Saturday, May 30, 2020

大いなる田舎町・札幌のワイン


札幌農業と歩む会編著『こんな近くに!札幌農業』(共同文化社)

http://kyodo-bunkasha.net/modules/webphoto/index.php?fct=photo&p=320

<政令指定都市であるにも関わらず、近郊で農業が盛んな札幌市。

その魅力を歴史面、4つのエリアごとに多くの農園を紹介する農業が楽しくなるガイド本。>



『迷宮の人 砂澤ビッキ』で初めて知った出版社から、札幌の農業の本が出た。芸術家砂澤ビッキと札幌農業――関係ありそうで、関係ない。北海道という共通点だけだ。

さて、札幌農業と歩む会は、2011年の「さっぽろ食農フォーラム」以来、札幌市内の農家を訪ね、ツアーを組んできた。例えば、コマツナの作付面積と収穫量が、広い北海道で第1位だと言う。レタス、ニラ、シュンギク、チンゲンの作付面積は第2位だ。桃は3位、スイカは4位。このように札幌は農業地帯なのだ。札幌農学校(現・北海道大学)の街だからと言うわけではない。1960年代以来、都市化のため農業人口も畑も激減してきたが、近年、「農的くらし」のルネッサンスが始まっているという。

札幌市内各地の農家の状況が次々と紹介されている。意外なところでは、札幌ワイナリー3軒が紹介されている。

八剣山ワイナリー

http://hakkenzanwine.com/

さっぽろ藤野ワイナリー

http://www.vm-net.ne.jp/elk/fujino/

ばんけい峠のワイナリー

https://sapporo-bankei-winery.jimdofree.com/

札幌農業と歩む会会長は私の高校時代の同級生だ。大いなる田舎町・札幌出身の私にはとても楽しい本である。

時代と格闘するとはどういうことか


鵜飼哲『まつろわぬ者たちの祭り 日本型祝賀資本主義批判』(インパクト出版会)

http://impact-shuppankai.com/products/detail/293

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『思想運動』(1053号、6月1日)の依頼で「いま読みたいこの三作」を紹介したので、その一作にあげて紹介した。3月以来、外出自粛のため時間はたくさんあるが、なかなか本を読めない。原稿を書くのに必要な本はなんとか読んできたが、じっくり読もうと思う本は頭に入らない。集中力がないためだ。オンライン授業の準備に追われていることもある。

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<私たちは「未来の残酷さ」のただなかにいる。

地震、津波、原発事故の三重の打撃によって政治的、社会的な未曾有の危機に陥った日本資本主義が、スポーツ・ナショナリズムの鞭を全力で振るって、なりふり構わず正面突破を図ろうとしている。

天皇代替わり、そして2020 東京オリンピック・パラリンピック――

いま、国民国家主義とグローバル資本主義を媒介する巨大スペクタクルに呑み込まれないために。>

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 「災厄のポリティクス」「境界から歴史をみつめ直す」「日本型祝賀資本主義批判──天皇代替わりとオリンピック・パラリンピック」の3部にまとめられた文章の数々が、鵜飼哲ワールドをつくりあげる。2010年代の日本――福島原発事故、歴史歪曲、天皇代替わり、そして東京オリンピックへ――の狂乱と崩落を、力ずくで統合しようとする「日本型祝賀資本主義」の倒錯と暴力を鵜飼は言葉の銃弾で撃ち抜く。

 鵜飼流の批判の作法は定型化できない。歴史を遡行し、論理を組み替える。言葉の表層を掠めるかと思うと、深層からぶち抜く。直喩あり、暗喩あり、比喩の限界の指摘あり。時の彼方から迎撃することもある。<フクシマ>と<ヒロシマ>の交差点に思想の爆弾を投下する。原発政策と対抗運動の弁証法的展開を追跡するかと思うと、境界のリミットに身を浸して現状を測定し直す。実証的データに基づく批判と、目の覚めるような飛翔する論理を巧みに操る。

