Thursday, July 14, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(203)平和学とヘイト・スピーチ05

佐藤潤一「ヘイトスピーチ規制の現状と課題」佐藤『法的視点からの平和学』(晃洋書房、2022年)

ヘイト・スピーチを犯罪とする欧州諸国の多くは、社会的法益に対する罪として理解している。ヘイト・スピーチは、差別と暴力の威嚇や名誉毀損・侮辱であると同時に、差別と暴力の煽動(「みんなで差別しよう」という呼びかけ)である。つまり、単に個人的法益に対する罪ではなく、社会的法益に対する罪である。

このことは、犯罪成立要件にもかかわる。

というのも、個人的法益に対する罪は、通常、結果犯である。殺人罪は人が死ぬという結果が発生してはじめて成立する。実行行為の攻撃があっても人が死ななければ、殺人未遂罪になる。

これに対して、社会的法益に対する罪は、結果の発生ではなく、危険の発生にポイントがあることが多い。放火罪は、他人の住居・建造物を故意に燃やすことだ。人の財産、生命、身体を燃やし、毀損してしまう。ただ、人の財産、生命、身体は放火罪の「客体」であって「保護法益」とはされていない。放火罪の保護法益は「公共の安全」とされている。人の財産や生命という個人的法益とはされず、不特定又は多数の財産、生命にかかわるため、公共危険犯とされている。

例えば、殺人者がAB2人を殺せば、2つの殺人罪が成立する。ABの生命はそれぞれ独立に保護されるからだ。

ところが、放火犯が1つの放火でCの家とDの家を燃やした場合、(現住)建造物放火罪は1つしか成立しない。社会的な、公共の安全を侵害したからである。

ヘイト・スピーチの場合も同じことが言える。

京都朝鮮学校事件の刑事裁判では、個人的法益の侮辱罪が認定された。これは学校法人朝鮮学園を被害者としたからである。もし隣にもう1つ別の学校法人朝鮮学園があれば、侮辱罪が2つ成立するだろう。

ヘイト・スピーチを認定する場合は、2つの学校法人朝鮮学園があっても、1つのヘイト・スピーチになるだろう。ヘイト・スピーチによって朝鮮人に対する差別と暴力を公衆に呼びかけ、煽動することで、民主主義や人間の尊厳、又は社会参加を妨げたからである。

朝鮮人の集住地域に押しかけて差別と暴力の煽動を行った場合、個人的法益であれば、名前を特定された被害者の権利・利益が侵害されたと見ることになる。2人の被害者がいれば、2つの侮辱罪となる。名前が特定されなければ、名誉毀損も侮辱も成立しないとされる。

ヘイト・スピーチと認定する場合は、名前を特定されなくても、そこが朝鮮人の集住地区であることから、民主主義や人間の尊厳が侵害されたと見て、1つのヘイト・スピーチが成立する。

このように、ある犯罪を個人的法益と見るか社会的法益と見るかは、本質にかかわると同時に犯罪成立要件にも関わる重大な問題である。だから刑法学では、法益の把握が極めて重大問題となる。

何度も引用した通り、佐藤は「集団に対する名誉棄損あるいは侮辱を個人的法益の侵害があるとみなし得る場合に限って処罰対象とするのであれば、必要最小限度の公共の福祉に基づく規制と解されるのではないかと主張したい」という(114頁)。

つまり、佐藤はヘイト・スピーチを個人的法益に引き付けて理解し、社会的法益に対する罪としてのヘイト・スピーチを不処罰とする。

1に、佐藤の議論は犯罪の本質を理解しない議論となっている。犯罪をその本質に即して処罰するのではなく、別の犯罪類型に当てはめて処理しようとするのだろうか。

2に、個人的法益として理解し、侮辱罪に引き付けて考えるのであれば、最初から侮辱罪で立件すれば良い。ヘイト・スピーチ法を制定する必要はないはずだ。佐藤の主張は限りなく現状維持に近い。

ただ、私の見解は、これに尽きない。私自身は、ヘイト・スピーチは社会的法益と個人的法益の双方を保護法益とすると理解できるのではないかと思案中である。

京都朝鮮学校襲撃事件の時に、私は次のような議論をした。

――本件の被害者は、事件発生時に教室で泣いていた児童生徒たち、学校教師たち、連絡を受けて駆け付けた保護者たち(ハルモ二、アボジたち)だけではない。同校卒業生、元教員、元保護者たち、京都だけでなく全国の朝鮮学校の生徒・教師・関係者、そして在日朝鮮人全体である。さらには朝鮮半島の、つまりソウルやピョンヤンの朝鮮人も被害者となりうる。

現場で直接罵声を浴びせられた人々の権利・利益が蹂躙されたのと、社会的法益が侵害されたのと、両方を考える必要がある。その意味でヘイト・スピーチの保護法益は、社会的法益を基本としつつも、個人的法益も複合的に又は重畳的に保護されると見るべきではないのか。当時も今もこのように考えている。

このように考えると、個人的保護法益に着目する佐藤の見解に一理あることも、否定できない。これはいまだに私自身の課題である。