小林健治『部落解放同盟「糾弾」史』(ちくま新書、2015年)
部落解放同盟中央本部マスコミ・文化対策部、糾弾闘争本部、解放出版社事務局長を経て、現在にんげん出版代表の著者は、1922年の全国水平社創立大会から今日に至る差別と、差別に対する抗議・糾弾の歴史、反差別闘争史をコンパクトにまとめる。80年代前半の差別事件を「無知によって再生産される差別」、80年代後半の差別事件を「つい、うっかり」にひそむ差別、90年代の差別事件を「想像力の貧困」と特徴づけたうえで、現在の「新時代の差別事件」、ヘイト・スピーチについて「むき出しの悪意にどう立ち向かうか」と課題を提示する。
「差別は犯罪である。ヘイトスピーチは社会的犯罪なのであり、それを規制し、処罰することを目的とした差別禁止法が、もとめられているのである。」
それゆえ、著者はヘイト・スピーチを表現の自由だなどと言うメディアや憲法学者を厳しく批判する。例えば、駒村圭吾(慶応大学教授)は、国際人権法学会のシンポジウムにおいて、「差別表現は話者の品格の問題である」「論議するなら思想の自由市場で行えばよい」などと述べたと言う。これに対して著者は次のように批判する。
「差別の現実をまったく無視する発言であった。ヘイトスピーチが学問の対象ではないのだから、その禁止法を諸外国のように立法化する必要性など、日本の憲法学者が微塵も考えていないことがあきらかになった。『表現の自由』を絶対視し、思考停止する憲法学者の発言に、驚きを通り越して、正直呆れてしまった。」
その通りである。憲法学者の多くは、差別の現実を無視し、ヘイト・スピーチの被害を無視する。それだけではない。憲法学者の多くは、実は「表現の自由」の意味すら理解していない。表現の自由が重要なのは人格権と民主主義に由来するからであり、少数意見を大切にするのが表現の自由の本義である。にもかかわらず、憲法学者の多くは「マイノリティを差別するマジョリティの表現の自由」だけを主張する。目茶苦茶である。日本国憲法21条の表現の自由を正しく解釈するならば「マイノリティの表現の自由の優越的地位」を唱えるべきである。
著者は、ヘイト・スピーチを犯罪とし「言論による暴力」と見る。
「それは『話者の品格』の問題でもなく、『対抗言論』で対処できる性質の暴言ではない。言論の暴走を放置すれば必ず肉体の抹殺(ジェノサイド)に至ることは、内外の歴史が証明しているところだ。」
これも的確な理解である。ヘイト・クライム、ヘイト・スピーチをジェノサイドと結び付けて理解するのは国際的には当たり前のことであるし、師岡康子の岩波新書もそう述べている。しかし、憲法学者はこれも無視する。
人間の尊厳をかけて、差別と闘い、ヘイト・スピーチと闘うことが求められている。本書はこの課題を分かりやすく、コンパクトに打ち出す。重要な1冊だ。