Tuesday, June 30, 2015

「軍隊を持っていない国はたった26カ国」百田発言余話

6月27日に開催された自民党の「文化芸術懇話会」という非文化的会合で、露骨な沖縄差別とメディア弾圧を呼びかけて問題となった百田尚樹は、その後も知性崩壊を実証する暴言を続けているが、報道によると、27日の会合で他にも多くの問題発言を繰り返していたという。反知性主義者たちの集まりに百田のようなデマ垂れ流し屋が呼ばれて無責任発言をしているのは驚くほどのことではない。
『朝日新聞』7月1日朝刊の「ナウルなどを『くそ貧乏長屋』」という記事によると、百田は、軍隊を持たないナウル、バヌアツ、ツバルなどを「くそ貧乏長屋、とるものも何もない」などと述べていたと言う。「軍隊は防犯用の鍵だ。軍隊を持っていない国はたった26カ国」「南太平洋の小さな島。ナウルとかバヌアツ、ツバルなんか、もう沈みそう。家で例えればくそ貧乏長屋。とるものも何もない」と。
コメント第1。小国とはいえ主権国家に対する差別的発言をして、何が楽しいのかよくわからない。下品な百田の愚劣さが明瞭になっただけだが、自民党議員たちは「ためになる話だ」と感激していたらしい。
コメント第2。「軍隊を持っていない国はたった26カ国」の「たった」とはどういう意味だろうか。以前、日本の憲法学者や平和運動家たちは「世界で唯一の非武装国・日本」と嘘を並べていた。その後、コスタリカについての知識が普及して、「コスタリカと日本」と言うようになった。ところが、百田が言う通り26カ国もあるのなら、一気に26倍(又は13倍)に増えたことになる。国連加盟国193カ国を基に計算しても14%もの国に軍隊がないことになる。「26カ国もの国に軍隊がない」のだ。
コメント第3。百田はどこから26カ国という数字を出したのだろうか。私は2005年から2008年にかけて、スイスの平和運動家クリストフ・バルビーの教示に従って、軍隊のない国家27カ国を訪問し、その記録を出版した。とても素敵な旅だった。
前田朗『軍隊のない国家――27の国々と人びと』(日本評論社、2008年)。
それ以前、日本ではこうした情報は知られていなかったし、その後、この件での調査や研究論文は出ていないと思うので、たぶん、私が紹介した情報がどこかを流れて百田の貧弱きわまりない脳細胞の片隅に漂着したのだろう。


Saturday, June 27, 2015

植民地主義からの解放のために

高橋哲哉『沖縄の米軍基地――「県外移設」を考える』(集英社新書)

野村浩也の『無意識の植民地主義』(御茶ノ水書房)論に触発されて、沖縄の若手研究者・言論人たちが沖縄の基地問題に新しい展開をもたらしてきた。「日本人よ、沖縄の米軍基地を持って帰れ」「本土に基地を引き取れ」という厳しい問いかけは、徐々に共感の輪を広げてきた。私自身、最初に野村の著書に接した際に、半分説得されながら、半分、内心で懸命に「反論」を試みていたことを思い出す。

知念ウシの『ウシがゆく 植民地主義を探検し、私を探す旅』(沖縄タイムス社)に接した時も、同じように賛否半ばの思いを抱えていたように思う。日本人としてのポジショナリティを十分理解しながら、「基地はいらない、どこにも」という反戦平和主義の「甘え」から脱していなかったが、同書は本土(ヤマト)の側こそ読むべきだと思い、100冊ほど普及した。

この間、アイヌ民族の先住民族としての権利を考え、朝鮮植民地支配における「植民地犯罪」と 人道に対する罪について検討し、植民地犯罪の現代的形態の一つであるヘイト・クライム/ヘイト・スピーチに向き合い続けることによって、ようやく野村や知念の問いかけから逃げない地点にたどり着いた。使い古された表現を用いれば「内なる植民地主義の在り処」にようやく理論的にも実践的にも向き合えるようになった。それでも、知念ウシの『シナンフーナーの暴力』(未來社)に説き伏せられながら、なお、たじろぐ自分がいた。

