題を獲得し、方法論を磨き始める。『夜よゆるやかに歩め』は、その後の大江文学を生み出すために必要な失敗作だったのだろう。

Sunday, May 11, 2014

大江健三郎を読み直す(18)最初期短編群の青年像

大江健三郎『見るまえに跳べ』(新潮文庫、1974年)                                                     本書には、デビュー作「奇妙な仕事」、戯曲風に書かれた「動物倉庫」(以上1957年)に始まり、「運搬」「鳩」「見るまえに跳べ」「鳥」(以上1958年)、「ここよりほかの場所」「上機嫌」(以上1959年)、「後退青年研究所」「下降生活者」(以上1960年)の10篇が収録されている。                                                                     最初期大江の特徴としてよく指摘されてきたように、第1に、動物が重要なモチーフとなっていることがよくわかる。犬を殺す仕事、倉庫で蛇に逃げられる話、牛を運ぶ仕事などが続く。これはのちに四国の森の世界を描いて、「森の思想」に発展していくが、その端緒は「下降生活者」にも表れている。第2に、青春の挫折や無意味さや不安である。ニヒリズムという訳ではないが、人間の行為についての徒労感がしばしば語られる。これらは「政治と性」「政治的人間と性的人間」という初期のテーマに発展していく。政治的行動への参加と躊躇や、恋人との間に子どもをつくることへの不安など、青年の揺れる心理が描かれる。                                                             新潮文庫が出た当時、私はこれらの作品をどのように読んだのか、あまり記憶していない。「奇妙な仕事」については、時代の旗手のデビュー作ということで熱心に読んだはずだが、「飼育」を先に読んでいたためか、印象が薄い。表題作「見るまえに跳べ」や、「ここよりほかの場所」にも感銘を受けなかったのは、当時の私は他方でジョン・レノン主義者であり、ジョンとヨーコの言動にこそ時代精神を嗅ぎ取っていたからかもしれない。60年安保前後の青年の屈服感、自己欺瞞、自己嫌悪といった悩みは、70年代中葉の青年にとってすでに過去のものでしかなかったように思う。それは石原慎太郎の『太陽の季節』を読んでも「ツマラナイ」という感想しか持ちえなかったことと同じである。しかし、イシハラにしろ大江にしろ、あの時代の青年像の一面を見事に描き出し、それが今なお続く青年イメージの形成に寄与したことは間違いない。

Saturday, May 10, 2014

ヘイト・クライム禁止法(77)セネガル

セネガル政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/SEN/16-18. 31October 2011)によると、条約第四条の履行に関して、団体設立及び違法団体の禁止に関する一九六八年の市民的商業的義務法が一九七九年に改正された。また、一九八一年の政党法がある。これらは団体や政党の設立に関して人種、性別、宗教による差別を禁止している。さらに、一九八一年の人種、民族、宗教差別行為の処罰に関する法があり、宣伝活動について、「全体的又は部分的に、人種、民族又は宗教的差別の実行、乃至そうした差別の煽動の実行を意図した活動をした者」を規制している。同様に刑法第一六六条は、公務員等が、正当な理由なしに人種、民族又は宗教的差別を行った場合を犯罪としている。                                                                                    刑法第二五六条bisは、人種的優越性を主張し、人種的優越性や人種憎悪の感情を興奮させ、人種、民族又は宗教的差別を煽動する意図で、物、図像、印刷物、文書、言説、ポスター、彫刻、絵画、写真、フィルム、スライド、写真集、映像再生又は記章を、公然と提示し、展示し、利用できるようにしたり、配布し、配布のために発行した者は、二年以下の刑事施設収容及び二五万フラン以上三〇万フラン以下の刑罰に処すとしている。又、その他の犯罪について、人種的動機は刑罰加重事由となる。                                                                                                       人種差別撤廃委員会はセネガル政府に次のように勧告した(CERD/C/SEN/CO/16-18. 24 October 2012)。委員会は人種差別行為に対する不服申し立ての様々な回路があることや、セネガルにおける寛容と社会的調和の文化に留意するが、セネガル政府が、差別に関する裁判所判決がないことをもってセネガルには人種差別がないとしていることは遺憾である。刑事司法における人種差別の予防に関する 一般的勧告三一(二〇〇五)を想起し、被害者救済の法や補償がないことを是正するよう勧告する。

