Tuesday, September 26, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(110)規制論への批判だが

榎透「ヘイト・スピーチ、ヘイト・クライム規制」『法律時報』89巻9号(2017年)
かねてよりこの問題に多数の論文を公表してきた憲法学者による論稿である。
榎はヘイト・スピーチ等の定義が確定していないことに触れたうえで、「在日コリアンに対するヘイト・スピーチ等を生む要因」として、第1に差別意識・差別感情・偏見、第2に排他的・排外的ナショナリズム、第3に雇用市場の流動化、反グローバリズムをあげる。これらの主要因が作用し、重なり合うので、複雑な事態であることが確認される。
続いて、榎は「国および地方公共団体の対策とその評価」として、司法(京都朝鮮学校事件判決等)、立法(ヘイト・スピーチ解消法)、行政(法務省の取り組み)、地方公共団体(大阪市条例、川崎市人権施策推進協議会提言)の動向を列挙する。これらに直接間接に関わってきた運動家・研究者として、なるほど憲法学者にはこう見えているのか、と納得できる叙述である。
その上で、榎は「評価」として、ヘイト・スピーチ解消法だけでは「限界があると思われる」としつつ、「しかし、だからといって、一部の地方公共団体が推進しているようなヘイト・スピーチ、ヘイト・クライム規制が必ずしもそれらの解消に有効であるとはいえない」とする。インターネット上の差別書き込みを削除しても、また投稿されるだけであるという。公園や市民会館などの公共施設の利用を制限しても、「すぐに別のものが登場するであろう」とし、「ヘイト・スピーチやヘイト・クライムの解消を法的規制で成し遂げるのは困難である」と結論付ける。
問題は上記3つの要因のように、ヘイトが生じる根源を問う必要があるのであって、「適切な差別対策」に加えて、「種々の分断の拡大を抑止」することの重要性が指摘される。
以上の叙述はおおむね正当であろう。ヘイト・スピーチに反対し、なくすことを望んでいることは同じである。違いは差別やヘイトをなくすための手段・方法をどう考えるかである。いくつかコメントしておこう。
第1に、ヘイト・スピーチ規制の必要性とその効果とは別問題である。榎は、ヘイト・スピーチ解消法の「限界」を指摘したり、刑事規制の有効性への疑問を提示して、規制に消極的な姿勢を示す。榎だけではなく、他にも同様の主張をする憲法学者が少なくない。
しかし、規制の有効性だけが基準になるのは理解できない。「規制だけではなくならないから、やる必要がない」という理屈は成立しない。この論理を採用するのなら、「窃盗を処罰してもなくならない。だから・・・」「ストーカーを規制してもなくならない。だから・・・」という理屈を採用するべきであろう。
差別は許されないのだから、差別を止めさせる努力を続けるのが当たり前である。川崎市協議会は、正当にも、その点を強く打ち出している。
第2に、包括的な差別規制の必要性である。
榎が、規制積極派として明示しているのは、師岡康子の『ヘイト・スピーチとは何か』及び私の『ヘイト・スピーチ法研究序説』である。ところが、榎の規制積極派への批判は、師岡や私の見解に向けたものとは言えない。
というのも、榎は「刑事規制だけでヘイトがなくなるわけではない」と主張する。しかし、ヘイト・スピーチ規制積極論者である師岡や私は、刑事規制だけでヘイトがなくなるなどと主張していない。
差別とヘイトは実に深刻な問題であり、人種差別撤廃条約が要請しているように多彩な取り組みによって差別とヘイトなくす努力を積み重ねる必要があり、ヘイト対策には条約2条から7条までのすべての措置が不可欠である。それでも差別とヘイトは容易にはなくならない。だから人種差別禁止法とヘイト・スピーチ規制法が必要である。刑事規制も民事規制も行政指導も教育も啓蒙もすべて必要である。私は一貫してこのように主張してきた。師岡は人種差別撤廃法案の提案をしている。
私は1998年以来、人種差別撤廃委員会に参加し、数十カ国の報告書審査を傍聴してきた。100カ国以上の報告書を紹介してきた。しかし、「**だけでヘイトがなくなる」などという常識外れの主張をする国はない。「**だけでヘイトがなくなるか否か」を基準にして発言する人種差別撤廃委員は一人もいない。
このことを無視して、「刑事規制でヘイトはなくならない」という主張を意味ありげに唱えても、規制積極論に対する批判にはなりえない。私が唱えてきたことを、私に対する批判になっているかのごとく述べる憲法学者がこれだけ多いのは不思議である。大丈夫か?
第3に、比較法に関する理解である。榎は最後に次のように述べる。
「日本においても国家はヘイト・スピーチ、ヘイト・クライム規制に積極的であるべきだという主張そのものは、国際条約やヨーロッパ諸国の対応を踏まえたグローバル・スタンダードに基づくものといえるかもしれない。しかし、法の世界が基本的に国民国家の枠内で存在する以上、その国の基本法である憲法を無視してはならないはずである。ヘイト・スピーチ等規制もその例外ではない。」
この記述もそれ自体としてみれば当たり前のことであり、異論はない。
しかし、この記述が私に対する批判として書かれているのであれば、的外れである。私は「日本国憲法に従ってヘイト・スピーチを刑事規制する。表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを規制する」と唱えている。憲法学者がアメリカその他の状況を持ち出して反論してくるから、欧州をはじめ世界の120カ国以上がヘイト・スピーチ規制をしていると指摘してきた。しかし、諸外国が規制しているから日本でも規制するべきだと唱えているわけではない。被害があり、憲法上の権利が侵害されているから規制すべきなのだ。
同時に、反差別にしても反ヘイトにしても、諸外国の経験に学ぶことは必須不可欠のことである。
また、「法の世界が基本的に国民国家の枠内で存在する」ことに異論はない。
しかし、日本国憲法前文及び98条2項は国際主義を明示しているのであり、日本政府は国際自由権規約及び人種差別撤廃条約を批准し、さらに国連人権理事会で何度も人権擁護と国際的協調の必要性を唱えて人権理事国に立候補してきた。ならば、国際人権法を遵守するべきであろう。人種差別撤廃条約第2条に従って差別をなくす措置を講じることは日本政府の義務である。
以上の点はおそらく榎と私の間の主要な相違点ではないだろう。榎と私の相違点は、民主主義と表現の自由に関する基本的理解の相違であろう。