 鵜飼流の批判の作法は「ともに考えること、闘うこと」に差し向けられる。どこからでも、だれであっても、ともに闘いのフィールドに参戦できる。思想の愉しみを満喫しながら、自分を鍛え、他者との共感を実感しながら、私たちは鵜飼の闘いをコンマ1秒遅れで滑降することができる。

 とりあえずTOKYO2020は阻止した。モリ、カケ、サクラ、そしてクロカワの<惨事自招型資本主義>のアベシンゾーと別れを告げるため、TOKYO20202021阻止に向けて、次の一歩を。

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鵜飼哲はどこから到来したか

鵜飼哲『テロルはどこから到来したか――その政治的主体と思想』(インパクト出版会)

https://maeda-akira.blogspot.com/2020/03/blog-post_66.html

Thursday, May 14, 2020

團藤重光研究の到達点に学ぶ(3)


福島至編『團藤重光研究――法思想・立法論、最高裁判事時代』(日本評論社)



高田久実「第5章 改正刑法準備草案と團藤――名誉に対する罪をめぐる戦前・戦後の刑法改正事業」は、刑事立法における團藤の刑法学がどのような内実を有したかを、名誉毀損罪の規定、特に事実証明規定に即して検討する。1921年に始まった刑法改正作業のまとめとしての改正刑法仮案(総則1933年、各則1940年)における名誉毀損罪の検討過程を、泉二説や小野説に即してフォローしたうえで、戦後に始まった刑法改正作業における改正刑法準備草案(1963年)における團藤説の位置を測定しようとする。刑法230条の2の導入過程をつぶさに検討し、小野と團藤の理解を対比し、團藤の提案が改正刑法準備草案では削除された意味を考察する。團藤刑法学の形成過程の一面を明らかにすると同時に、刑法改正作業の研究にも新たな光を当てる。



玄 守道「第6章 團藤重光の人格責任論――その形成過程に着目して」は、團藤刑法学の要である人格責任論、あるいは主体性の理論の形成過程を解明する。その際、玄は、刑法理論だけでなく、團藤の初期の刑事訴訟法学の形成過程や、行刑理論の構築においてすでに人格責任論がみられたことに着目し、分析を加える。レンツやメツガーの理論に学びながら、團藤の独自の理論がいかに形成されたかである。「團藤は犯罪論、刑罰・行刑論、刑事手続論を人格ないし主体性の理論を基礎に動的に一貫して把握しようとしている」という。そのうえで、1949年の人格責任論論文で骨格が提示されたので、詳しくフォローする。玄は、團藤の「普遍的な理論構築への問題関心」と、人格の動的・発展的性格を理論に組み込もうとする野心的な試みに着目しつつ、理論的整合性がとれたとはいいがたく、人格責任論を支持することはできないという。團藤から継承すべきは、問題意識や思考方法である。



出口雄一「第7章 昭和28年刑事訴訟法改正と團藤重光」は、刑事訴訟法の1953年大改正の際の、法制審議会刑事法部会小委員会、及び法制審議会刑事法部会、そして国会における議論を紹介・検討する。主な改正点は、陪審制度採用の要否と不当勾留抑制、簡易公判手続きの導入とアレインメント制度、控訴審の構造であり、さらに検察官と司法警察職員との関係(捜査の適正化)をめぐる位置づけであった。刑事裁判における職権主義と当事者主義の関係をいかに理解するかが問われていた。出口は、「憲法化・アメリカ法化・当事者主義化・操作の適正化の4つの特色を持つ新刑事訴訟法にとって、1950年代は『模索と定着』の時代」であるとし、職権主義を定着させようとする立場と、伝統的な職権主義に押し戻そうとする立場が「交錯」していたとし、團藤は当事者主義の定着を図ったとみる。

