Friday, March 06, 2020

鵜飼哲はどこから到来したか


鵜飼哲『テロルはどこから到来したか――その政治的主体と思想』(インパクト出版会)

http://impact-shuppankai.com/products/detail/292

<支配的な政治構造からラディカルに断絶するためにかつても今も、私たちは「テロルの時代」に生きている。世界が、時代が、多くの変化にもかかわらず、相変わらず同じ問いの前に立たされている。反戦の論理はどの方向に研ぎ澄まされるべきか?  私たちは、みずからの置かれてきた歴史的状況をいかに思考しうるか?

フランス、アルジェリア、パレスチナ、南アフリカ、スペイン、アラブ世界、そして日本――「遭遇」と考察の軌跡。>



『抵抗への招待』から23年、『応答する力――来たるべき言葉たちへ』から17年、『主権のかなたで』から12年、そして『ジャッキー・デリダの墓』から6年。

ジャン・ジュネの研究者にして、ジャック・デリダの翻訳者。ナショナリズムとレイシズムの厳しい批判者として、天皇制との思想的闘いの先陣を切ってきた鵜飼哲。反東京オリンピックの理論と運動の仕掛け人でもある鵜飼哲。

現代思想の最前線を疾駆しながら、つねに立ち止まり、反芻し、言葉を紡ぎ直し、問い返し、だがつねに光速の鮮烈な思考を掲げ続けてきた鵜飼哲。

本書ではテロ、テロル、テロリズムという言葉の彼方にある歴史と思想の激突を、幾本もの補助線を引きながら、分画し、併合し、裏返し、重ね合わせ、時に溶解しながら、詰めていく。その手つきは、他の誰にも真似の出来ない鵜飼流だ。鵜飼が引く補助線は簡明でありながら独特だ。意外な場所に細く小さな補助線を挟むかと思えば、長く太い、太すぎる補助線を強引に割り込ませる。鵜飼が引く補助線は直線とは限らない。緩やかにうねり、迂回して元に返る。補助線の上にそれを否定するかのような補助線が引き直されたと思うと、消失したはずの補助線が図面を支配する。そんな比喩しか出来ないが、ここに私たちが鵜飼の文章を30年も読み続けてきた深奥の秘密がある。えっ、秘密ではないって? それはそうだ。



本書の各所で、鵜飼は、「世代論的」と言われることも覚悟の上で、同時代に向き合ってきた自分の年代・経験に言及している。フランス文学・思想研究が本来なので、いつ、どのような時代にパリに滞在したかは、決して偶然的なこととしてではなく、鵜飼の思想形成につねに影響を与えていることが、明確に自覚されている。また、パレスチナと南アフリカを「類比」しながら語る際に、南アフリカの最初のイメージは出張した父親からの絵はがきであり、1965年頃、小学生時代のことだという。鉱物資源、金やダイヤモンドの、そして同時にアパルトヘイトの南アフリカ。学生時代にシャープビルの虐殺を知り、アパルトヘイトへの認識を深めていく。

1955年生まれの鵜飼にとって、どの出来事にどのように遭遇したかは、思索を積み重ねるために常に意識されていなければならない。先行世代は、いわゆる全共闘世代であり、圧倒的にこの国の青年達の思想に影響を与えてきた。いや、引きずり回してきたといった方が良い。そのことも踏まえて、鵜飼の問いは複雑化していく。複雑化した問いを、一つひとつていねいに解きほぐしながら、世代論を意識しながら、世代論に回収されない思想をデザインする必要がある。これが鵜飼の思考であり、生き方である。

1955年生まれで、鵜飼と同じ世代論的経験をしてきた私にとって、「ああ、やっぱり」とか「そうだったのか」という言葉を何度も繰り返しながら、鵜飼の著書を読むことは、ある種の愉しみである。世代が一緒だからと言って、同じ風景を見てきたわけではない。鵜飼に見えたものが私には見えなかったことも少なくない。それでも、かなりの程度、「ああ、やっぱり」なのだ。



フランス、アルジェリア、イスラエル、パレスチナ、南アフリカといったテーマとともに、死刑も鵜飼の重要テーマの一つであり、本書でも「政治犯の処刑」というテーゼが打ち出される。本書奥付の次の頁に、私の『500冊の死刑――死刑廃止再入門』の広告がのっているが、同書での私の言葉で言えば、「非国民の死刑」となる。同書は500冊の本の紹介のため、詳細を説き起こしているわけではないが、「死刑」は「国民と非国民を分かつ制度」であり、「生きるに値する者と生きるに値しない者を分かつ制度」である。鵜飼は「政治犯の処刑」を視野に入れつつ、天皇制ファシズムの日本で死刑が多用されなかったのは、「転向」「思想犯保護観察」のゆえであったことに気づいている。転向を迫るファシズムの風土はいまなお健在なのだから。



本書には1980年代後半に書かれた文章も収められている。当時から現在まで、フランスで、あるいは世界的に、テロルは目の前の現実であり、思想の課題であり、運動のバネであった。このことが見えていたのは、鵜飼と、ごく僅かの思想家だけだろう。「生きてやつらにやりかえせ」という2016年の講演は、テロルに立ち向かい、テロルを飲み込み、テロルをわがものとし、テロルをつぶさに分析する鵜飼の革命的離れ業を鮮やかに見せてくれる。



宙空を彷徨う思想ではなく、足下の運動論的課題を引き受けた思想の可能性を信じる読者にとって、もっとも学ぶべき参照軸を提供してくれる鵜飼の最新刊である。

と思ったら、なんと続編が予告されている。『まつろわぬ者たちの祭り――日本型祝賀資本主義批判』は3月刊だという。