Thursday, January 31, 2019

ヘイト・クライム禁止法(148)ベラルーシ


ベラルーシが人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/BLR/20-23. 29 July 2016

行政犯罪法及び刑法は、人種、民族又は宗教的敵意又は不和に基づいて行われた行為についての責任を規定してる。

行政犯罪法第九条二二項によると、言語を理由とした、公然たる中傷、公用語その他の言語の否認、その使用の妨害や制約、憎悪の扇動は行政犯罪とされている。行政犯罪法第七条三項(1)(6)によると、人種、民族又は宗教的憎悪を動機とする行政犯罪は刑罰加重事由となる。刑法第六四条(1)(9)によると、人種、民族又は宗教的憎悪又は不和、政治的イデオロギー的憎悪、ある社会的集団に向けられた憎悪又は敵意に基づく犯罪は刑罰加重事由となる。

刑法第一九○条によると、憲法上の人権及び市民権に対する犯罪は刑事責任を問われる。ジェンダー、人種、民族、信仰又は任意団体の構成員であることに基づく、権利と自由の故意による直接又は間接の侵害又は制限は責任を問われる。

刑法第一三○条は人種、民族又は宗教的憎悪又は敵意を犯罪とし、刑法第一二七条はジェノサイド、刑法第一二八条は人類の安全に対する犯罪、第一三九条二項(14)は憎悪又は敵意に基づく殺人、刑法第一四七条は故意による重大な身体障害について、社会集団に向けられた憎悪又は敵意に基づく犯罪の責任を定める。

二○一五年一月五日の刑法等改正により、刑法第一二八条及び第一三○条は、人種差別事件に関する責任を強化した。

二○一○~一五年、刑法第一二七条、第一二八条、第一三九条二項(14)第一四七条についての有罪判決はない。二○一四年、裁判所は、刑法第一三○条一項の社会的危険行為(人種、民族又は宗教的憎悪又は敵意)を行ったある精神能力限定者の処遇を命じた。二○一五年、一人の人物が刑法第一三○条一項の罪で有罪を言い渡された。

人種差別撤廃委員会の勧告(CERD/C/BLR/CO/20-23. 21 December 2017

二○一○~一五年、人種、民族又は宗教的憎悪等の暴力犯罪について有罪判決がないことに関心を有する。メディアにおけるヘイト・スピーチ事案があるとの報告もあるので、一般的勧告第三五号に沿ってヘイト・スピーチを犯罪とする包括的立法がなされていないことを残念に思う。政府の説明にもかかわらず、犯罪が人種的憎悪の動機によるものか否かを警察、検察官、裁判官が吟味していないことに関心を有する。一般的勧告第七号及び第三五号を想起し、人種主義ヘイト・スピーチを犯罪化する包括的立法を行うこと。人種的動機を刑罰加重事由として考慮すること。警察、検察、裁判官等の法執行官に、ヘイト・クライムやヘイト・スピーチの確認、登録、捜査、訴追の適切な方法を訓練するプログラムを開発すること。次回報告書において、人種的ヘイト・スピーチに事件に関する捜査、訴追判決、制裁、被害者救済についての統計を報告すること。

ヘイト・スピーチ研究文献(123)内容規制と予防規制


斉藤拓実「日本におけるヘイトスピーチ――法的対応とこれからの課題」憲法理論研究会編『岐路に立つ立憲主義』(敬文堂、2018年)


斉藤は「どのように規制すべきか」という点に焦点を当てて、第1に定義について、「規制しようという実際上の対応に、規制のもつ特徴を求め」、第2に「刑事規制以外の手段を中心的な対象」とする。「刑事規制を敢えて迂回した手段のうちに、規制の諸特徴を読み取ることができる」という。

斉藤は、京都朝鮮学校事件を素材に民事救済を論じて、「ヘイトスピーチに対する民事救済の背後に制裁的・予防的規制への期待がある」という。

次に行政による対応として大阪市条例と川崎市ガイドラインを見て、「地方自治体によるヘイトスピーチをめぐる一連の動きの中に伺うことのできるのは、ヘイトスピーチ規制が内容規制であるとともに予防規制となるということである」とまとめる。

さらにインターネット規制について、アメリカ法を検討しつつ、規制内容の決定要因を探る。

斉藤は結論として次のように述べる。

「以上みてきた通り、ヘイトスピーチ規制は本質的に内容規制、予防規制であることを志向する。そのような性格を、近年の日本におけるヘイトスピーチへの対応の展開、裁判所による民事救済や、地方公共団体による条例の新設・運用の中に読み取ってきた。」(207頁)