この点はとても興味深かった。平野龍一の刑事訴訟法学を学んだ者にとっては、「團藤の職権主義vs平野の当事者主義」という構図で見てしまいがちになる。だが1953年当時は「小野清一郎の職権主義vs團藤の当事者主義」が対抗しており、團藤は恩師・小野の議論にチャレンジしていたのだということがわかる。



兒玉圭司「第8章 團藤文庫『警察監獄学校設立始末』から見えてくるものーー明治32年・警察監獄学校の設立経緯」は、團藤文庫の『警察監獄学校設立始末』を紹介しつつ、その設置経過において設置目的に変更があったこと、歴史的に重要な役割を果たしたことを明らかにする。1915年の全国65名の「典獄」のうち27名が警察監獄学校卒業生だったという。本資料が團藤の法思想の形成に直接的に関係したとは言えないと兒玉自身が述べているが、興味深い資料であり、研究である。



團藤刑法学には長い歴史があり、幅広い射程があるため、総合的研究を行うには多数の研究者による共同が必要である。そのための作業はこれまでも行われてきたし、高田と玄も先行研究に学びつつ、さらに團藤文庫資料を活用して新たな知見と分析を加えている。



以下、余談。



学会は別として、團藤が一般社会で認知されたのは、その死刑廃止論者としての発言であったといえよう。東大教授として、刑法学者として、最高裁判事としてきわめて広範で重要な貢献をしたとはいえ、團藤は一般には知られていなかった。死刑廃止論こそ、社会に知られることになった理由であり、社会における團藤の存在意義であったと言って過言でない。

そこで気になるのは、人格責任論と死刑の関係である。というのも、最高裁判事時代までの團藤刑法学は死刑積極存置論であり、最高裁判事として死刑判決を書いた。死刑廃止論に転じたのは判事退官後である。つまり、團藤の人格責任論は死刑存置論であった。少なくとも死刑存置論と矛盾しなかった。そして、人格責任論をあまり口にしなくなって以後に死刑廃止論に転じたのだ。このことの意味をきちんと分析しないと、團藤の人格責任論を論じたことにならないのではないか。

Tuesday, May 05, 2020

團藤重光研究の到達点に学ぶ(2)


福島至編『團藤重光研究――法思想・立法論、最高裁判事時代』(日本評論社)



太田宗志「第3章 東大と防空――團藤重光と東京帝国大学特設防護団法学部団」

小石川裕介「第4章 法学の研究動員と團藤重光――戦時下の学術研究会議を中心として」



2本の論文は、團藤文庫資料を基に、戦時下の團藤重光の活動と研究に一側面を明らかにする。従来、資料が少なく、先行研究もわずかで、当事者の証言も多くはない分野であるだけに、いわば空白期である。



太田は、團藤文庫資料にある東京帝国大学特設防護団法学部団の資料――『防護団登番記録』と『防護団ノート』――によって、その活動の様子を明らかにし、そこにおける團藤の位置と役割を解明する。194110月に設置された東京帝国大学特設防護団は、大学全体の組織だが、学部ごとに編成されたので、法学部団も設置され、その記録が残された。これによると、教官(教授、助教授、助手)と学生350名を、総務、防火、研究室の分に編成していたという。團藤は総務班長だった。太田は、当番日記から見えてくる防護団の状況を解説し、空襲の危機への太陽、そして敗戦後の灯台防空の終焉までたどる。基本的に資料紹介にとどまるが、興味深い。国家総動員体制で臨んだ「大東亜戦争」における異様に貧弱な防空体制--国民の生命財産を軽視した戦時体制の批判的検討はなされていない。