沖縄に対する植民地主義を脱するために、構造的沖縄差別をまず除かなくてはならない。そのためには沖縄に押し付けられた米軍基地を本土に引き取る必要がある。つまり、県外移設である。平和運動に取り組む平和主義者、非武装平和主義者としては、 沖縄であれ本土であれ、基地はいらない。だから、まず沖縄の基地をなくし、本土に移転してきた基地との闘いに取り組まなくてはならない。そうしないと、本土の平和運動は本気で米軍基地と闘うことをしないのだから。――この結論は気が重く、率先して口にする気になれない結論であるが、沖縄差別を解消するためには必要な結論だろう。その結論を明快に説いたのが高橋哲哉である。

第一章     在沖米軍基地の「県外移設」とは何か
第二章     米軍基地沖縄集中の歴史と構造
第三章     県外移設を拒む反戦平和運動
第四章     「県外移設」批判論への応答
終章  差別的政策を終わらせるために

憲法9条擁護と言いながら、実は本土(ヤマト)の国民の圧倒的多数が日米安保条約を是認し、米軍基地を容認している。日本防衛のために米軍基地が必要だと言う。しかし、「自分の所には持ってくるな」。つまり、米軍基地は沖縄に置くべきだと考えてきた。基地押しつけは日本政府やアメリカ政府だけではなく、日本国民の選択でもあった。

構造的差別を終わらせるために何をすべきなのか。「沖縄の基地を本土に移転せよ」と言う主張に対して、本土の反戦平和運動は「基地はどこにもいらない。県外移設ではなく、国外移設を」と唱える。だが、それは真剣な議論ではなく、沖縄の基地を維持する意見でしかない。

高橋は、知念ウシほか『沖縄、脱植民地への胎動』(未來社)における、知念ウシと石田雄の往復書簡をもとに、沖縄に基地を押し付けながら、本土に基地を引き取ることを拒否する日本人の感情と論理を明るみに出す。次に高橋は、沖縄で県外移設論への批判を展開している新城郁夫の議論を批判的に検討して、県外移設論の正当性を再確認する。石田雄や新城郁夫といった敬愛すべき論客との応接により、高橋の主張が鮮明になる。

高橋の結論は次のようなものとなる。

「県外移設要求は正当であり、それに応えるのは『本土』の責任である。なぜなら、在日米軍基地を必要としているのは日本政府だけでなく、約八割という圧倒的多数で日米安保条約を支持し、今後も維持しようと望んでいる『本土』の主権者国民であり、県外移設とは、基地を日米安保体制下で本来あるべき場所に引き取ることによって、沖縄差別の政策に終止符を打つ行為だからである。/県外移設は、平和を求める行為と矛盾しないのはもとより、『安保廃棄』の主張とも矛盾するものではない。『本土』の人間が安全保障を求めるなら、また平和や『安保廃棄』を求めるなら、基地を引き取りつつ自分たちの責任でそれを求めるべきであり、いつまでも沖縄を犠牲にしたままでいることは許されない。県外移設が『本土』と沖縄、『日本人』と『沖縄人』の対立を煽るとか、『連帯』を不可能にするなどという批判は当たらない。県外移設で差別的政策を終わらせてこそ、『日本人』と『沖縄人』が平等な存在としてともに生きる地平が拓けるのである。」

知らず識らずのうちに植民地主義に貫かれている日本の反戦平和主義を、いかに反植民地主義的反戦平和運動に作りかえていくのか。近代150年の日本を総括する思想的課題である。日本人自身が植民地主義から解放され、沖縄が植民地主義から解放されるために。

***************************:

植民者の手を引っ込めるために
日本の沖縄植民地支配を問い続ける
先住民族の権利から見た尖閣諸島
琉球救国運動--必然としての「抗日」
やまとんちゅ必読! 新しい琉球独立宣言
精神の植民地主義を克服するために
沖縄の自立と平和とは何か


Tuesday, June 23, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(24)部落解放同盟「糾弾」史に学ぶ

