榎透「権力の濫用――ヘイト・スピーチ規制を考える前に」『専修法学論集』144号(2022年)
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榎は表現の自由を研究する憲法研究者であり、これまでにもヘイト・スピーチに関する論文を公表してきた。ヘイト・スピーチの刑事規制に消極的な論者の代表的な一人である。奈須祐治『ヘイト・スピーチ法の比較研究』(信山社)は「規制消極説」として松井茂記、横田耕一らとともに榎をあげている。
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私は榎の論文に批判的なコメントをした。これに対して、榎が応答した。その応答論文について、私は下記のように批判した。
https://maeda-akira.blogspot.com/2021/04/a.html
https://maeda-akira.blogspot.com/2021/04/b.html
https://maeda-akira.blogspot.com/2021/04/blog-post_14.html
https://maeda-akira.blogspot.com/2021/04/blog-post_16.html
この文章を大幅に手直しして、私の『ヘイト・スピーチ法研究要綱』109~123頁に収録した。つまり、私はこれまで2度にわたって榎を批判した。
今回の榎論文は私に言及していない。それにもかかわらず、3度目のコメントをするのは、いささか執拗と思われる恐れがないではない。
ただ、今回の榎論文は、これまでとは全く違ったテーマ、視点であり、ヘイト・スピーチ規制の前に考えるべきことを提示している。
本論文は、憲法学においてもそれ以外の法学においても、おそらく前例のない新機軸である。その点は後に述べる。
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<目次>
はじめに
Ⅱ 公の施設等をめぐる地方自治体の権力濫用
Ⅲ 法の恣意的利用
Ⅳ 解釈変更の追求
むすびにかえて
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「はじめに」において、榎は、「当然のことながら、公権力がそれを濫用したり恣意的に行使したりすることは許されない」と始める(榎論文15頁)。
他方、近年、ヘイト・スピーチ規制論が唱えられている。これに対して、榎は「公権力の濫用は、現在の日本でも実際に起こっていると考えられる」とし、それらの「事例を挙げることで、規制のための法令を注意深く作ったとしても、その行使に当たり恣意や濫用の危険性がつきまとうことを示したい」(16~17頁)という。
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「Ⅰ 警察の権力濫用」において、榎は、警察の「権限が不当に行使されれば、その行使の対象者に与える負の影響は大きい」という。憲法や警察法の規定にもかかわらず、権限濫用の事例が今日でも続いているとして、次の事例を取り上げる。
①
北海道警察による選挙のための街頭演説の聴衆の「実力排除」
②
北海道警察による選挙のための街頭演説会場でのプラカードの制止
③
滋賀県警察による選挙のための街頭演説会場でのヤジの制止
④
埼玉県警察による選挙のための街頭演説会場でのプラカードおよびヤジの制止
⑤
反原発デモ・脱原発デモをめぐる警察の対応
⑥
反天皇制デモをめぐる警察の対応
以上の事例の考察を踏まえて、榎は次のようにまとめる。
「警察の行為は、法律上の根拠に基づき、中立の立場から行われるべきであることは言うまでもない。しかし、以上の①~⑥の事件では、警察の行為はその中立性が疑われるものであり、その中には法的根拠が必ずしも明確でないものも多い。警察の行為を規律する適切な法が存在している場合でも、警察が権力を恣意的に行使する事態は存在し、それは憲法で保障された国民の人権を不当に制限するのである。」(30頁)
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「Ⅱ 公の施設等をめぐる地方自治体の権力濫用」で、榎は次の事例を取り上げる。
①
金沢護憲集会
②
「鎌倉ピースパレード」庁舎前庭使用不許可事件
③
表現の不自由展かんさい+「あいちトリエンナーレ2019」
「行政が国民・住民に対して今日教施設を利用させることは、法令上の根拠に基づき、中立の立場から行われるべきであることは言うまでもない。しかし、以上の①~③の事件では、公の施設等に関する適切な法例が存在している場合でも、公権力によるその適用が恣意的であると考えられ、その中立性が強く疑われる。これでは、憲法が国民に保証する言論の自由や集会の自由を、公権力が恣意的に制限することになる。」(39頁)
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「Ⅲ 法の恣意的利用」で、榎は次の事例を取り上げる。
①
国旗国歌法による国旗掲揚・国歌斉唱要請問題
榎は、国旗国歌法は国民に国旗・国歌を強制するものではないのに、法制定後、政府が事実上の強制を続けていることを確認する。「国旗・国歌法は、政府にその文言や制定時の説明を超えて利用されている。」(41頁)
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「Ⅳ 解釈変更の追求」で、榎は次の事例を取り上げる。
①
検察官の定年延長をめぐる解釈変更
②
集団的自衛権をめぐる解釈変更
以上の事例の考察を踏まえて、榎は次のようにまとめる。
「以上①②の事案を通して言えることは、公権力の行使者は、具体的案件を解決するうえで必要であると考えるならば、それが有権解釈者の恣意性を疑われるものであるとしても、憲法や法令の解釈変更の可能性を追求する危険がある、ということである。法の中に適切な条文を設けていても、権力者はその解釈を変更し、事故にとって都合の良い結果を得たいという欲望を満たそうとする。しかし、文の解釈が変更されることによって、もともとその条文の中にあったであろう内容の適切さが失われることも、あるのではないだろうか。」(47頁)
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「Ⅴ 条文の無視ないし軽視?」で、榎は次の事例を取り上げる。
①
憲法53条後段に基づく臨時会の招集要求の、安倍内閣及び菅内閣による無視。
以上の事例の考察を踏まえて、榎は次のようにまとめる。
「このように考えると、憲法53条後段に基づく臨時会の招集の要求に対する安倍内閣・菅内閣の対応は、憲法53条後段を無視あるいは軽視するものであるか、あるいは、法的義務と理解すべき条文を政治的義務と理解する妥当でない解釈に基づくものということになろう。」(49頁)
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以上、榎論文の本論をごく簡潔に紹介した。最後に「むすびにかえて」があるが、それの内容は次回紹介する。ここでは、上記で紹介した範囲(榎論文15頁から49頁13行目まで)についてコメントしておこう。
Ⅰ~Ⅴまでで、検討している事例については、榎の指摘に全面的に賛同できる。
北海道警察による選挙のための街頭演説の聴衆の「実力排除」は、安倍晋三の選挙演説に関連する事案で、排除された市民が国家賠償請求訴訟を提起し、つい最近、二審でも勝訴している。
金沢護憲集会や「鎌倉ピースパレード」庁舎前庭使用不許可事件における行政の恣意性も明らかである。
国旗掲揚・国歌斉唱要請問題も、検察官の定年延長をめぐる解釈変更も、集団的自衛権をめぐる解釈変更も、臨時会の招集要求の無視問題も、榎が指摘する通り、公権力による法の無視、軽視、歪曲の疑いが強く、権力の濫用ではないかと考えられる。榎の論述はまっとうであり、随所で頷きながら読むことが出来る。
しかし、私は榎論文に賛同できない。その点は次回、言及する。