Saturday, May 31, 2014

大江健三郎を読み直す(20)疎外された青年の戯画

大江健三郎『孤独な青年の休暇』(新潮社、1960年)                                     
表題作の中編のほか、「共同生活」「後退青年研究所」「上機嫌」「ここより他の場所」の4篇が収録されている。「後退青年研究所」以下は文庫本『見るまえに跳べ』に収められている。1960年代に出た「大江健三郎全作品(全6巻)」(新潮社)では、2巻に「共同生活」「ここより他の場所」、3巻に「上機嫌」、4巻に「後退青年研究所」が収められている。中短編は、一緒に収められた他の作品との関係で、読後感が異なることがある。                                      
表題作「孤独な青年の休暇」を読んだのは、通っていたお茶の水の大学の図書館の開架書庫だったと思うが、はっきりした記憶はない。当時(1970年代中葉)、開架書庫にあった大江作品はすべて読んだが、本作のインパクトはあまり強くなかった。大江初期の主題である青年像に繰り返し挑んだ時期の作品だが、『青年の汚名』や『遅れてきた青年』といった代表作の陰に隠れるのはやむをえないだろう。一つの特徴は、不条理と実存の不協和音の奏でる感覚であり、もう一つは、左翼と右翼への屈折した距離感である。大江は戦後民主主義を代表する文学者であり、一般に左翼とみなされがちだが、当時からすでに左翼に対して奇妙な屈折感を持ち、その投影として右翼の存在感が増している。後に本人も、右翼や民族的なものに惹きつけられる面があり、それとの思想的格闘が続いたことを語っている。「後退青年研究所」の構想もここから出ている。60年安保闘争の「敗北」以前から、大江にはこうした実感があったようだし、60年安保闘争に加わって一定の役割を果たした後も、その実感を維持し続けたように思われる。なお、本書は1960年5月に出版されており、3月執筆の「後記」には、「達成された作品がはたして日本の現代の青年をリアリスチクにえがきだしているかどうかについての批判は、それも否定的な批判は、この作品集の上梓にあたって再び激しくおこなわれることだろうと思います。その批判が、この作品集の著者が《われらの時代》以後いだいている懐疑、自分は現実から疎外されている青年作家にすぎず、真の作家とは、逆に現実に参加するものだとすれば、自分は誤謬をおかしているのではないか、という懐疑に方向づけを与えてくれるものであることを私は予感します」と記されている。