小林健治『部落解放同盟「糾弾」史』(ちくま新書、2015年)
部落解放同盟中央本部マスコミ・文化対策部、糾弾闘争本部、解放出版社事務局長を経て、現在にんげん出版代表の著者は、1922年の全国水平社創立大会から今日に至る差別と、差別に対する抗議・糾弾の歴史、反差別闘争史をコンパクトにまとめる。80年代前半の差別事件を「無知によって再生産される差別」、80年代後半の差別事件を「つい、うっかり」にひそむ差別、90年代の差別事件を「想像力の貧困」と特徴づけたうえで、現在の「新時代の差別事件」、ヘイト・スピーチについて「むき出しの悪意にどう立ち向かうか」と課題を提示する。
「差別は犯罪である。ヘイトスピーチは社会的犯罪なのであり、それを規制し、処罰することを目的とした差別禁止法が、もとめられているのである。」
それゆえ、著者はヘイト・スピーチを表現の自由だなどと言うメディアや憲法学者を厳しく批判する。例えば、駒村圭吾(慶応大学教授)は、国際人権法学会のシンポジウムにおいて、「差別表現は話者の品格の問題である」「論議するなら思想の自由市場で行えばよい」などと述べたと言う。これに対して著者は次のように批判する。
「差別の現実をまったく無視する発言であった。ヘイトスピーチが学問の対象ではないのだから、その禁止法を諸外国のように立法化する必要性など、日本の憲法学者が微塵も考えていないことがあきらかになった。『表現の自由』を絶対視し、思考停止する憲法学者の発言に、驚きを通り越して、正直呆れてしまった。」
その通りである。憲法学者の多くは、差別の現実を無視し、ヘイト・スピーチの被害を無視する。それだけではない。憲法学者の多くは、実は「表現の自由」の意味すら理解していない。表現の自由が重要なのは人格権と民主主義に由来するからであり、少数意見を大切にするのが表現の自由の本義である。にもかかわらず、憲法学者の多くは「マイノリティを差別するマジョリティの表現の自由」だけを主張する。目茶苦茶である。日本国憲法21条の表現の自由を正しく解釈するならば「マイノリティの表現の自由の優越的地位」を唱えるべきである。
著者は、ヘイト・スピーチを犯罪とし「言論による暴力」と見る。
「それは『話者の品格』の問題でもなく、『対抗言論』で対処できる性質の暴言ではない。言論の暴走を放置すれば必ず肉体の抹殺(ジェノサイド)に至ることは、内外の歴史が証明しているところだ。」
これも的確な理解である。ヘイト・クライム、ヘイト・スピーチをジェノサイドと結び付けて理解するのは国際的には当たり前のことであるし、師岡康子の岩波新書もそう述べている。しかし、憲法学者はこれも無視する。

人間の尊厳をかけて、差別と闘い、ヘイト・スピーチと闘うことが求められている。本書はこの課題を分かりやすく、コンパクトに打ち出す。重要な1冊だ。

Sunday, June 21, 2015

ヘイト・クライム禁止法(93)ベルギー

ベルギー政府が人種差別撤廃員会第八四会期に提出した報告書(CERD/C/BEL/16-19. 27 May 2013)によると、差別を煽動する団体と闘うことはベルギーにとって優先事項である。
二〇一一年三月九日、ネオナチ組織として知られる「血と名誉のフランドル」の三人のメンバーがヴュルネ刑事裁判所で、三月の刑事施設収容(うち二人については執行猶予付)を言い渡された。
二〇一二年二月一〇日、急進的イスラム運動の「シャリア4ベルギー」のスポークスマンは、非ムスリムに対する憎悪と暴力の煽動で訴追されていたが、アントワープ刑事裁判所で、二年以下の刑事施設収容及び五五〇ユーロの罰金を言い渡された。同年三月三〇日、量刑がやや軽くなったが、有罪が確定した。この団体は欧州にシャリア法を確立しようとし。これまでも同様の活動をして訴追されてきた。非民主的団体の禁止に関する法律案が議会で審議中である。
自由を脅かす政党として懸案事項となってきた「フラームス・ベラング」に関して、国家がフラームス・ベラングに政党助成しないという提案が二〇〇六年五月一七日に議会に提出された。フラームス・ベラングは基本権に対する敵意を表明してきたことで批判されてきた。
フラームス・ベラングの提訴により、憲法裁判所は、助成金否定根拠条項と表現の自由や結社の自由との両立性について予備審査を行った。憲法裁判所は、助成金否定根拠条項は、そこで用いられている「敵意」概念を明らかにして、現行法に違反する煽動を意味するものとだけ理解されるならば、表現の自由や結社の自由に反すると判断されることはないとした。ある意見がまぎれもなく民主主義の主要原則の一つを侵害することを人に煽動するものであるか否かの問題は、その内容と文脈に従って判断される。