「意見交換のための場としては、サイバースペース、とりわけソーシャル・メディアの存在感が増している。しかしその設置・管理主体が私人であることにより、憲法上の要請がバイパスされるという構造的問題を孕んでいる。それゆえヘイトスピーチと表現の自由の確保についての実質的な検討を行っていくことが、ここでより先鋭に問われることになる。」(207頁)。

斉藤には、論文「『自由』と『尊厳』の狭間のHate Speech規制」『中央大学大学院研究年報法学研究科篇』45号(2016年)があるという。


第1に、事後救済である京都朝鮮学校事件・民事訴訟判決について、斉藤は「ヘイトスピーチに対する民事救済の背後に制裁的・予防的規制への期待がある」と断定するが、その理由がよくわからない。「背後に期待がある」というのは、ほとんど論証の外にある話にすぎないだろう。

また、斉藤は「以上みてきた通り、ヘイトスピーチ規制は本質的に内容規制、予防規制であることを志向する」と言うが、「志向する」という表現はかなり多義的ではないだろうか。「規制は志向する」という言葉は何を意味しているのか。「背後に期待がある」ことと「本質的に志向する」ことが同義とされているのはなぜか。

第2に、斉藤が「地方自治体によるヘイトスピーチをめぐる一連の動きの中に伺うことのできるのは、ヘイトスピーチ規制が内容規制であるとともに予防規制となるということである」と指摘するのは、なるほどその通りだが、「内容規制」「予防規制」とは何かを斉藤は示していない。「内容規制」については、従来の憲法学説が「内容価値中立論」を唱えてきたことを大前提として、内容規制は許されないのではないかという趣旨であろう。

しかし、「内容価値中立論」が日本国憲法に内在した理論だという論証がなされたことがあるだろうか。むしろ、日本国憲法の立場と相容れないのではないか。同業者組合がつくりだしたサブ・ルールを日本国憲法よりも上位に置く議論になっていないだろうか。この点は私にとっても今後の検討課題である。

第3に、「予防規制」について、斉藤は「ヘイトスピーチ規制が予防規制となるということである」とするが、いささか単純化しすぎではないか。私は川崎事件について事前規制ではないと主張してきた(その論文を『ヘイト・スピーチ法研究原論』第5章に収録した)。私とは立論が異なるが、上田健介は「反復的に行われた言動の将来に向けての差し止めがそもそも事前抑制にあたるのかも検討する必要がある」としている。山邨俊英の『広島法学』所収論文もこの点の検討をしている。斉藤はこの点をどう見るのだろうか。

Tuesday, January 29, 2019

ヘイト・スピーチ研究文献(122)困った引き写し論文


小笠原美喜「米英独仏におけるヘイトスピーチ規制」『レファレンス』784号(2016年)


2016年5月、国会でヘイト・スピーチ解消法の審議が行われたときに、国立国会図書館作成の論文が国会議員に配布されたことを耳にした。当時、手にすることができなかったが、今頃になって入手した。一読、驚き呆れる低レベル論文だ。


小笠原は「ヘイトスピーチの法的規制をめぐって」、どう対処すべきかと問い、日本における議論を整理する。その上で、米英独仏の規制状況を紹介する。

小笠原は、①法規制に積極的な立場として、師岡康子、金尚均、前田朗をあげ、②法規制が許容される余地があり得るとする立場として、奈須祐治、櫻庭総をあげ、③それ以外の立場として規制消極説があるが、2013年以降の論文にはそれほど見当たらないとしつつ、小谷順子、毛利透だけをあげる。小笠原は、規制消極論の中でもほとんど規制否定論というべき阪口正二郎、榎透、駒村圭吾、市川正人の名をあげない。いずれも著名な憲法学者であるのに、彼らを省略して、上記のような議論をするのは不適切だろう。


小笠原は「規制積極説の中には、欧州諸国を始め世界の多くの国でヘイトスピーチが法的に規制されていることを理由に、日本も世界的な潮流に倣うべきであるとする意見がある」として、前田朗を名指しする。これに続いて、「しかし、一口に欧州諸国と言っても、国によって規制の在り方も、法制定に至った経緯も異なる。本稿では、欧州諸国のうち、イギリス、ドイツ、フランスの主要3カ国を取り上げ、各国においてヘイトスピーチ規制として機能していると考えられる主要な法律を紹介する」(33頁)という。