小石川は、戦時下の学術研究の一側面を明らかにする。科学研究動員委員会において、團藤はインド刑法の研究を担当し、その記録を残している。「インド刑法略史」の記述が紹介され、團藤が「政治的」ではなく、「一個の法律学徒」として「文化的」考察を試みたという。特別委員会においては、團藤は経済犯罪研究委員会に所属し、価格統制、配給、消費等の経済刑法研究を行っていたという。重要な資料が紹介されている。敗戦後の1946年には、突如として「民主主義と法律」「民主主義的裁判期間の構成」を担当したことにも言及があるが、「法学における共同研究の戦前・戦後の連続性/断絶性の問題については、今後の課題としたい」と述べるにとどまっている。



以下は余談。



私は大学院時代にナチス刑法研究に手をつけた時期があり、最初の著書『鏡の中の刑法』(水曜社、1992年)270367頁に収録した。そのさい当時の日本刑法学者(牧野英一、木村亀二、小野清一郎、不破武夫、安平政吉、佐伯千仭、團藤重光、市川秀雄ら)がナチス刑事法をいかに紹介・受容したかを論じた。

その後、戦時期における日本刑事法の特質を評定する研究も始めた。なかなか成果が出なかったが、小田中聡樹先生古稀記念論文集に論文「日本法理の歴史意識」を書くことができた。そこでは、小野清一郎と團藤重光の2人に絞って、日本法理、大東亜法秩序がいかなる法理であったかを解明するとともに、戦後に再編成された團藤刑法学――その理論的中核をなす主体性の理論と人格形成理論の淵源の一つが小野清一郎の日本法理であったことを論じた。「戦前・戦後の連続性/断絶性の問題」そのものを取り上げた。この論文は、のちに私の『ジェノサイド論』に「侵略の刑法学――日本法理の歴史意識」と改題して収録した。

しかし、私はその後、このテーマを深めることはしなかった。研究環境が大きく変わったことと、他に抱えるテーマが多数あったため、この研究を放棄してしまった。

その後、宮本弘典、本田稔をはじめ、戦時刑事法の実相とイデオロギーを解明する研究は続いている。最近では法制史における出口雄一らの研究も重要である。

今年2月、私の著書『500冊の死刑』出版記念会で、宮本弘典に話をしてもらったが、その際の配布資料は宮本の論文「二ホン刑事司法の古層」『今,私たちに差し迫る問題を考える Vol.2」(関東学院出版会)であった。宮本は、戦後司法改革の担い手たちが、実は戦時刑事イデオロギーの張本人たちであったこと、理論的にも思想的にも連続性を否定できないことを逐次明らかにしている。

ここ数年、私自身は植民地主義批判、植民地主義法批判の作業を続けているが、刑法学における植民地主義批判にたどり着いていない。『團藤重光研究――法思想・立法論、最高裁判事時代』には、植民地主義批判という問題意識がみられないのが気にかかる。

Sunday, May 03, 2020

検事長勤務延長閣議決定と検察官の勤務延長制度導入の撤回を求める声明


検事長勤務延長閣議決定と検察官の勤務延長制度導入の撤回を求める声明

202052

民主主義科学者協会法律部会理事会



 2020131日,政府は,現行検察庁法第22条に従って定年退官する予定だった東京高等検察庁検事長について,国家公務員法(以下「国公法」)第81条の3第1項を適用し,半年間勤務を延長することを閣議決定した。これは,検察官に適用される検察庁法が一般法である国公法に対して特別法であるとした上で,国公法上の定年制度やこれを前提とする勤務延長が検察官に適用される余地はないとする従来の検察庁法の解釈・適用を無視した違法・無効なものである。

 また,同年313日,政府は,検察官の勤務延長制度を導入する内容を含む国公法改正案及び検察庁法改正案を国会に提出した。その内容は,検事長ら役職者の勤務延長を内閣・法務大臣の判断に委ねるものであって,あくまで平等と公平の正義を追求するために,その職務遂行に厳正性,不偏不党性が求められる検察官の不偏不党性を害するものである。