Thursday, May 08, 2014

ヘイト・クライム禁止法(76)タイ

タイ政府が人種差別撤廃委員会に提出した初めての報告書(CERD/C/THA/1-3. 5October 2011)によると、タイ憲法は、人間の尊厳と権利を保障し、諸個人及びコミュニティに文化や伝統を維持する権利の促進を定めている。同時に、憲法は表現の自由を定め、事前検閲など表現の制約を禁止している。                                                                                タイには、人種主義宣伝に直接対処する法律はない。しかし、関連する法律として、刑法は、他人に犯罪を実行させること、犯罪の実行を宣伝し(刑法第八三条~第八八条)、呼びかけること、他人を侮辱すること、そのような宣伝をすることを犯罪としている(刑法第三九三条)。宗教に対する侮辱も 犯罪としている(刑法第二〇六条~二〇七条)。                                                                一九五五年のラジオ・テレヴィ法は、真実でないニュースや情報を放送して、国家や人民に損害をもたらすことを禁止し、二千バート以下の罰金又は一年以下の刑事施設収容、又は併科としている。                                               タイはいかなる人種主義も許さない。人種主義は暴力や、他の人種に対する侮辱につながる。この種の行為にはタイ社会は即座に反対する。TVドラマや映画で、人種主義的方法で一定の人種や民族の文化や伝統を侮辱した場合、タイ社会はすぐに反対の声を上げる。現在、フィルム・ ヴィデオ法草案を作成し、法秩序や人民の道徳価値観に反する内容を禁止しようとしている。                                                                       タイは条約第四条を留保している。条約第四条(a)(b)(c)について、国家がそのような法律制定が必要と考えた場合にだけ、適用されるとしている。タイでは法律と社会条件が十分に相互補完的である。                                                                                  人種差別撤廃委員会はタイ政府に次のような勧告をした(CERD/C/THA/CO/1-3.15 November 2012)。条約第一条の人種差別の定義を導入すること。委員会は、条約第四条の留保は、人種的優越性や憎悪に基づく観念の流布の禁止に合致しない。条約第四条の規定は義務的であるので、委員会はタイ政府に留保を撤回し、第四条に規定された犯罪を刑法に取り入れるよう促す。タイ報告書には人種差別に関する統計情報が含まれていない。人種差別に関する裁判所の判決その他の情報を提供するよう勧告する。

Wednesday, May 07, 2014

ヘイト・クライム禁止法(75)韓国

韓国政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/KOR/15-16. 2 March 2012)によると、前回審査の結果、委員会は韓国政府に飲酒的動機に基づく刑事犯罪を禁止・処罰する特別立法を行うよう勧告した。韓国には、国際刑事裁判所の管轄下におけるジェノサイドや人道に対する罪以外に、人種差別に基づいた犯罪行為を処罰する法律はない。その種の犯罪は韓国の歴史上ほとんど起きたことがないからである。                                                         人種差別の煽動に関しては、人種的優越性に基づく広告は、刑法第三〇七条の中傷、又は刑法第三一一条の侮辱の罪で処罰される。人種差別に基づく暴力は、刑法第二五章の暴行傷害などで処罰あれ、それらの教唆や幇助も処罰される。犯罪実行の動機は刑罰を決定する際に考慮されるので、裁判官は量刑に際して、人種差別があったことを考慮に入れることが出来る。                                                   韓国政府は現在、人種的動機による犯罪を犯罪統計にいれていない。しかし、外国人の人身売買に関する統計は特に計上している。二〇〇九年以来、検事局は、人身売買の女性被害者を効果的に調査するために統計を取っており、人身売買の予防と統制に役立つことが期待される。                                                  人種差別撤廃委員会は韓国政府に次のように勧告した(CERD/C/KOR/CO/15-16. 23 October 2012)。委員会は、韓国政府が二〇〇七年に差別禁止法案を国会に上程したことを留意するが、法案が成立していないことは残念である。委員会は、差別禁止法を採択するよう速やかに措置を講じるよう促す。二〇〇九年の社会権規約委員会、二〇一一年の子どもの権利委員会による勧告を想起する。                                                       委員会は、差別禁止法には差別行為の処罰規定がないのを遺憾に思う。現行法は条約第四条に合致していない。委員会は、条約第二条及び第四条の規定の義務的性格を強調し、刑法に人種差別を犯罪とする規定を取り入れるよう促す。                                                                   委員会は、人種主義者によるヘイト・スピーチがメディアやインターネット上で広まっていることを留意する。委員会は、表現の自由には人種的優越性の流布や人種的憎悪の煽動を保護するものではないことを留意する。委員会の一般的勧告七(一九八五)、一五(一九九三)、三〇(二〇〇四)に応じて、委員会は韓国政府に、メディア、インターネット、ソーシャルネットワークを監視して、人種的優越性に基づく観念の流布や、外国人に対する人種的憎悪の煽動を行う個人や集団を特定するよう勧告する。委員会は、それらの行為の実行者を訴追し、処罰するよう勧告する。