第1に、私は「欧州諸国を始め世界の多くの国でヘイトスピーチが法的に規制していることを理由に、日本も世界的な潮流に倣うべきである」と主張していない。私の主張は『ヘイト・クライム』『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』『ヘイト・スピーチ法研究序説』『ヘイト・スピーチ法研究原論』で何度も繰り返したとおり、次のような組み立てである。

1)被害が重大だからヘイト・スピーチを規制すべきである。

2)日本国憲法に従って、表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを規制すべきである。

3)ヘイト・スピーチ規制は国際人権法の要請である。

そして、国際人権法について次の点を指摘してきた。

1)自由権規約も人種差別撤廃条約もヘイト規制を要請している。

2)人種差別撤廃委員会は日本にヘイト規制を勧告した。

3)人種差別撤廃委員会一般的勧告35やラバト行動計画が作成されたので参考にすべきである。

4)国際人権の実行例として、世界の百数十カ国がヘイト規制をしている。

以上の流れの中で、『序説』では120カ国以上、『原論』では70カ国以上の立法例を紹介してきた。

第2に、小笠原は私の名前を挙げた後に、「しかし、一口に欧州諸国と言っても、国によって規制の在り方も、法制定に至った経緯も異なる」と主張する。これでは、私が「欧州諸国では、規制の在り方も、法制定に至った経緯も同じである」と主張していることになる。そうでなければ、「しかし」の意味がない。言うまでもないことだが、私は欧州諸国で「規制の在り方も、法制定に至った経緯も異なる」ことを前提として、多数の諸国の状況を紹介してきた。

第3に、ここが一番重要なのだが、小笠原は欧州諸国と言いながらイギリス、ドイツ、フランスだけを取り上げる。理由は示されていない。私が強く批判してきたのは、こういう「比較法研究」である。一部の国を取り上げて、あたかもそれが欧州であるとか、世界であるかのように描く従来の研究を私は批判してきた。偶然得られた情報を紹介しただけで、いきなりそれを一般化する研究を私は批判してきた。小笠原論文はその典型例である。だから、私は百数十カ国の状況を延々としつこく紹介しているのだ。

そのくせ、小笠原論文には新知見がない。イギリスについては師岡康子、奈那祐治、ドイツについては金尚均、櫻庭総、フランスについては成嶋隆、光信一宏らの先行研究がある。小笠原はこれら先行研究をまとめ直しただけだ。イギリス、ドイツ、フランスの事情は異なると言うが、その前提としてEU議会がヘイト・スピーチ規制方針を打ち出しているが故に欧州諸国でヘイト規制が行われている事実をきちんと位置づけていない。


小笠原は論文の最後に次のように述べる。

「最後に、欧州諸国ではヘイトスピーチ規制と並んで問題となる、いわゆる『アウシュヴィッツの嘘』に代表されるホロコースト否定表現の規制に言及しておく。ドイツ及びフランスはこのタイプの表現を明文で禁止しているが、歴史的事実に関する言論を処罰することに関しては、ヘイトスピーチの規制に積極的である両国においてさえも、表現の自由の侵害であり違憲ではないかとの批判がある。」(42頁)

なるほど、小笠原の指摘は事実である。しかし、小笠原論文はきわめてミスリーディングであり、ほとんど詐欺と言うしかない。

第1に、ドイツ及びフランスについては、「アウシュヴィッツの嘘」規制法制定時に、表現の自由に反するのではないかとの主張があった。しかしそれはごく少数説にとどまり、立法が実現した。さらに重要なのは、ドイツもフランスも、その後、法改正を行って規制を強化したことである。小笠原はこの事実を隠したまま、「ヘイトスピーチの規制に積極的である両国においてさえも、表現の自由の侵害であり違憲ではないかとの批判がある」と結論づける。

第2に、小笠原はドイツとフランスだけを取り上げて、そこから無理矢理結論を引き出している。しかし、「アウシュヴィッツの嘘」処罰法は多数ある。私の『序説』ではドイツ、フランス、スイス、リヒテンシュタイン、スペイン、ポルトガル、スロヴァキア、マケドニア、ルーマニア、アルバニアを紹介した(前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』第10章第5節参照)。欧州以外にイスラエル、ロシアや、アフリカのジブチにもある。