 民主主義科学者協会法律部会理事会は,上記閣議決定並びに国公法改正案及び検察庁法改正案の撤回を求める。その理由は,次のとおりである。



1 まず,上記閣議決定は,国公法第81条の31項を東京高等検察庁検事長に「適用」して,「その職員を当該職務に従事させるため引き続いて勤務させる」(同項)ものである。しかし本来,同項は,国公法第81条の21項および第2項により定年を迎えることとなる国家公務員について,特別な必要性がある場合に,任命権者の判断によりその勤務を延長させるものである。

 そして,国公法は,1947年に制定された当時にそもそも定年制を定めておらず,1981年にはじめて定年制を導入し「定年による退職」(同法第81条の2)及び「定年退職者等の再任用」(第81条の3)を設けた。第81条の2は,国家公務員が一定の年齢に達した時に一律に退職する制度(退職年齢制度)を予定したものではなく,別途定められる「定年退職日」に退職する制度(定年退職日制度)であり,しかも職務の性質や必要性に応じて柔軟な取扱いが許容され,さらに第81条の3による「再雇用」も視野に入れた職務内容に必要に応える柔らかな定年制度である。

 これに対して,検察官の定年は,検察庁法第22条により,検事総長は満65歳,他の検察官は63歳と定められているように,検察官が一定の年齢に達した時に一律に退職する制度(退職年齢制度)であって,国公法上の退職制度とは趣旨も範囲も異なるものと言わなければならない。また現に,1981年の国公法の改正に関する国会審議において改正国公法は検察官に適用がないことが繰り返し確認されており,これが運用の面でも忠実に順守されてきた,国公法についてのゆるぎない立法者意思であることは明らかである。したがって,国公法第81条の21項および第2項は,検察官に適用する余地はなく,検察官に対して,そもそも国公法第81条の31項の適用はないというのが確立した法解釈及び法実務である。



2 このように,検察官に対して,その任命権者による特別の勤務延長が適用されなかった理由は,検察官が,刑事手続を始動させる公訴権を独占する(準起訴手続は例外)など,刑事司法全般に対して重大な影響力を持ち,ゆえに,その職務はあくまで平等と公平の正義を追求するものでなければならないことにある。そのために,検察官には,とりわけ政治的影響力を受けることのないように,裁判官に準じた身分保障が必要であり,その限りで,司法権独立の精神は検察権の行使とその担い手である検察官のあり方についても推及されなくてはならないのである。

 それにもかかわらず,検察官につき,自然年齢にのみ拘束される一律の年齢退職制度をとり,定年の延長を認めない硬性の手続をとっている現行法を変更して,その任命権者である内閣の意向によってその勤務を延長させることが可能となるのであれば,その検察官の身分の独立性がその限りで害され,検察官の職務が内閣の意向に左右されるおそれは皆無ではありえない。この点は,国際的な標準として検察官の職務準則と権利義務を定めた国連経済社会理事会決議の「検察官の職務準則と権利義務に関する声明」(E/CN.15/2008/L.10/Rev)にも反するものである。

 したがって,東京高等検察庁検事長の勤務を延長させるとする上記閣議決定は,その法律による根拠のない違法・無効なものであり,同時に,検察官の職務の独立性を害するものとして撤回をすべきものなのである。



3 加えて,上記の検察官の勤務延長制度を導入する国公法改正案及び検察庁法改正案は,一般の国家公務員及び検察官の定年を一律に満65歳にまで延長することを背景に,次長検事,検事長及び検事正,上席検察官については満63歳に達した翌日から他の職に補することを原則としつつ,内閣及び法務大臣が定める準則により特別の事由があればその勤務の延長を可能とし,さらに,検察官一般につき,満65歳の定年を迎えた後も特別の事由があれば,内閣や法務大臣の判断により,その職務の延長を認めるものとしている。