議会は、表明された思想が過激で物議を醸すもの、社会の一部の間に敵意をかきたて、不寛容の風潮を促進するものと定義した。その思想が不安を呼び起こすとか、攻撃的であるだけでは、現行法を侵害することを煽動したと判断されない。それゆえフラームス・ベラングは政党助成を受け続けている。(本件については、エリック・ブライシュ『ヘイト・スピーチ』に詳しく紹介されている。)

ヘイト・スピーチ研究文献(23)「ヘイトスピーチは人を壊す」

安田浩一『ヘイトスピーチ』(文春新書、2015年)
『ネットと愛国』以来、各地でヘイト・スピーチ、ヘイト・クライム、ヘイト・デモの現場を追跡してきた著者による新書である。
新大久保にも鶴橋にも出かけてヘイト・デモ参加者たちの実情を調査し、日本の排外主義と差別の悪化を報告してきた著者は、2014年8月、ジュネーヴの国連人権高等弁務官事務所で開かれた人種差別撤廃委員会における日本政府報告書審査の場にも飛んだ。
本書は日本政府報告書審査の様子から始まる。パレ・ウィルソンの会議室からはレマン湖が見える。天気が良ければ、遥か彼方にモンブランも見える会議室で、人種差別撤廃委員は、日本におけるヘイト・スピーチの悪化に警鐘を鳴らしたが、日本政府は事実を否定する。その場に立ち会った著者は、大阪・天王寺から鶴橋へのヘイト・デモの記憶を呼び戻す。
差別を煽り、殺害と排除を唱える愚劣なヘイト・スピーチの罵詈雑言に耐えてきた著者は、しかし、日本人男性であって、本当の「被害」を受けるわけではない。そのことを自覚する著者は、本当の「被害」にさらされる在日朝鮮人との対話を媒介に、ヘイト・スピーチの害悪とは何かを考える。ヘイト・スピーチとは単なる「スピーチ」ではなく「暴力」である。このことを早くから認識し、訴えてきた著者は、ヘイト・スピーチの発信源を探り、差別煽動の実態をていねいに明らかにしている。加害側を追いかけ取材し、その問題点を解明することに力を注いできたが、本書では被害側への取材も重ね合わせることで、分析が深まっている。
最後に著者は述べる。
「敵を発見し、敵を吊るす――。
社会はいま、こうした憎悪と不寛容の回路の中で動いている。
そうした時代とどう向き合っていくべきか。
法規制をしても、言葉を取り締まっても、おそらく人の住む世に差別は残る。
だが、そこで思考停止してしまうことだけは避けたい。
何度でも繰り返す。
ヘイトスピーチは人を壊す。地域を壊す。そして社会を壊す。
生きていくために、私たちはそれと闘っていかなければならないのだと私は強く思う。」

2010年に私が出した本のタイトルは『ヘイト・クライム――憎悪犯罪が日本を壊す』であった。著者と同じ認識である。

Sunday, June 14, 2015

シャルリ・エブド事件は考え抜かれたか(2)

ふらんす特別編集/鹿島茂ほか編『シェルリ・エブド事件を考える』(白水社、2015年)

