Sunday, May 04, 2014
大江健三郎を読み直す(17)文学が時代から取り残され始めた時代に
大江健三郎『小説の経験』(朝日文庫、1998年[朝日新聞社、1994年])
前半はNHK人間大学での講義「文学再入門」(1992年)、後半は朝日新聞に1992~1994年に連載した文芸批評を収録し、ノーベル賞受賞の1994年に出版された。前半は『小説の方法』『新しい文学のために』に続く文学方法論の入門編であり、後半はその実践としての文芸批評であり、小説の読み方の指南書である。
前半では文学作品といかにして深くめぐりあうべきかが示される。いつもの大江と同じで、ドストエフスキー、トルストイ、バルザック、フォークナー、井伏鱒二、中野重治、佐多稲子、大岡昇平などの作品を素材に、カーニヴァル、トリックスター、グロテスク・リアリズム、想像力、異化をはじめとする手法が、いかに巧みに作品の中に描きこまれているかを教える。方法のための方法ではなく、世界文学における方法の問題である。
後半では、1992~94年の日本の文壇の諸作品を取り上げて論じる。大御所から新人に至る作家たちのさまざまな作品を取り上げて、主題や、手法や、女性像や、物語について論評しているが、加賀乙彦が文庫巻末エッセイで述べるように、「嘆きとペシミズム」が基調を成している。すぐれた作品がないわけではない。楽しい作品、考えさせる作品、迫力ある作品、深い問題提起をする作品が陸続と発表され続けている。しかし、大江はその先を見ようとする。日本文学を世界文学との関係においてとらえ返そうとする。そうすると、同時代文学に「危機」が迫ってくる。
結びの言葉は、こうだ。
「二十一世紀文学の展望が地球規模でひらかれてゆくにつれ、日本文学は――徹底的な自己検討と革新なしでは――、先進的な文学潮流の二流である以前に、こうした周縁からの新文学の勢いに取り残されるだろう。それは二十一世紀の世界におけるこの国の文化の、致命的な立ち遅れのモデルをすらなすのではないか? その恐ろしい予感とともに私は時評を閉じて、自分の小説の畑を耕しに戻るつもりだ。」
「恐ろしい予感」は、半分以上は当たったといえよう。一つには、アジアをはじめとする新しい世界文学、つまり欧米に限らない地平を切り開いた文学の隆盛と、それに伴う日本文学の地盤沈下である。相対的な沈下にとどまるのならまだしも。もう一つにはエンターテインメント文学の猛烈な流行という対照的な現象である。本が売れなくなった時代と言われ続けながらも、エンターテインメント文学はますます絶好調である。戦後文学は、その大波にのみ込まれ、漂流したままである。