『救援』2019年1月
記憶の暗殺者
ドイツでは、公然と「アウシュヴィツのガス室はなかった」「ユダヤ人虐殺は良かった」などと発言すれば、刑法第一三〇条の民衆煽動罪に該当する犯罪である。「アウシュヴィツの嘘」として知られる。イギリスでは、発言は犯罪とはならないが、映画『否定と肯定』で鮮やかに描かれたように名誉毀損等の民事不法行為となることがある。
日本では「南京大虐殺の嘘」「従軍慰安婦の嘘」をはじめとして、かつて日本がアジア各地で犯した歴史的野蛮行為を否定し、戦争や植民地支配を美化する開き直りが横行している。差別表現やヘイト・スピーチの議論になると、一部の憲法学者やジャーナリストが「表現の自由」を持ち出して差別発言の正当化に躍起になる。マジョリティの日本人がマイノリティを差別し迫害することを表現の自由と錯覚した「リベラリズムの墓堀人」である。
「アウシュヴィッツの嘘」処罰は多くの国の刑法に規定され、欧州では常識化しつつある。ドイツ、フランス、スイス、リヒテンシュタイン、スペイン、ポルトガル、スロヴァキア、マケドニア、ルーマニア、アルバニアである(前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』第10章第5節参照)。欧州以外にイスラエルやロシアにもある。
エマヌエラ・フロンツァによると、同様に歴史否定(歴史否定主義)を規制する法律は、オーストリア、ベルギー、ブルガリア、クロアチア、キプロス、チェコ、ギリシア、ハンガリー、イタリア、ラトヴィア、リトアニア、ルクセンブルク、マルタ、ポーランド、スロヴェニアにもあるという。これほど多くの刑事立法があり法実践が続いているのに、日本ではせいぜいドイツとフランスの情報が紹介されてきたにとどまる。
そこでフロンツァ『記憶と処罰――歴史否定主義、自由な言論、刑法の限界』(スプリンガー出版、二〇一八年)を簡潔に紹介したい。本書は、欧州におけるジェノサイドやその他の大虐殺の否定の処罰を検討し、刑法による公的な歴史記憶の保護について議論を展開する。フロンツァはボローニャ大学ロースクール上級研究員であり、EUによる「欧州と比較法のパースペクティブにおける記憶法」調査研究の主任調査員である。
ピエール・ヴィダル=ナケ『記憶の暗殺者たち』(人文書院、一九九五年)に代表されるように欧州では記憶の暗殺者との闘いが続くが、最近の日本では「歴史・記憶・証言・表象・物語」をめぐって「新版・記憶の暗殺者」が跋扈している。記憶をめぐる心理学研究の成果を踏まえるように装い、「学問的中立性」を唱えながら、被害者の証言を相対化し、加害者の記憶や語りと相殺する。あからさまな歴史否定とは一線を画すようにふるまうが、エージェンシーを根拠に被害者性を消去し、議論をすり替えて歴史社会の構造的把握を無化する。「学問の特権」の上に胡坐をかいた「冷静な研究」「精緻な理論」が横行する。フロンツァの研究に学ぶべき由縁である。
歴史否定犯罪
フロンツァは著書第一部「刑事犯罪としての歴史否定――起源と発展」において、歴史否定犯罪の誕生を確認する。フロンツァによると、「否定主義」はアンリ・ルッソの著書『ヴィシー・シンドローム』(一九四四年、フランスで出版[英訳は一九八七年、ハーヴァード出版])がナチス絶滅収容所のガス室の存在を否定する言説に対して用いた言葉である。確認された歴史的事実を修正する傾向としての修正主義と歴史否定を区別する必要がある。いかなる歴史研究も先行研究に対する見直しを含む点では修正主義とならざるを得ないが、歴史否定は確立された歴史事実や方法論的パラダイムとの対話を拒絶する。歴史否定は当初はホロコーストの否定であったが、今日ではジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪の否定として、ネットを通じて世界中に拡散している。気候変動の否定、月面着陸の否定、HIVウィルスの起源、9.11攻撃の謀略論、オバマ元米大統領の出生地など、あらゆる事項について否定主義が猛威を振るっている。
フロンツァは、歴史否定を修正主義概念の退化した形態として定義する。刑事犯罪としての発展を通じて、歴史否定は記憶の法から区別される。一九九〇年代以来、両者は明確に区別されずに用いられてきたが、刑事犯罪にかかわって研究する際には区別する必要がある。歴史否定は厳密にいうと歴史修正主義の退化現象として登場した。歴史修正主義自体が多様な解釈可能性を持ち、広義では新しいデータに基づく歴史の再構成を意味する。この意味では歴史は常に再構成される。これに対して、歴史否定は、歴史研究の方法論からも結論からも許容できない特殊な歴史修正主義である。第二次大戦終了後、ホロコーストを勝者のプロパガンダであるとして否定し、極小化する言説である。ガス室の存在の否定から、より広い意味を持つようになり、トルコによるアルメニア人虐殺、ナチスによる欧州におけるジプシー殲滅、ウクライナ・ホロコースト、旧ユーゴスラヴィア、ルワンダ、カンボジアにおける犯罪に及んでいる。
その犯罪化の前進は欧州比較法の視点から分析できる。フロンツァは歴史否定が人種主義に由来するとみる。反ユダヤ主義や重大人権侵害の被害者を貶め、被害を受けた共同体の公的な集合記憶を蝕むからである。フロンツァは欧州における先行研究として六〇を超える文献を引証しているが、その大半が日本では知られていない。多くの欧州諸国で、規定の仕方はさまざまであるが、この種の刑事犯罪が立法されている。EU二八カ国のうち二一カ国で特別犯罪又は刑罰加重事由とされている。最初の規定はフランスの一九九〇年のプレス法第二四条(二〇一七年に改正されて第一七三条)である。オーストリア、ドイツ、ベルギー、スペインが続いた。二〇〇八年のEU枠組み決定後、東欧など十数カ国が立法化に踏み切った。
歴史否定の犯罪化は、一方で刑罰による禁止の範囲の拡大として理解できる。当初はホロコーストの否定に限られたが、現在ではその他の国際犯罪の否定も含まれる。他方で歴史否定の犯罪化はスピーチ犯罪の開花とみることができる。それゆえ歴史否定の犯罪によって保障される歴史記憶の保護は、民主社会の基本的価値の保護の名における自由な言論の制限を拡大する一般的傾向に連なることになる。フロンツァは欧州諸国がこれらの問題にいかに対応したかを追跡する