Tuesday, May 06, 2014

ヘイト・クライム禁止法(74)フィンランド

フィンランド政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/FIN/20-22. 14 February 2012)によると、前回審査の結果、委員会がフィンランド政府に対して、インターネット上のレイシズムに関する勧告を出した。フィンランド警察はインターネット監視を行い、そのための予算を増加している。インターネット上の移民批判やヘイト・スピーチは増加しているので、監視を続けている。監視強化の主要部分は、公衆にインターネット上の犯罪について積極的に教育することである。二〇一〇年三月以後、レイシスト文書をチェックする体制ができた。二〇一〇年、警察が受け取ったレイシズム通報は一〇二八件であり、そのうち二二は対処することになった。通報の大半はオンライン討論サイトでの中傷事案であったが、訴追できる犯罪ではなく、傷つけられた当事者は相手を特定できていない。不寛容の表現がすべて犯罪の要件を満たすわけではない。警察は、犯罪があると思料した場合に捜査に着手する。                                                                          教育文化省は、フィンランドの子どもを守るノー・レイシズムという長期計画を支援している。この計画は若者にレイシズムについて理解させ、レイシズムを特定し、それに対処することを理解させる計画である。                                                             フィンランドは、コンピュータを通じて行われる人種主義と外国人嫌悪行為を犯罪化するための欧州評議会サイバー犯罪条約追加議定書を批准した。                                                                         人種主義や差別文書に関する包括的立法として二〇一一年刑法改正がなされ、人種主義者やその他のヘイト・スピーチに介入する手立てを確保するものである。民族煽動に関する刑罰規定が追加され、情報技術を通じて流布されるヘイト・スピーチに対処している。さらに、刑罰加重事由として、すべての犯罪について、人種主義的動機のみならず、障害をもった人や性的マイノリテチィに対する憎悪のあった事件での刑罰加重を可能とした。 人種差別撤廃条約第四条に関する法規定は、刑法第六章の量刑規定、刑法第一一章の人道に対する罪(民族煽動、加重民族煽動、法人の刑事責任)、刑法第一七章の公共秩序に対する犯罪(犯罪組織活動への参加)、刑法第二四章(プライヴァシー、公共の平穏、人の名誉に対する犯罪)、刑法第二五章(人身の自由に対する犯罪)がある。                                                                                      人種差別撤廃委員会がフィンランド政府に対して出した勧告(CERD/C/FIN/CO/20-22. 23 October 2012)によると、委員会は、フィンランドがインターネット上のヘイト・スピーチに対処するため刑法改正を行ったことに留意するが、フィンランドにおいてインターネット上のヘイト・スピーチが続いていることに関心を有する。委員会は、インターネット上の人種憎悪と人種差別の煽動にと闘う努力を強化するため、ヘイト・スピーチに関するデータを効果的に収集し、若者、メディア、政治家に意識を持たせるキャンペーンを行うよう勧告した。