フランス文学者・作家・翻訳者の鹿島茂、伊達聖伸、堀茂樹の編集により、雑誌『ふらんす』の特別版として出された1冊。3月11日に出ているから、緊急出版だ。編者3人による座談会「シャルリ・エブド事件はフランスの9・11か?」。そして、「わたしはシャルリ、なのか?」には、関口涼子、野崎歓、陣野俊史ら9人の文章。「なぜ、すべてはゆるされるのか?」には、小倉孝誠、野村正人、宮下志朗ら10人の文章。「どのように、テロとたたかうのか?」には、藤本一勇、港千尋、四方田犬彦ら9人の文章。事件後1か月の間に執筆されたであろう28日の文章は、さまざまな情報を提示し、さまざまな視点、観点を登記している。ジェンダー研究、比較文化研究、視覚メディア、政治哲学、フランス現代思想、中東政治、哲学、写真家、映画史。相互に矛盾していたり、かなりばらばらの印象を与えるのはやむを得ないだろう。

文学者が旅するということ

立野正裕『紀行 失われたものの伝説』(彩流社、2014年)

『精神のたたかい』『黄金の枝を求めて』の著者による最新の旅行記である。若き日に出会ったフォースター『インドへの道』以来、英文学者として、近現代の文学と歴史を徹底解析してきた著者は、人はなぜ旅をするのかを問いながら、戦争と平和、非暴力のたたかい、戦争文学の矛盾と輝きを丹念に論じてきた。読者は、ノルマンディへ、イタリアへ、ウクライナへ、トルコへ、知覧へ、そしてドイツへと誘われる。キース・ダグラス、カルロ・レーヴィ、ミハイル・スヴェトロフ、ナーズム・ヒクメット、フランツ・フォン・シュトック、ラファエロ、カート・ヴォネガット。20世紀以後の近現代文学と映画を題材に、虐殺や空爆やテロに満ちた現実世界に文学者がいかに挑むのか。小さいが、重い1冊である。

夜の日輪を見た――江戸戯作vs井上戯作

紀伊國屋サザンシアターでこまつ座公演、東憲司版『戯作者銘々伝』は、井上ひさしの短編小説集『戯作者銘々伝』を、東憲司が戯曲化した。文庫では、井上ひさし『京伝店の草入れ』(講談社文芸文庫)でも読める。
東憲司

戯作者・山東京伝、恋川春町、唐来参和、式亭三馬、太田南畝などが続々と登場する。江戸戯作に井上ひさしが挑んだ初期作品群は井上戯作の誕生地である。山東京伝に北村有起哉、蜀山人と式亭三馬に相島一之、蔦屋重三郎に西岡徳馬、そして女性群を新妻聖子が一人五役。はじまりは、おやっ、いま一つかなと言う印象を持ったが、徐々に舞台に惹きこまれる。途中休憩時にはすっかり取り込まれていた。そして、二部は文庫表題作『京伝店の烟草入れ』だ。小説に感動した読者なら、舞台で、あの「夜の日輪」=江戸の夜空を揺るがす三尺玉を見ることができると考えただけでもゾクゾクとする。クライマックスは予定通り、予想通りにやってきた。若き幸吉と、戯作者を引退していた山東京伝の出会いと共感が、太陽に挑戦する花火という果敢な闘いとなる。その瞬間、舞台は爆発する。江戸戯作と井上戯作の激突である。

Saturday, June 13, 2015

ヘイト・クライム禁止法(92)ヴェネズエラ

 ヴェネズエラ政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/VEN/19-21. 16 January 2013)によると、ヴェネズエラには条約第四条に関連する法律は多数あり、報告書ではそのうち主要なものを紹介する にとどめると言う。一九九九年の憲法第八九条は、政治、年齢、人種、性別、信条又はその他の理由に基づいて差別することを禁止している。 二〇〇九年の教育法は教育の基本原則を定め、すべての市民に差別のない平等を保障する。教育法第一〇条はすべての教育機関・学校に、印刷、映像その他のメディアを通じて出版、広告、宣伝その他の方法で、憎悪、暴力、危険、不寛容を煽動すること、言葉を人間の共存、人権、 先住民族の権利の尊重に有害な形に変形することを煽動することを禁じている。重大な違反行為については制裁が予定され、場合によっては違反した機関の閉鎖・解散も可能である。二〇一〇年のラジオ・テレビ・電子メディア責任法第三条は、人々の間の社会的理解、平和、寛容、平等、友好を発展させる責任を定める。

