鈴木道彦『私の1968年』(閏月社、2018年)
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11月にスペースたんぽぽで、1968年の思想を再び解読し直すための講演会が開かれた。講演は鵜飼哲。2018年の無残な日本で、1968年を問い返すことは、いかなる意味を有するのか。いかなる不可能性にさえぎられているのか。そのことを鵜飼は繰り返し語った。その中で鵜飼が本書を紹介したので、今回、読むことにした。
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1968年に中学生だった鵜飼や私の世代は、運動の現場に立ち会ったとはいえない。ほんの数年の違いで、当事者ではありえなかった。事後に書籍で追体験するしかなかった。70年前後の激動の一端をTVニュースで見ていたが、それは非常に矮小化されたニュースでもあった。そこには思想史的に振り返るべき何物もなかった。運動の現場を知らないことは、思想の表層を追体験することしかできないことでもあった。
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それでも、それぞれに理解できること、はある。特に、運動の現場にいた者が本当にその思想的意味を理解・把握していたわけではないこと。このことは、その後数多く出版された著作、回想録、記録集から読み取ることができる。現場は大切だが、現場にいても見えないこと、現場にいるからこそ見落としていることもあるのだろう。現場体験のほんの一断面を絶対化することもあるだろう。
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本書のもとになった、鈴木道彦『アンガージュマンの思想』(晶文社、1969年)は、学生時代に図書館で読んだ。たぶん1975~76年だ。鈴木道彦『政治暴力と想像力』(現代評論社、1970年)は記憶にない。大江健三郎、小田実、鶴見俊輔などをよく読んでいた時期に、その流れの中で『アンガージュマンの思想』を読んだのだが、どれだけ理解し得ていたかはわからない。
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ただ、一つだけ、何よりも重要なこととして鈴木から学んだことが植民地主義批判であったことは間違いない。その後の私の読書体験、市民運動、人権運動、そして刑事法研究を貫く重要モチーフとなったからだ。他方で、高校の先輩に小説家の李恢成がいたことから、大学時代に李の小説やエッセイをかなり読んでいた。大学生となった年に『北であれ南であれわが祖国』が出版されたので、すぐに読んだ。金大中拉致事件の時には日比谷公園での抗議集会の片隅でチラシを懸命に読んでいた。在日朝鮮人に知友のいない状況で、頭の中だけで在日朝鮮人の人権問題を考えていた時期だ。実際に人権運動に取り組むようになったのは1980年代後半からだ。植民地主義批判を自分の頭で考えるようになったのもそれ以後のことだが、ともあれ鈴木道彦や小田実をはじめとする一連の思索には触れていた。
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1929年生れの鈴木は全共闘世代ではなく、大学の教員、知識人の一人として時代に向き合っていた。羽田闘争、ベ平連、金嬉老事件を経験し、パリに渡るや五月革命に遭遇する。東京とパリをつなぐ思想的課題の中心に植民地主義批判があった。ベトナム、アルジェリア、朝鮮をベースに歴史と社会を捉え返すならば、東京という町で日本の若者がいかに生きるべきかも違って見えたことだろう。
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鈴木の著作を読んでいなければ、その後の1968年に関する凡百の回想記(実際は1968年否定の思想)を真に受けていたかもしれない。多くの回想記が植民地主義問題を見事に見失っていることは言うまでもない。そうした落第レポートの集大成がベストセラーになってしまうのがこの国だ。だが今回、本書を読むことで、植民地主義批判、人種主義批判の課題に日本の知識人がいかに取り組んでいたかを再認識することができた。
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日本の良質な思想家の中にも、植民地主義問題では認識の思索の甘さを露呈する例が少なくない。鶴見俊輔や花崎皋平がその例だ。大日本帝国と現在の日本の近現代史を総合的に把握するためには避けて通れないはずの問題を素通りしてきた知識人も少なくない。50年とは長い歳月であり、短い歳月である。1968年から2018年にかけて、私たちはどれだけの前進をなしえたのか。それとも、どれだけの思想的頽廃に塗れることになってしまったのか。