欧州については、ボローニャ大学ロースクール上級研究員のエマヌエラ・フロンツァの著書『記憶と処罰――歴史否定主義、自由な言論、刑法の限界』(スプリンガー出版、2018年)によると、同様に歴史否定(歴史否定主義)を規制する法律は、オーストリア、ベルギー、ブルガリア、クロアチア、キプロス、チェコ、ギリシア、ハンガリー、イタリア、ラトヴィア、リトアニア、ルクセンブルク、マルタ、ポーランド、スロヴェニアにもあるという(フロンツァの著書については、救援連絡センターの機関紙『救援』1月号から紹介を始めた)。小笠原はこうした事実を隠蔽して、ドイツとフランスに消極説もあることだけを肥大化させる。木も見ず森も見ず、一枚の木の葉だけを見ている。

以上、小笠原論文は、その内容が単なる引き写しである上、小笠原個人の見解として打ち出されている部分は、ほとんど詐欺と言うべき珍論にすぎない。


こういう低レベルな論文が、国立国会図書館の調査研究として執筆され、その正規の機関誌である『レファレンス』に掲載され、ヘイト・スピーチ解消法制定過程において国会議員に配布されたというのだから、呆れて物が言えない。不勉強な国会議員をだます目的で書いたのだろうか。研究倫理のかけらもないお粗末ぶりだ。

Monday, January 28, 2019

ヘイト・スピーチ研究文献(121)


桧垣伸次「ヘイト・スピーチ規制と日本国憲法」『リベラシオン』172号(2

018年)


『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察』(法律文化社、2017年)の著者による講演記録である。

差別や排斥を煽動するヘイト・スピーチについて規制の必要性が唱えられているが、憲法においては、表現の自由の保障が強く求められるので「多くの論者はヘイト・スピーチ規制には批判的である」としたうえで、ヨーロッパとアメリカの対処の相違を紹介し、脅迫罪や侮辱罪についても確認したうえで、日本におけるヘイト・スピーチ解消法の問題点を検討する。本邦外・適法居住要件への疑問、排除の煽動の限定性、そして罰則のないことを指摘する。

著者は「今後の課題」として、「仮に罰則を設けるとすると、表現の自由を不当に侵害しないかが問題となる」ので、「日本で何がヘイト・スピーチにあたるかを考えるにあたっては、日本の差別に関する歴史的・社会的背景を検討しなければならない」という。また、概念の多義性が指摘されているので、「一括りに考えるのではなく、害悪ごとに類型化し、それぞれ規制可能性を探る必要性がある」という。さらに、「規制が憲法上可能か否かという問題と、規制の政策的適否は別の問題である」ので、法の効果や影響も慎重に考慮する必要があるという。


Friday, January 25, 2019

ヘイト・スピーチ研究文献(120)#ネトウヨサイト裸祭り


『月刊Human Rights370号(2019年)

特集 インターネットと部落差別

「ある会社員と反ヘイトスピーチの闘い――ヘイトまとめサイト「保守速報」の出来事を中心に」金正則


2018年6月、企業が差別的なサイトから広告を撤退する動きが強まっている。その発端にかかわった著者による報告。

国内最大のヘイトまとめサイト「保守速報」に、飲料、ビール、銀行、車など著名な企業の広告が掲載されていたことに驚いた著者は、まずエプソンのホームページの問合せコーナーにCSR(企業の社会的責任)の窓口があったので、問合せメールを送った。すると同社の担当部署から「広告掲出は、停止の措置をとりました」との返事が来た。そこでツイッターで「すごいぞ」とほめた。このことに多くの反応が出た。エプソンへの称賛ツイートである。

これに続いて、ネトウヨサイトから企業広告を除去していく「#ネトウヨサイト裸祭り」が始まった。実際にどのような規模、効果であったかは不明だが、相当数の人々が動いて、ヘイトサイトの広告をはがしていった。

著者はこれからの課題を整理する。

日本最大のツイッターのヘイト放置のひどさ。

公的機関、公的企業のヘイトメディア認識の希薄さ

広告業界の責任、例えば公益社団法人、日本アドバタイザーズ協会、日本広告業界

国の対処の不十分さ

脱法ヘイト(ソフト・ヘイト)の増加

被害個人の救済


ヘイト・スピーチ研究文献(119)インターネット上の部落差別


『月刊Human Rights370号(2019年)