 要するに,この検察庁法改正案は,国公法の改正目的を逸脱して,検事総長を含む検察官の職務延長を,広く,時の内閣や法務大臣の判断に委ねようとするものと言わざるを得ない。このような法改正は,独立した法の支配の砦としてあくまで平等と公平の正義を追求することが期待される検察官の職務に対して,定年の延長という「蟻の一穴」から職務の公正を蝕む「害毒」を注ぎ込むに等しいことになる。すなわち,この検察庁法改正が実現すれば,いわゆる定年延長を求めて時の政権の意向を忖度する司法運営がまかり通ることとなり,司法権独立は危機に瀕する。



4 また,検察庁法改正案の立案過程には,様々な矛盾や問題点がある。法務大臣は,210日の国会答弁で,上述の国公法第81条の23の規定が検察官に適用除外される旨の1981年当時の国会審議について,議事録の詳細は存じ上げないとした。同月12日には,人事院給与局長が法解釈は変わっていない旨を答弁した。しかし,同月13日に総理大臣が検察官の勤務延長に国公法を適用するとして解釈変更を国会で答弁した後に,法務大臣は1月後半に法解釈の変更を法務省内で「口頭決裁」した旨を,人事院給与局長は12日の答弁の言い間違いを,それぞれ弁明するに至った。以上から,そもそも131日の閣議決定は,従来の国公法及び検察庁法の解釈を十分に踏まえていない疑いがある。

さらに,検察庁法改正案について,法務省は,201910月の時点で,一般公務員の役職定年延長制度につき,公務の運営に著しい支障が生じるなどの問題は考え難いとして,検察官には必要ないものと判断していたにもかかわらず,2020年に入り,同法案に検察官の役職定年延長を可能とする規定が加えられた。この経緯に鑑みれば,同法案は,特定の検事長の勤務延長を可能とする違法な閣議決定を法形式で追認するものと言わざるを得ない。



5 目下,新型コロナウイルス感染症への対応が急務の課題となっている中,検察庁法改正案は,国公法等一部改正法案として国公法改正案等と一括して国会に上程されており,審議が十分尽くされないことが強く危惧される。



 以上の理由から,民主主義科学者協会法律部会理事会は,上記閣議決定並びに国公法及び検察庁法改正案の撤回を,断固として求めるものである。

世界哲学史という意欲的な試み


『世界哲学史Ⅰ(古代1)知恵から愛知へ』(ちくま新書)



1月から出版が始まった全8冊のシリーズ、筑摩書房80周年記念出版だ。執筆者は総勢101名だという。目次を眺めるだけで、凄い。



第1冊(古代1)をのんびり読んだ。

序 世界哲学史に向けて   納富信留

1 哲学の誕生をめぐって   納富信留

2 古代西アジアにおける世界と魂   柴田大輔

3 旧約聖書とユダヤ教における世界と魂   髙井啓介

4 中国の諸子百家における世界と魂   中島隆博

5 古代インドにおける世界と魂   赤松明彦

6 古代ギリシアの詩から哲学へ   松浦和也

7 ソクラテスとギリシア文化   栗原裕次

8 プラトンとアリストテレス   稲村一隆

9 ヘレニズムの哲学   荻原 理

10 ギリシアとインドの出会いと交流   金澤 修



西欧中心主義に毒されていると反省してきたつもりでも、反省しきれていなかったことがよくわかる。西欧哲学史の窓から見た哲学史しか頭に入っていなかった。

「世界」とは、地理的な世界に拡張することだけでなく、人々が暮らす生活世界の総体を対象とし、自然環境や生命や宇宙から人類の在り方を反省する哲学を必要とする。各地域、それぞれの時代の哲学の営みを総ざらいして、世界という全体の文脈において比較し、共通性や独自性を確認するチャレンジングな企画だ。

第1冊を読んだだけだが、企画の趣旨を踏まえた見事な論述が続く。本格的な研究書ではなく、新書で世界哲学史をという点も、だれもが手に取り、読むことができる世界哲学史と言うスタンスだろう。