Sunday, May 04, 2014

大江健三郎を読み直す(17)文学が時代から取り残され始めた時代に

大江健三郎『小説の経験』(朝日文庫、1998年[朝日新聞社、1994年]) 前半はNHK人間大学での講義「文学再入門」(1992年)、後半は朝日新聞に1992~1994年に連載した文芸批評を収録し、ノーベル賞受賞の1994年に出版された。前半は『小説の方法』『新しい文学のために』に続く文学方法論の入門編であり、後半はその実践としての文芸批評であり、小説の読み方の指南書である。 前半では文学作品といかにして深くめぐりあうべきかが示される。いつもの大江と同じで、ドストエフスキー、トルストイ、バルザック、フォークナー、井伏鱒二、中野重治、佐多稲子、大岡昇平などの作品を素材に、カーニヴァル、トリックスター、グロテスク・リアリズム、想像力、異化をはじめとする手法が、いかに巧みに作品の中に描きこまれているかを教える。方法のための方法ではなく、世界文学における方法の問題である。 後半では、1992~94年の日本の文壇の諸作品を取り上げて論じる。大御所から新人に至る作家たちのさまざまな作品を取り上げて、主題や、手法や、女性像や、物語について論評しているが、加賀乙彦が文庫巻末エッセイで述べるように、「嘆きとペシミズム」が基調を成している。すぐれた作品がないわけではない。楽しい作品、考えさせる作品、迫力ある作品、深い問題提起をする作品が陸続と発表され続けている。しかし、大江はその先を見ようとする。日本文学を世界文学との関係においてとらえ返そうとする。そうすると、同時代文学に「危機」が迫ってくる。 結びの言葉は、こうだ。 「二十一世紀文学の展望が地球規模でひらかれてゆくにつれ、日本文学は――徹底的な自己検討と革新なしでは――、先進的な文学潮流の二流である以前に、こうした周縁からの新文学の勢いに取り残されるだろう。それは二十一世紀の世界におけるこの国の文化の、致命的な立ち遅れのモデルをすらなすのではないか? その恐ろしい予感とともに私は時評を閉じて、自分の小説の畑を耕しに戻るつもりだ。」 「恐ろしい予感」は、半分以上は当たったといえよう。一つには、アジアをはじめとする新しい世界文学、つまり欧米に限らない地平を切り開いた文学の隆盛と、それに伴う日本文学の地盤沈下である。相対的な沈下にとどまるのならまだしも。もう一つにはエンターテインメント文学の猛烈な流行という対照的な現象である。本が売れなくなった時代と言われ続けながらも、エンターテインメント文学はますます絶好調である。戦後文学は、その大波にのみ込まれ、漂流したままである。

Friday, May 02, 2014

朝日新聞は護憲とヘイト・スピーチを同列に並べるのか

『朝日新聞』5月2日朝刊の「排除の理由5 言論 すくむ自治体」は、前半で、長野県千曲市が9条の会の講演会の後援を拒否したことから始めている。行政の「中立性」を理由とする拒否である。さらに、千葉県白井市も「政治的色彩」を理由に拒否したという。                                同記事の後半は、山形県生涯学習センターが「在日特権を許さない市民の会」の講演会の利用申し込みを断ったこと、豊島区の豊島公会堂が在特会の集会利用を許可したことを紹介している。                                        護憲運動とヘイト・スピーチ常習の在特会を同列に並べて、「排除の理由」とし、「言論 すくむ自治体」としている。                                   第1に、記事は憲法99条に言及しない。憲法99条は公務員には憲法尊重擁護義務があると明示している。もっとも重要な判断基準を示さずに、読者に判断をゆだねるのは適切とはいいがたい。記事は「中立性」や「色彩」にカッコを付すことで、行政の判断とは距離を置いているが、明確な批判はしない。                                                         第2に、記事は人種差別撤廃条約に言及しない。日本政府が批准した人種差別撤廃条約は、2条で政府が人種差別を撤廃するために立法、行政、司法のレベルで努力することを明示している。日本政府(自治体も含まれる)には人種差別を撤廃するために施策を講じること、人種差別に協力しないことが求められる。公共施設をヘイト団体に利用させることは、自治体が人種差別を後援するに等しいことである。そのことを示さずに、読者に判断をゆだねている。この点について詳しくは、                                                    ヘイト・スピーチ集団に公共施設を利用させてはならない3つの理由                                                              http://maeda-akira.blogspot.jp/2013/06/blog-post_6044.html                                                              第3に、記事は「排除の理由 言論 すくむ自治体」とすることによって、ヘイト・スピーチに「言論」というお墨付きを与える。EU加盟国はすべてヘイト・スピーチを犯罪とし、ヘイト団体への参加も犯罪としている。世界193カ国のうち少なくとも100か国でヘイト・スピーチは犯罪とされている。記事はそのことに触れずに、あたかも「言論」であるかのごとく示す。                                                                                      記事の筆者にそのつもりがあるわけではないかもしれないが、かくして、記事は護憲運動とヘイト団体を同列に置き、ヘイト団体とその活動を支援する結果となっている。残念な記事だ。                                                                    4月28日に始まった連載「排除の理由」は、あちこちに不満がないわけではないものの、日本の現状を伝える記事として、それなりに良くできた連載であるが、5月2日の記事には首を捻るしかない。