特集 インターネットと部落差別

「ネット時代の部落差別――その実態と必要な対策とは 「荻上チキ・Session-22」より」

「インターネット上の部落差別を解決するために」松村元樹


松村論文22頁掲載の「インターネット上の差別への対抗図」(柴原浩嗣さん作成)は、差別を「情報発信・ネットワーク」「防止・規制」「実態把握・削除」「教育・啓発」の四つの側面から考察し、実践に活用できるように工夫されている。そのうえで、松村論文は次のような構成。

課題克服のための政策

(1)  差別行為を規制する法律を求める

(2)  ネット上野部落差別をモニタリングする組織の拡充

(3)  AIなどの技術を活用した対策

(4)  ネット上野差別行為の規制や解決に向けた事業者の取り組み

(5)  反差別・人権意識の醸成を図る教育・啓発の充実

(6)  ネットを使った部落差別解決のための情報発信

(7)  相談体制等の充実


「ネット上の部落差別に関するモニタリングの取り組みについては、多少の前後はあるが、二〇〇〇年頃から個人や組織が取り組みをスタートさせている。取り組みの基本形態は、定期または随時で、ネット上で部落差別が行われるサイトをモニタリング、発見した差別投稿を保存し、どのような差別に該当するかを分類した上で件数をカウントしている。発見方法としては、例えば、『部落、同和、エタ、穢多、ヒニン、非人』などのワードを用いて、GoogleYahooなどの検索エンジンや各サイト内(例えば、5ちゃんねる掲示板、Yahoo!ニュースへのコメント、Yahoo!知恵袋、爆サイ、YouTube、ツイッター等)での検索を行い、事例を把握、収集している。削除要請や依頼、通報については、民間組織や個人は独自に、行政機関であれば法務局を通じて削除要請を行っていることが多い。」

「バナー広告やアフィリエイト広告を、差別を助長・誘発・扇動するようなサイトから撤退させていく取り組みも必要となる。大手企業が自覚なしに差別を助長・扇動するサイトに広告を出していたが、一人の要請によって大手企業は広告を撤退し、大手アフィリエイト企業も撤退することになった・企業にはCSRが求められ、コンプライアンスを遵守することが求められている。認識しているかどうかは関係なく、結果として差別を容認し、加担していることは問題であり、その事実を企業や団体に申し入れる取り組みも求められる。」


Thursday, January 10, 2019

ヘイト・クライム禁止法(148)オーストラリア


オーストラリア政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/AUS/18-20. 15 March 206)によると、委員会はオーストラリアに条約第四条(a)の留保撤回を勧告したが、留保撤回の意思はないとしている。連邦レベルでは、一九七五年の人種差別法が人種憎悪の民事規制をしている。オーストラリア人権委員会には人種差別被害申立てを調停する権限がある。調停が不備に終わった場合、連邦裁判所における法手続きを開始することができる。人権委員会には、人種差別被害申立人のジェンダーや宗教を公表する権限はない。人権委員会の年次報告書によると、二〇一三~一四年、申立件数は二、二に三件であり、うち三八〇件が人種差別法に基づく。七一%で調停が成立した。

一九九五年の刑法典のもとで、人種、宗教、国籍、国民的又は民族的出身、政治的意見によって識別される集団に対する暴力を促すことは犯罪である。二〇一〇年、人種、宗教、国籍、国民的又は民族的出身、又は政治的意見に基づいて、集団又は集団構成員に対して実力又は暴力を行使することを促すことを犯罪化した。北部領域以外のすべての州および領域が人種憎悪を刑事又は民事規制する規定を設けている。

クイーンズランド州では、二〇〇一年以来、一九九一年の反差別法に、重大な人 種中傷の犯罪を導入している。同法一三一条Aは、公然たる行為によって、人種又は宗教に基づいて人又は集団に憎悪を煽動し、重大な侮辱をし、重大な嘲笑をしてはならないとしている。それには人または財産に対する物理的な害悪の脅迫、その煽動が含まれる。最高刑は七、九六九.五〇ドルの罰金、又は六月以下の刑事施設収容である。ただし、実際の訴追例はない。

