Wednesday, December 19, 2018

目取真俊の世界(12)歴史・記憶・物語


スーザン・ブーテレイ『目取真俊の世界(オキナワ)――歴史・記憶・物語』(影書房、2011年)


「歴史・記憶・物語」というのは危険な言葉の連なりである。論壇でも文壇でも、この言葉群は表向きは歴史に向き合う姿勢を見せながら、実は歴史を圧殺するために用いられてきた。主要な系譜は2つある。第1は、「国民の歴史」を物語として構築する系譜であり、歴史改竄主義者の語りである。第2は、これよりも一見すると洗練された体裁をとっているが、生きられた歴史の中から記憶や証言を取り上げながら、研究者やマジョリティの欲望の中に回収していく特権的語りである。日本的な自称「フェミニズム」にその典型がみられる。いずれも「記憶の暗殺者」の領分だ。
本書はこうした2つの系譜とは異なる地点で、歴史・記憶・物語に新鮮な光を当てる。著者はニュージーランド国立カンタベリー大学文化原語学部(出版当時)とのことだが、大学院時代以来何度も日本に留学、滞在してきた研究者である。


第一章 目取真俊の世界

第二章 「水滴」論

第三章 「風音」論

第四章 「魂込め」論

結論


本書は目取真の初期の代表作3作品を取り上げて、沖縄戦を中核とする沖縄近現代史を背景とし、沖縄近現代史を読み替え、そして沖縄近現代史を生きる「文学」の闘いを、ともに一緒に「闘う」。はげしい叫び声の中から、かすかな悲鳴の中から、かすんだ涙の向こうから、ひびわれそうな脳漿の彼方から、文学の精髄をつかみ出し、自らの言葉で語りなおす。


「以上、作家目取真俊は、自らの作品に通底するテーマとして、沖縄戦を取り上げながら、沖縄戦をめぐる従来のディスクールに大いなる疑問を提出し、琉球支配から始まり植民地化、戦争、戦後処理、米軍支配、日本への『返還』、そして現在に至るまでの日本と沖縄をめぐる歪んだ政治的・経済的関係性、及びそのような不均等かつ抑圧的関係に甘んぜざるを得ない沖縄人への批判も含め、沖縄の過去と現在を捉え直そうとする試みをしており、その意図が語りの特徴にも現れていることを述べてきた。」

このまとめの一節はだれにでも書けそうな文章かもしれないが、ここに集約される分析はだれにもかけない。著者は、3作品の徹底分析を通じて、この地点にたどり着いた。著者は目取真の3つの「解体手法」を提示する。

第1は、天皇のために命を捧げ、勇猛果敢に戦って死んだという兵士像および類型化した叙述の解体である。

第2は、戦争に巻き込まれ甚大な被害を受けたにもかかわらず、英雄または被害者として描かれる男性を中心とした戦争の集合的な記憶から排除されている民間人――特に老幼婦女子といわれる人々――の個別独自の戦争体験を焦点化することによる解体である。

第3は、常にタブー視され隠蔽されてきた事実、物事を暴露する中から行われる解体である。これは米軍兵のみならず日本兵による強姦や性奴隷といった女性への暴力などを含んでいる。

何のためか。それは次のように指摘される。「これらの戦争神話の解体を通して、集合的記憶から忘却され欠落させられているものを呼び覚まし、とてつもない暴力としての戦争を全体像として浮かび上がらせるという試みが実践されているのである。そして、自らの戦争体験を語ることができない死者および生き残りに<声>が与えられると同時に、読者はその記憶を『読む(聞く)』ことを通じて、沖縄戦の一部を経験し、同時に証言の場に立ち合うことになる。」

ここで著者は、死者の沈黙への応答について語る。それは不可能なことである。不可能なことを可能とする文学の手法が、「非現実的・幻想的要素の取り込み」であり、読者に疑似的体験をさせることであり、「断片的なイメージや言葉の連鎖」である。時には、語らないことによる語り、である。

目取真俊とスーザン・ブーテレイ――2つの魂が、文学が衝突し、スパークし、鮮やかな流星群の散乱を見せる。ここから光の速度で飛び散った痛みや、悲しみや、激情や、思索はどこをどのように飛んで帰ってくるだろうか。


著者は、その後の目取真の代表作をどのように読んでいるのだろうか。知りたいものだ。たぶん、論文は書かれていて、私が読んでいないだけなのだろうが、入手しやすい1冊にまとめてほしいものだ。