人種差別法第一条は人種差別を予防、対処、根絶、処罰するためのメカニズムを規定する。第四条は人間の尊厳、 社会正義、参加促進、ジェンダー平等、多文化主義、多民族性、文化交流、多言語主義、連帯、寛容、平等に照らして、原則を定める。第七条 は合法目的の結社の自由を定め、人種差別を促進・煽動する組織を禁止する。人種差別禁止法により反人種差別国家機関が設置され、検事局と オンブズマン事務所が任務を担当する。

Friday, June 12, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(22)『情況』特集

4月11日に開催した『ヘイト・スピーチ法研究序説』出版記念会に参加した編集者の発案で、雑誌特集が実現した。執筆者には急遽依頼をして、GWに原稿を仕上げてもらった。

<特集2>「ヘイトスピーチ研究>『情況』第4期2015年6月号
前田朗「ヘイト・スピーチの憲法論を考える―マイノリティの表現の自由の優越的地位」
金東鶴「国家による差別と社会における差別について――在日朝鮮人に対する差別とヘイト」
神原元「カウンター運動の意義と成果」

明戸隆浩「ヘイト・スピーチにかかわる『議論』の洗練のために」

Saturday, June 06, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(21)「特集マイノリティの声」

「特集マイノリティの声――ストップレイシズム!ストップヘイト・スピーチ!」 『IMADR通信』182号 (2015年)

 3月18日、人種差別撤廃NGOネットワークに連なる人々が、国会議員を招いて院内 集会を開催した。その一部の記録である。

 朝鮮大学校生「朝鮮学校の生徒にも教育権の保障を!」
 宋恵淑「保護者の立場から」
 原田学植「現行法で対処できない在日コリアンへのヘイト・スピーチ」
 西山恵美「結婚差別を乗り越えて」
 阿部ユポ「アイヌ民族の歴史や言語、文化を学ぶ教育を」
 渡名喜守太「日本における琉球民族に対する差別」
 上運天ミゲルヨシオ「在日ブラジル人労働者とその子どもの教育を巡る状況」
 移住女性のためのエンパワーメントセンター「カラカサン」「移住女性に対する暴力」

 師岡康子「提言 直ちに人種差別撤廃基本法整備を」

Tuesday, June 02, 2015

ヘイト・クライム禁止法(91-2)スウェーデン

(91)で、2012年に作成されたスウェーデン政府の報告書を紹介したが、人種差別撤廃条約第四条(a)については前回報告書以後変化はないとされていた。前回報告書(CERD/C/SWE/18. 7 May 2007)を紹介する。
第四条(a)について、国民的民族的集団に対する煽動は刑法第一六章第八節で禁止されている。メディアにおける表現の自由は、憲法、プレス自由法、表現の自由基本法によって特に強く保護されている。国民的民族的集団に対する煽動の犯罪は、憲法で保護されたメディアにおいて処罰される犯罪のリストに含まれる。民族的集団を保護する刑罰規定は、新聞やテレビなど憲法で保護された、メディアで行われた場合にも適用される。
第四条(b)の団体禁止については、二〇〇〇年、議会の委員会は、犯罪活動の従事する組織への加入や支援を犯罪としないことには理由があるとした。世論は議会に賛成した。しかし、人種主義活動に従事する組織は、法に違反することなしにその活動を続けることはできない。その組織の活動は法律によって対処される。組織を通じて行われる人種主義言明の流布は、国民的民族的集団に対する煽動に関する規定によって処罰される。組織内での流布も同様である。
一九九六年、最高裁判決はナチスのシンボルや人種主義的意見の表明を行った国民的民族的集団に対する煽動についての有罪判決によって判例法理が形成された。

組織的に行われた場合を含む、犯罪の共謀、予備、未遂、共犯は、刑法第二三節に従って処断される。犯罪が組織的に行われた場合は刑罰を加重できる。