人種差別撤廃委員会はオーストラリア政府に次のように勧告した(CERD/C/AUS/CO/18-20. 26 December 2017)。条約第四条(a)の留保は人種憎悪の制裁や被害者の救済に悪影響を与えている。条約第四条(a)の留保を撤回すること。人種主義と闘う措置を効果的に履行し、グラスルーツの組織や代表と連携すること。反レイシズム国家戦略のような措置を講じること。一般的勧告第三五号を想起して、「多文化オーストラリア――連合、強化、成功」政策の反テロ及び国家安全保障条項を見直し、アラブ人やムスリムを標的とした法執行官による民族・人種プロファイリングを禁止すること。人種主義ヘイト・スピーチや排外主義的政治発言と闘う措置を強化し、ヘイト・スピーチを公的に否定し、非難すること。一九ナナ五年の人種差別法第一八条のような反差別条項を実効的にすること。印刷物や電子メディアにおける人種主義ヘイト・スピーチを終わらせること。公衆、公務員及び法執行官に文化的多様性と民族相互理解を啓発すること。現代人種主義に関する特別報告者の勧告を検討し、履行すること。


Wednesday, January 09, 2019

ヘイト・スピーチ研究文献(118)東京都条例批判


足立昌勝「東京都五輪『人権』条例を法的に批判する」『紙の爆弾』2019年2月号


2018年10月5日に東京都議会本会議で可決された「東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例」(2019年4月1日施行予定)を検討している。

第1に、足立は、東京都の説明で主に取り上げられているのが「性的志向」だけという実態を指摘し、「オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例」と言えるのかと疑問を呈する。オリンピック憲章では、人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的又はその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、とされている。東京都条例は、これらの列挙を排除して、「多様な性の理解の推進」を一つの柱とし、二つ目の柱がヘイト・スピーチとなっている。

第2に、ヘイト・スピーチに関連して、足立は、東京都条例第3章第9条2号の定義規定が「不当な差別的言動」としているが、その定義はヘイト・スピーチ解消推進法にゆだねられているうえ、法律の審議については「この法案の審議はほとんど行われず、在日の人たちに対する差別がなくなるのであれば良しとする風潮の中で成立したものであり、概念的には多くの問題を含んでいる」として、特に「本邦外出身者」の問題を指摘する。「本邦」の範囲は全く不明確であり、これが法律に明記されることなど、法律家にとっては驚愕するしかないからである。また、アイヌ、沖縄等の問題が抜け、「平等主義が欠落」している。「インターネットによる方法」「公の施設において不当な差別的言動」「都民等」など、非常に不明確な概念が多用されていると批判する。

第3に、足立は、条例制定過程に疑問を呈する。東京都人権部長によると、14名の専門家の意見を聴取したとされているが、「ここには、ヘイト研究の専門家が誰一人として呼ばれていないことに注意する必要がある。都は、聴取にあたり専門家が発言した内容を、総括的ではなく個別的に開示し、条例作成の経緯を明らかにすべきである」という。足立は、大阪市条例や、国立市人権基本条例にも言及し、国立市条例のほうがオリンピック憲章に合致していると見る。


東京都条例制定時、私は最も多忙な時期で、残念ながらほとんどフォローできなかった。「ヘイト研究の専門家」で、きちんとフォローしていた人物もいたが、都には呼ばれなかったのだろうか。


概念の不明確さは足立が指摘する通りである。本邦外出身者のように、法制定に賛成の側からも反対の側からも批判の出た例が少なくないと思う。私も法律についてはいくつかの批判をしてきた。条例制定の際に法律を前提とするのはそれなりに合理性があるので、東京都条例の場合、やむを得ないともいえる。都議会がきっちり調査・検討して、独自の概念を採用することもできるはずだが、それには相当の時間と力量を要する。おおもとの法律の不備である。

「インターネットによる方法」については、たしかに概念定義が困難であるが、国際的には多くの前例があるので、これに学んでいけば運用は可能だろう。「公の施設において不当な差別的言動」も不明確だが、国の指針、弁護士会意見書、川崎市のガイドラインなど解釈・運用のための提言はいくつも出ている。「本邦」「都民等」の不明確さは、法制定や条例制定の拙速主義と言う面もあるかもしれないが、法律も都条例も刑罰規定を含まず、理念を掲げるものに過ぎないから、現状としてはこんなものかな、というのが私見である。

「インターネットによる方法」「公の施設において不当な差別的言動」については、内外の法規範や運用実態の調査をさらに徹底して進める必要がある。

Monday, January 07, 2019

愉快な希望のアナキズム


栗原康『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』(岩波新書)