Thursday, May 01, 2014

上野千鶴子の選憲論(改憲論)

上野千鶴子『上野千鶴子の選憲論』(集英社新書)                                                                          安倍改憲ごり押し路線に対抗する護憲論の闘いは様々に展開されているが、権力を握っている側への対抗としてはいまなお弱い上に、メインストリームメディアが改憲路線を後押ししている現状では、一歩後退二歩後退を余儀なくされている。そうした中、著者は加藤典洋の「選憲論」を参考に、独自の選憲論を展開する。2013年9月26日に横浜弁護士会等主催の憲法問題シンポジウムでの講演記録を基にした著書である。                                                                                                                          「護憲」でも「改憲」でもない第三の道とは? との問いを掲げつつ、自民党改憲案を批判的に検討したうえで、他方、「護憲論」は対案を示さないから魅力がないとして、選憲論として、「現在ある憲法をもう一度選び直しましょうという提案です」と述べる。「同じ憲法を、もう一度、選び直したらいいではありませんか。だって、もう70年近くもたつのだから。できてからおよそ70年、手つかずのままの憲法は諸外国にもめったにありません。」あるいは、「節目で何度でも、もう一度選び直したらいいではないか。」とし、「戦後生まれのわたしたちの世代にしてみれば、生まれる前にできた憲法は、自分で選んだわけではありません。・・・憲法をもう一度選び直すという選択肢を、その憲法ができたときには生まれていなかった人たちに、与えてもいいのではないかと思います」という。                                                                              護憲論の立場からは、「それを護憲というのだ」という声が返ってくるだろう。著者の主張の基本は護憲論であり、それを選憲と呼んでいる側面が強いからだ(ただし、一部改憲論でもある)。                                                                                                 私は著者とは違う立場に立つが、著者の発想にはそれなりの合理性があると考える。それは「憲法制定権力論」にかかわる。憲法学では憲法制定権力論が検討され、国民主権の場合には国民がその権力を有するとされる。憲法学の憲法制定権力論では十分に捉えられていないのが、時間論であり、世代論である。1946年の国民と、2014年の国民の間の重なりはほんのわずかとなっている現実を前にしたとき、1946年の国民の選択がそのまますべてとなるのは合理的とはいいがたい。一定の年数を経た場合に、あるいは、「国民」の内実が一定の割合で変化した場合に、改めて憲法制定権力の発動を行うべきだという理屈はいちおうは合理的と言える。それが70年なのかどうかは別として、またそれを選憲とよぶかどうかも別として、そうした議論をきちんと行うことは必要だ。                                                                                                   以下はオマケのコメントである。                                                                                               第1に、著者は憲法1条の改正を提起する。つまり天皇制の廃止と共和制の樹立に関わる。つまり、じつは著者の立場は自民党とは逆の立場からの改憲論である。それを改憲論として主張すれば、現状では全く相手にされないので、選憲論というバイパスを採用したのであろうか。                                                                                                                          第2に、著者は「できてからおよそ70年、手つかずのままの憲法は諸外国にもめったにありません。」と断言する。例としてアメリカとドイツだけをあげている。世界には193の国家があり、憲法があるが、著者はどれだけ調べたのだろうか。おそらくろくに調べずに断言しているのだろう。ああ、またか、と思う。こういう大雑把で乱暴なところが著者の強みというか、魅力というか、蛮勇というか。私にはまねできない。