Thursday, May 01, 2014
上野千鶴子の選憲論(改憲論)
上野千鶴子『上野千鶴子の選憲論』(集英社新書)
安倍改憲ごり押し路線に対抗する護憲論の闘いは様々に展開されているが、権力を握っている側への対抗としてはいまなお弱い上に、メインストリームメディアが改憲路線を後押ししている現状では、一歩後退二歩後退を余儀なくされている。そうした中、著者は加藤典洋の「選憲論」を参考に、独自の選憲論を展開する。2013年9月26日に横浜弁護士会等主催の憲法問題シンポジウムでの講演記録を基にした著書である。
「護憲」でも「改憲」でもない第三の道とは? との問いを掲げつつ、自民党改憲案を批判的に検討したうえで、他方、「護憲論」は対案を示さないから魅力がないとして、選憲論として、「現在ある憲法をもう一度選び直しましょうという提案です」と述べる。「同じ憲法を、もう一度、選び直したらいいではありませんか。だって、もう70年近くもたつのだから。できてからおよそ70年、手つかずのままの憲法は諸外国にもめったにありません。」あるいは、「節目で何度でも、もう一度選び直したらいいではないか。」とし、「戦後生まれのわたしたちの世代にしてみれば、生まれる前にできた憲法は、自分で選んだわけではありません。・・・憲法をもう一度選び直すという選択肢を、その憲法ができたときには生まれていなかった人たちに、与えてもいいのではないかと思います」という。
護憲論の立場からは、「それを護憲というのだ」という声が返ってくるだろう。著者の主張の基本は護憲論であり、それを選憲と呼んでいる側面が強いからだ(ただし、一部改憲論でもある)。
私は著者とは違う立場に立つが、著者の発想にはそれなりの合理性があると考える。それは「憲法制定権力論」にかかわる。憲法学では憲法制定権力論が検討され、国民主権の場合には国民がその権力を有するとされる。憲法学の憲法制定権力論では十分に捉えられていないのが、時間論であり、世代論である。1946年の国民と、2014年の国民の間の重なりはほんのわずかとなっている現実を前にしたとき、1946年の国民の選択がそのまますべてとなるのは合理的とはいいがたい。一定の年数を経た場合に、あるいは、「国民」の内実が一定の割合で変化した場合に、改めて憲法制定権力の発動を行うべきだという理屈はいちおうは合理的と言える。それが70年なのかどうかは別として、またそれを選憲とよぶかどうかも別として、そうした議論をきちんと行うことは必要だ。
以下はオマケのコメントである。
第1に、著者は憲法1条の改正を提起する。つまり天皇制の廃止と共和制の樹立に関わる。つまり、じつは著者の立場は自民党とは逆の立場からの改憲論である。それを改憲論として主張すれば、現状では全く相手にされないので、選憲論というバイパスを採用したのであろうか。
第2に、著者は「できてからおよそ70年、手つかずのままの憲法は諸外国にもめったにありません。」と断言する。例としてアメリカとドイツだけをあげている。世界には193の国家があり、憲法があるが、著者はどれだけ調べたのだろうか。おそらくろくに調べずに断言しているのだろう。ああ、またか、と思う。こういう大雑把で乱暴なところが著者の強みというか、魅力というか、蛮勇というか。私にはまねできない。