Thursday, January 31, 2019

ヘイト・スピーチ研究文献(123)内容規制と予防規制


斉藤拓実「日本におけるヘイトスピーチ――法的対応とこれからの課題」憲法理論研究会編『岐路に立つ立憲主義』(敬文堂、2018年)


斉藤は「どのように規制すべきか」という点に焦点を当てて、第1に定義について、「規制しようという実際上の対応に、規制のもつ特徴を求め」、第2に「刑事規制以外の手段を中心的な対象」とする。「刑事規制を敢えて迂回した手段のうちに、規制の諸特徴を読み取ることができる」という。

斉藤は、京都朝鮮学校事件を素材に民事救済を論じて、「ヘイトスピーチに対する民事救済の背後に制裁的・予防的規制への期待がある」という。

次に行政による対応として大阪市条例と川崎市ガイドラインを見て、「地方自治体によるヘイトスピーチをめぐる一連の動きの中に伺うことのできるのは、ヘイトスピーチ規制が内容規制であるとともに予防規制となるということである」とまとめる。

さらにインターネット規制について、アメリカ法を検討しつつ、規制内容の決定要因を探る。

斉藤は結論として次のように述べる。

「以上みてきた通り、ヘイトスピーチ規制は本質的に内容規制、予防規制であることを志向する。そのような性格を、近年の日本におけるヘイトスピーチへの対応の展開、裁判所による民事救済や、地方公共団体による条例の新設・運用の中に読み取ってきた。」(207頁)

「意見交換のための場としては、サイバースペース、とりわけソーシャル・メディアの存在感が増している。しかしその設置・管理主体が私人であることにより、憲法上の要請がバイパスされるという構造的問題を孕んでいる。それゆえヘイトスピーチと表現の自由の確保についての実質的な検討を行っていくことが、ここでより先鋭に問われることになる。」(207頁)。

斉藤には、論文「『自由』と『尊厳』の狭間のHate Speech規制」『中央大学大学院研究年報法学研究科篇』45号(2016年)があるという。


第1に、事後救済である京都朝鮮学校事件・民事訴訟判決について、斉藤は「ヘイトスピーチに対する民事救済の背後に制裁的・予防的規制への期待がある」と断定するが、その理由がよくわからない。「背後に期待がある」というのは、ほとんど論証の外にある話にすぎないだろう。

また、斉藤は「以上みてきた通り、ヘイトスピーチ規制は本質的に内容規制、予防規制であることを志向する」と言うが、「志向する」という表現はかなり多義的ではないだろうか。「規制は志向する」という言葉は何を意味しているのか。「背後に期待がある」ことと「本質的に志向する」ことが同義とされているのはなぜか。

第2に、斉藤が「地方自治体によるヘイトスピーチをめぐる一連の動きの中に伺うことのできるのは、ヘイトスピーチ規制が内容規制であるとともに予防規制となるということである」と指摘するのは、なるほどその通りだが、「内容規制」「予防規制」とは何かを斉藤は示していない。「内容規制」については、従来の憲法学説が「内容価値中立論」を唱えてきたことを大前提として、内容規制は許されないのではないかという趣旨であろう。

しかし、「内容価値中立論」が日本国憲法に内在した理論だという論証がなされたことがあるだろうか。むしろ、日本国憲法の立場と相容れないのではないか。同業者組合がつくりだしたサブ・ルールを日本国憲法よりも上位に置く議論になっていないだろうか。この点は私にとっても今後の検討課題である。

第3に、「予防規制」について、斉藤は「ヘイトスピーチ規制が予防規制となるということである」とするが、いささか単純化しすぎではないか。私は川崎事件について事前規制ではないと主張してきた(その論文を『ヘイト・スピーチ法研究原論』第5章に収録した)。私とは立論が異なるが、上田健介は「反復的に行われた言動の将来に向けての差し止めがそもそも事前抑制にあたるのかも検討する必要がある」としている。山邨俊英の『広島法学』所収論文もこの点の検討をしている。斉藤はこの点をどう見るのだろうか。