『はたらかないで、たらふく食べたい』『大杉栄伝』『村に火をつけ、白痴になれ』の著者の最新刊。これまでの著書で繰り返してきたアナキズムの主張を手際よくまとめた入門書である。いつもの栗原節が炸裂する。暴走する。

「自然とは暴動である」「ファック・ザ・ワールド」「やられなくてもやりかえせ」「われわれは圧倒的にまちがえる」「あらゆる相互扶助は犯罪である」。

正しさをぶち壊し、あらゆる支配を拒否し、自由の名による自由の抑圧に抗し、アナーキーな精神を歌い、叫び、笑い、理論武装し、実践する。生きる。とにかくおもしろい。笑える。柱はしっかりしているから、筋を間違えることなく一直線。

制度としてのアナキズムではなく、生き様としてのアナキズムに焦点を当てているので、パリ・コミューンや、2018年のパリや、エマ・ゴールドマンなどの史実に詳しく言及するが、圧倒的な暴力の事実の紹介と、それへの共感の表明はあるが、暴力や破壊を直接呼びかけるわけではない。まして組織化することは否定する。

それゆえ、現実を変革することではなく、解釈を変革することに力点が置かれる。意識を変革すれば現実を変革したように思うこともできないわけじゃない、というわけだ。社会変革の理論と実践の大いなる失敗の歴史を踏まえて、著者は、永遠のマスターベーションとしてのアナキズムを構築する。

「ユートピアだ。コミュニズムとは絶対的孤独である。それは現にある秩序をはみだしていこうとすることだ。かぎりなくはみだしていこうとすることだ。あらゆる相互扶助は犯罪である。アナーキーをまきちらせ。コミュニズムを生きてゆきたい。」

最後の一文に厳密に表明されているように、「現にある秩序をはみだす」ことではなく「はみだしていこうとすること」が目標とされる。「かぎりなくはみだす」ことは慎重にしっかり回避し、「はみだしていこうとすること」だけが語られる。永遠のマスターベーションこそ希望のアナキズムなのだろう。

Saturday, January 05, 2019

ヘイト・クライム禁止法(147)アルジェリア


 アルジェリア政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/DZA/20-21. 23 August 2016)によると、二〇一四年二月四日改正の刑法第二九五条bis一項(三)は、人種又は民族性に基づいて人又は人の集団に対する憎悪又は差別の公然煽動、及びこの目的のための活動を組織、助長、激励又は宣伝を行うための企行を犯罪としている。刑罰は六月以上三年以下の刑事施設収容及び五万以上一五万以下のアルジェリア・ディナールの罰金である。

刑法第二九五条一項の定義する差別行為を行った場合は一五万以上七五万以下のアルジェリア・ディナールの罰金である。個人又は団体の名誉又は評価を毀損する行為は言説、叫び、脅迫、文書、サイン又は告知による場合、刑法第二九六条により犯罪とされる。

刑法第二九八条は、個人に対する中傷を二月以上六月以下の刑事施設収容及び/又は二万五千以上五万以下の罰金とする。被害者による赦しがあれば刑事手続きは終了する。民族、信仰又は宗教を基にする一人又は複数人への中傷が、市民の間に憎悪を助長する意図を持っていれば、一月以上一年以下及び/又は五千以上五万以下の罰金である。

刑法第二九八条bisによると、民族、信仰又は宗教に基づいた一人又は複数人への侮辱は五日以上六月以下の刑事施設収容及び/又は五千以上五万以下の罰金とする。

刑法一六〇条は、墓地の恣意的汚損、破壊、冒涜を犯罪とし、刑法第一五〇条は墓の損壊を犯罪とする。

その他かに人種差別煽動行為の規制として、組織の権利の行使(一九九〇年六月二日の法律)、政党(二〇一二年一月一二日の法律)、公開集会・デモ(一九八九年一二月三一日の法律)がある。

人種差別撤廃委員会はアルジェリア政府に次のように勧告した(CERD/C/DZA/CO/20-21. 21 December 2017)。

委員会の一般的勧告第三五号に照らして、アマジー人や被害を受けやすい集団に対する公衆によるヘイト・スピーチを非難し、これと距離を置くこと。ソーシャル・ネットワーク等メディア及びスポーツ施設におけるヘイト・スピーチと闘うこと。特定の人種又は皮膚の色や民族の異なる特定の集団に対する、あらゆる種類の人種的動機による言説、暴力行為、並びにそれらの行為の煽動を捜査し、実行者を訴追・処罰するために実効的な措置を講じること。人種主義やヘイト・スピーチと闘う公衆の意識啓発キャンペーンを行い、移住者の権利を促進すること。