新型コロナ緊急事態宣言の中、読書に集中できない日が続く。時間があるようで、ない。精神的に余裕がないためだろう。このため、本書もなかなか頭に入らなかったが、人類の知的営為に触れることができるのは愉しいものだ。

Friday, May 01, 2020

團藤重光研究の到達点に学ぶ(1)


福島至編『團藤重光研究――法思想・立法論、最高裁判事時代』(日本評論社)

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/8228.html

東京大学名誉教授、元最高裁判事、元宮内庁参与の團藤重光(19132012年)は、戦中から戦後にかけて日本刑事学を代表する研究者であり、戦後の刑事訴訟法制定に大きな役割を果たし、独自の人格責任論をはじめとする刑法理論を構築し、最高裁判事としては「リベラル派」として重要判決にかかわり、退官後は日本を代表する死刑廃止論者として活躍した。その研究の深さと広さは他の追随を許さない。

團藤はその蔵書や膨大な資料類を、親戚にあたる福島至(龍谷大学教授、刑事訴訟法学者)の在籍する龍谷大学に寄贈した。「團藤文庫」と呼ばれる。

龍谷大学矯正・保護総合センターの「團藤文庫研究プロジェクト」は2013年に活動を本格化させ、さまざまな聞き取りや調査研究を行ったという、成果の一部は「特集 團藤文庫を用いた研究の可能性」龍谷大学矯正・保護総合センター研究年報第6号(2016年)にまとめられているが、これに続く成果が本書である。

http://rcrc.ryukoku.ac.jp/research/book34.html



<目次>

はしがき

序章 團藤重光研究の意義と本書の概要……福島 至

第1部 團藤重光の法思想・立法論

第1章 法学教育史から見る法制史についての一考察

    ーー東京帝国大学生・團藤重光の受講ノートをたよりに

      ……畠山 亮

第2章 満蒙問題と團藤重光

    ーー團藤文庫所蔵「蒙古聯合自治政府」法制関連資料の紹介

      ……岡崎まゆみ

第3章 東大と防空

    ーー團藤重光と東京帝国大学特設防護団法学部団

      ……太田宗志

第4章 法学の研究動員と團藤重光

    ーー戦時下の学術研究会議を中心として

      ……小石川裕介

第5章 改正刑法準備草案と團藤

    ーー名誉に対する罪をめぐる戦前・戦後の刑法改正事業

      ……高田久実

第6章 團藤重光の人格責任論ーーその形成過程に着目して

      ……玄 守道

第7章 昭和28年刑事訴訟法改正と團藤重光……出口雄一

第8章 團藤文庫『警察監獄学校設立始末』から見えてくるもの

    ーー明治32年・警察監獄学校の設立経緯

      ……兒玉圭司

第2部 最高裁判事としての團藤重光

第9章 最高裁判例の形成過程と團藤重光文書

    ーー国公法違反被告事件(大坪事件と猿払事件)をめぐって

      ……赤坂幸一

10章 学者としての良心と裁判官としての良心

    ーー共謀共同正犯についての團藤意見を中心として

      ……村井敏邦

11章 凶器準備集合罪の法益と團藤補足意見

    ーー1983(昭和58)年6月23日最高裁第一小法廷判決

      ……古川原明子

12章 迅速な裁判を受ける権利の保障をめぐって

    ーー多数意見と團藤少数意見

      ……福島 至

13章 流山事件最高裁決定と團藤重光補足意見の意義と特徴

      ……斎藤 司



福島至「序章 團藤重光研究の意義と本書の概要」は、1)團藤文庫が寄贈された経緯、2)團藤文庫研究プロジェクトの経緯、3)本書の趣旨と構成、を略述する。團藤文庫の整理、分類、公開はまだ途上にあるが、共同研究の一定の成果を示すために本書を編んだという。



