暉峻僚三「憲法理念からのネイション意識の再構築」『平和研究』第50号(日本平和学会、2018年)
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暉峻は「憲法の理念とレイシズムの現状」について「現行憲法の内包するレイシズムとの親和性」を語る。
第1に、天皇制である。1946年の「人間宣言」の解読を通じて「天皇制そののもがレイシズムと親和性を持っている」と指摘する。
第2に、「国民」である。国会前で首相退陣を求めるシュプレヒコールが「国民なめるな」であることに注意を喚起し、護憲運動も「国民」以外の存在を排除していないかを問う。
以上の2点に加えて、さらに重要なのは「レイシズムに寛容な社会」である。一例として、石原慎太郎・元都知事が、レイシズムに基づいて差別発言を繰り返したにもかかわらず、毎回の選挙で圧倒的に勝利したことは、有権者がレイシズムに寛容であることを確認する。
暉峻は次のように述べる。
「想像上の血統に繋がりを求めるエスノセントリズムが、しっかりと日本社会に根づいているのに比べると、民主主義社会の主役としての日本の市民意識=ネイションの意識は、レイシズムを放置する現状を鑑みて、根づいているとは到底いえないだろう。」
「個の最大限の尊重をベースとし、人権、民主主義、平和主義という理念を共有する、日本の領域に暮らす人民という『我々意識』が社会に定着すれば、レイシズムに限らず、現在日本社会の平和を脅かしている様々な問題と決別するための土台を築くことにもなる。例えば、ヘイトスピーチなどの憎悪扇動・表現は、個を最大限に尊重するネイション意識とは相容れないし、沖縄の基地問題や原発も、領域に暮らす個々が同じように最大限、個として尊重されてこその『我々』というネイションの意識のもとでは、しわ寄せがいく『彼ら』の問題ではなくなる。」
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暉峻の着想は私と全く同じと言ってよい。私も、日本国憲法における領土、国民、主権、それゆえ天皇と国民の関係性の中にレイシズムを確認し、日本国憲法におけるレイシズムを克服する方向で考えるか、レイシズムを助長する方向で考えるかを論じたことがある。
前田朗「日本国憲法とレイシズム」『部落解放』744~746号(2017年)
また、私たち、日本で生まれ生きている多くの人々は無自覚の内に植民地主義者になると論じてきた。日本国憲法の下で戦後民主主義を生きてきた私たちは、残念ながら、植民地主義者になる危険性が極めて高いので、植民地主義者でありたくないならば、懸命に努力する必要がある。
前田朗「私たちはなぜ植民地主義者になったのか」木村朗・前田朗編『ヘイト・クライムと植民地主義』(三一書房、2018年)
暉峻が述べることも同じことであり、的確である。
暉峻は「ヘイトスピーチなどの憎悪扇動・表現は、個を最大限に尊重するネイション意識とは相容れない」という。私も同感である。
ところが、憲法学者は全く逆のことを言う。「ヘイト・スピーチを処罰することは、個人の尊重という憲法の基本原則に対する挑戦だ」と言って、ヘイト・スピーチの処罰に猛烈に反対する。
個人主義が何であるのかさえ、憲法学者は理解していない。暉峻論文は非常に重要である。