Friday, January 04, 2019

目取真俊の世界(13)汚物と天皇と哄笑と


目取真俊短編小説選集1『魚群記』(影書房、2013年)


著者20歳代の短編を集めた1冊で、『平和通りと名付けられた街を歩いて』収録の5作に、「風音」「発芽」「一月七日」の3作を加える。

目取真俊『平和通りと名付けられた街を歩いて』(影書房、2003年)



人類史上特筆される無責任人間の息子から孫への仮面伝承の一年になる2019年の正月に読むべき著書の代表として本書をあげることができるだろう。深沢七郎、大江健三郎、桐山襲に連なる哄笑文学だ。

「平和通りと名付けられた街を歩いて」は、「何で私たちがコータイシデンカのために仕事休まんといかんね、ひん?」という問いとともに、ひめゆりの塔火炎瓶事件を想起させる。1983年7月13日に「献血運動推進全国大会」の訪沖、糸満市摩文仁の沖縄戦没者墓地、沖縄平和祈念堂、ひめゆりの塔参拝のパレードに向けた民衆の決起は、少年の唾とオバーの汚物という「同時多発テロ」として現象する。アキヒトとミチコの乗った車の窓ガラスに汚物をなすりつける騒動で終わる本作品を、1983年から35年を経て、いま、どのように読むべきか。「おばー、山原(やんばる)はまだ遠いかなー」。目取真少年のつぶやきのような問いに、やまとんちゅはまだ答えていない。

「一月七日」は、早朝のセックスの後、女が「ねえ、天皇陛下、死んじゃたんだってさ」と告げる。「おい、ホーギョって何だ」と聞き返す主人公は、責任無能力人間がこの世を去った一日を、タクシーで国際通りに出かけ、パチンコ屋が「自粛」のために閉店していたため、ポルノ映画を観、壺屋のおじいの家に遊びに行き、平和通りでよれよれの新聞を拾って「へーセー」を知り、マクドナウドで高校時代の友人の暴力事件に遭遇し、アメリカーの銃乱射に驚き、最後は自ら暴力事件を引き起こす。「昭和って、たくさん人が死にましたね」。壊れた椅子、テーブル、硝子の破片、糞、小便、涎、血にケチャップ。やじ馬のざわめき、拡声器でがなりたてる声、救急車やパトカーのサイレンにクラクション。富士には月見草が似合うが、天皇には汚物が似合うのだろうか。1989年のスラップスティックから30年、不穏な「非国民作家」は愚鈍な国民国家といかに闘うだろうか。

Wednesday, January 02, 2019

『クルアーン』を読む(1)


正月は京都で過ごし、三十三間堂と国立博物館で運慶などの仏像を堪能してきた。天候に恵まれ、のどかな正月だった。元旦午後には京都駅南口のイオンモールのT―JOYで、映画『ボヘミアン・ラプソディー』。年末に観たばかりだが、今年の最初の映画になった。2度目なので、台詞の字幕がかなり意訳しているのに気づいたり、飼い猫の表情の変化を愉しんだり、画面片隅の小道具に目をやりながら、フレディ・マーキュリーのWe will rock youを満喫した。


中田考監修、責任編集・黎明イスラーム学術・文化振興会『日亜対訳クルアーン』(作品社、2014年)


今年は『クルアーン』をゆっくりと読むことにした。

中公の世界の名著シリーズでコーランを走り読みしたのはいつだっただろうか。学生時代のような気もするが、よく覚えていない。内容も理解していない。読んだとは言いがたい。

作品社版は非常に丁寧な本づくりで、読み甲斐がありそうだ。何しろ、「正統10伝承の異伝を全て訳すという、世界初唯一の翻訳」でああり、最新の学知にもとづいた解釈で註釈がなされている。訳者による「序」の解説では、キリスト教の聖書や仏教の経典と比較しての、『クルアーン』の特徴が整理されている。


第1章 開端

毎日5回の礼拝で読むことが義務とされている章。アッラーを讃える短い章だが、「真っすぐな道」への導きを示している。「真っすぐな道」からして、すでに解釈・翻訳上の問題があるという。