畠山亮「第1章 法学教育史から見る法制史についての一考察――東京帝国大学生・團藤重光の受講ノートをたよりに」は、團藤の学生時代の受講ノートを基にした研究である。團藤は、牧野英一の刑法、我妻栄の民放、中田薫の西洋法制史等の受講ノートを残した。畠山は、そのうち中田・西洋法制史の受講ノートを基に、法学教育史という観点で研究を進める。中田は学生向けの教科書等を執筆しなかったため、受講した学生たちが作成した講義ノートが多数残されているというが、それらと團藤の受講ノートを比較することによって、一方では中田の講義の変遷が判明し、他方で学生・團藤のまじめな勉強ぶり、受講ノートの完成度の高さを知ることができる。なかなかおもしろい論文だ。



以下は余談。



私は学生時代、まじめにノートを筆記したほうだが、その時のための走り書きのノートにすぎず、保存していない。法学部学生時代に受講した授業の記録はなく、記憶もどんどん薄れていくのは残念なことだ。

学生時代に受講した講義で感銘を受けたのは、第1に高島善哉の「社会科学」だ。大学1年の時だから1974年度の講義である。高島はマルクス主義系統の、アダム・スミス研究者、経済学・社会学者で、当時すでに一橋大学名誉教授だった。視力が弱りつつあった時期で、杖をついて歩き、パートナーや助手らしき人が付き添って教室に来ていたと思う。高島は、ノートも何も見ずに、記憶だけで立派な講義をしていた。平田清明の市民社会論が大きな論争を巻き起こした時期でもあったので、高島の授業を受けることができたのは幸運だった。

第2に佐藤功の「憲法」だ。これも1974年度である。日本国憲法制定に携わった佐藤は当時、上智大学教授だったが、非常勤講師として中央大学政治学科の「日本国憲法」を担当していた。佐藤の『日本国憲法概説』を手に受講した。佐藤は話しが非常に上手で、冗談が得意だった。教壇に立って、憲法制定過程のエピソードを身振り手振りを交えて、おもしろく語り、学生を笑わせた。どこまでが本当で、どこが脚色だったのか、学生にはわからなかった。

履修したのは、橋本公亘の「憲法」だが、あまりなじめなかった。橋本の『日本国憲法』は、アイヌ民族を「旧土人」とする北海道旧土人保護法を積極的に評価していたので、最初に拒否感を持ってしまったためだろう。後に橋本は「憲法変遷論」を唱えて、自衛隊合憲化に乗り出したことで社会的話題となった。

第3に山田卓生の「民法(債権法)」、1975年度の講義だ。大学2年生だったので、3年次指定の山田の講義を履修することはできなかったが、次年度に山田がサバティカルでドイツに行くと聞いたので、2年生の時に授業を聴講した。山田は帰国後、ほどなくして横浜国立大学に転じたので、75年度に無理して全授業を聴講したのは大正解だった。

第4に櫻木澄和の「刑法」、1976年度及び77年度の講義だ。私が履修したのは下村康正の「刑法」で、これも面白い授業であったが、たしか夜間部で櫻木が刑法を教えていたので、これもすべて聴講した。櫻木の「刑法総論」は、1年かけて犯罪論の「構成要件論」を終わらなかった。「1年では責任論にたどりつくのがやっとで、未遂論や共犯論にたどりつかない」というのはよくある話だが、櫻木は一番最初の「構成要件論」が終わらない。違法論も責任論も未遂論も共犯論も、7677年度にはやらなかったと記憶している。なにしろ「刑法総論」の講義で、櫻木はシステム工学、創造工学、人格理論の話をしていたし、マルクスの『経済学批判要綱』を取り上げることも良くあった。7879年度、私が修士課程の時には、なんとか違法論や責任論もやっていたが、たぶんどこかからクレームがついたためだろう。

櫻木論文に驚嘆し、「学問」を志すことになったことは、よく話してきた。大学院で指導教授に選んで以後のことは、前田朗『黙秘権と取調拒否権』(三一書房)第7章及びあとがきに書いた。

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