Thursday, June 29, 2023

ヘイト・スピーチ研究文献(223)権力の濫用?(b)

榎透「権力の濫用――ヘイト・スピーチ規制を考える前に」『専修法学論集』144(2022)

前回紹介した通り、榎は次の5つのテーマについて、公権力による法の恣意的解釈や濫用の事例を検討した。

Ⅰ 警察の権力濫用

Ⅱ 公の施設等をめぐる地方自治体の権力濫用

Ⅲ 法の恣意的利用

Ⅳ 解釈変更の追求

Ⅴ 条文の無視ないし軽視?

そのうえで、榎は「むすびにかえて」において、「公権力の濫用は、現在の日本でも実際に起こっていると考えられる」とし、「公権力の行使者は、具体的案件を解決するうえで必要であると考えるならば、それが有権解釈者の恣意性を疑われるものであるとしても、憲法や法令の解釈変更の可能性を追求する」(49頁)と言う。

最後に榎は結論を提示する。

「規制のための法令が注意深く作られるべきであることは言うまでもないが、仮にそれを注意深く作ったとしても、その行使に当たり恣意や濫用の危険は常につきまとうものである。ヘイト・スピーチ規制に飛びつく前に、こうした権力の性格を十分に理解しておくことも必要ではないだろうか。」50頁)

以上が榎論文の紹介である。

前回述べた通り、Ⅰ~Ⅴまでで検討している事例については、榎の指摘に全面的に賛同できる。しかし、私は榎論文に賛同できない。以下、その理由を示す。

1 権力の濫用の抑制のために

榎が指摘する通り、公権力が恣意や濫用に陥ることは、時代を問わず地域・国を問わず、起きてきたことであり、現在も起きている。現在の日本においても起きている。

榎はそのことを「ヘイト・スピーチ規制に飛びつく前に、こうした権力の性格を十分に理解しておくことも必要ではないだろうか。」という一文につなげて、論文を終えている。

これは極めて奇妙な話である。

公権力が恣意や濫用に陥ることは、権力に共通の現象である。だからこそ、近現代国家は憲法を制定し、権力の憲法的統制を図ってきたのだ。主権の構成も、民主主義の位置づけも、権力分立のシステムも、すべて行政権力による恣意や濫用を防遏するために編み出された近代の知恵である。

榎がこれらに一切言及しないのは実に奇妙である。憲法学者としてこれらを熟知しているがゆえに、省略したのかもしれない。

しかし、立憲主義や権力分立の問題を取り上げて、「ヘイト・スピーチ規制に飛びつく前に、こうした権力の性格を十分に理解しておくことも必要ではないだろうか。」とまとめることは理解の外と言うしかない。

1に、とりわけ、集団的自衛権をめぐる解釈変更や、臨時会の招集要求の無視問題は、立憲主義そのものにかかわる問題である。これがなぜヘイト・スピーチ規制問題につながるのだろうか。

2に、検察官の定年延長をめぐる解釈変更は法治主義の問題であり、本来なら司法的統制で解決するべき問題である。日本の現実は、まともな司法的統制が及んでいないため、問題が解決されていないが、それでも憲法学やジャーナリズムや市民運動は法の適正な運用を求めて様々の努力を積み重ねてきた。

以上の2つは、ヘイト・スピーチの刑事規制問題とはあまりにも遠く隔たったテーマであり、なぜ、このような文脈で取り上げられているのか理解しがたい。

3に、選挙のための街頭演説の聴衆の「実力排除」や、金沢護憲集会や「鎌倉ピースパレード」庁舎前庭使用不許可事件、国旗掲揚・国歌斉唱要請問題は、表現の自由、思想の自由に直接かかわるので、榎がこれらを取り上げることは理解できる。しかし、これらの事件において法解釈が恣意や濫用に陥り、疑念があるという事実が、なぜヘイト・スピーチ規制問題に直結するのかは、容易に理解しがたい(詳しくは後に再度論じる)。

ヘイト・スピーチの規制そのものが表現の自由と関連し、表現の自由を委縮させる恐れがあるという論点は従来盛んに議論されてきた。今回、榎はこの論点ではなく、「権力の濫用一般」の問題を論じている。刑事規制に伴う刑罰権の濫用問題ではなく、憲法解釈の恣意性を含んだ法一般の濫用問題を論じている。ここに本論文の新規性があるが、説得力に欠けるのではないだろうか。

4に、榎が示す通り、権力の濫用は様々な分野で起きる。法令による規制を行う局面であれば、どこでも濫用が起きうる。それでは、榎はあらゆる法令による規制を否定するだろうか。榎は憲法9条と平和主義が権力の濫用の対象となるから、憲法9条による統制をやめようと言うだろうか。警察法が濫用されるから警察法による規制をやめようと唱えるだろうか。検察官の定年制が濫用されるから定年規制をやめようと主張するだろうか。榎がそのような主張をすることはないはずだ。榎は、なぜ、ヘイト・スピーチの規制だけ否定するのだろうか。ここに榎理論の最大のユニークさがある。

これまで憲法と憲法学は、権力の濫用があるから、濫用を防止するためのシステムを用意し、学問的検証、市民的監視を図ってきた。

このことに言及せずに、濫用があるからという理由で「ヘイト・スピーチ規制に飛びつく前に、こうした権力の性格を十分に理解しておくことも必要ではないだろうか。」と結論付けるのは、憲法ニヒリズムではないだろうか。

そうではないのなら、榎は、権力の濫用問題とヘイト・スピーチの規制問題の間を、もっとていねいに、理論的に埋める必要があるだろう。