Monday, March 01, 2010

グランサコネ通信2010-08

2月24日・25日のCERDにおける日本政府報告書審査の一部は、日本でも報道されました。3月10日前後にはCERDの日本政府に対する勧告が出るはずです。

1)怒りの記者会見

25日のCERD審査終了時、人種差別撤廃NGOネットワークは在ジュネーヴ記者に記者会見を行いました。朝日、毎日、共同、時事など。すでにご紹介した審査の様子だけではわかりにくいかもしれませんが、日本政府代表、特に上田大使の発言を聞きながら、机をたたきたい、怒鳴りたい、卵投げたい、という思いがふつふつとわきあがっていたのが事実です。私は日本民族・日本国籍・男・とりあえず健康・高学歴・正社員ですが、その私でも、上田大使の無責任発言にはわなわなと震えていました。許せません。みな我慢して最後まで静かに聞いていたのですが、記者会見では、次々と日本政府批判が出ました。一つひとつ批判しているときりがないのですが、まずアイヌについては、先住民族と認めたことばかり強調しているが、その後の進展は見られない、作業部会などといっても記念公園と、生活実態調査だけに絞られていて、他のことは議題にもならない。UN権利宣言とは、まったくかけ離れている。非常に不満である。朝鮮学校の件は、日本政府は事実を知ろうともしない、問合せも調査もせずに、勝手に決め付けて差別している。嫌がらせについても、人権擁護局が調査などというが、実際は20年間まともな調査をしたことがない。部落については、上田大使の発言はとんでもない、1965年に逆戻りだ。志野課長がフォローしていたが、あの程度の認識だ。沖縄については、まったく許せない。学問的にはわからないと言いながら、結論だけは勝手に決め付けている。沖縄語は日本語の変形だなどとなぜいえるのか。ずっと沖縄の声に耳を傾けようとしないではないか。委員が協議しろと何度も言ったのに、それには答えなかった。移住者については、石原都知事のような差別発言問題に十分な配慮がない、など。

日本政府の答弁は、準備していた部分については原稿を読み上げているので、「腹が立っても、立場の相違、見解の相違」として理解できます。しかし、上田大使が自分の言葉で話した部分に、差別問題についての彼の認識、というより、まったくの無理解が顕在化しています。例えば、「部落民は私たちだ」。これは、「部落民は日本人であり、人種差別の問題ではない」と何度も繰り返したことに対して、CERD委員から何度も世系の解釈が間違っていると指摘されたあげくに、上田大使の口から飛び出した言葉です。この文脈で、「部落民は日本人であり、何の違いもない、部落民は私たちだ。同じだ」とだけ言うことは、「差別はない」といっているに等しいのです。「同じだから差別はない」というのは、「差異があるから差別がある」という固定観念に由来します。しかし、差別は、差異があるから生じるだけではありません。同じだから、あるいは同じことを強制するから、差別が生まれることもあるのです。「沖縄語は日本語の変形だ」にも呆れました。お前、聞いたことあるのかよ、です。「日本語は沖縄語の変形だ」とは絶対に言いません。この一点だけでも不当です。「わからない」と言ったすぐあとに「同じだ」と決め付ける無責任さ。そして、もっとひどかったのが、この期に及んで「先住民族の定義はない」と言い出したことです。めちゃくちゃです。日本政府は2001年のCERDで「先住民族の定義が決まっていないから、アイヌが先住民族か否か判断できない」と唱えて、強く批判されました。ILO条約やボゴ報告書を無視しています。2007年にUN先住民族権利宣言が採択されました。2008年、国会決議によりアイヌを先住民族と認めることになりました。であれば、何らかの定義を採用したはずです。にもかかわらず、今になって「定義はない」というのです。だったら、「アイヌを先住民族と判断できない」はずです。これほどいい加減な発言をする人物が「人権人道大使」なのです。いまさら驚くことではありません。こういうデタラメ人間が、権力をふるい、税金を掠め取ってきたのが、日本の歴史です。なんとも日本の先は暗い。主流日本人にとって暗いのならまだしも、差別される少数者にとっては深刻な話です。

それから、どうでもいいことですが、上田大使と志野課長は、「世系」を「せけい」と読んでいます。1995年に人種差別撤廃条約を批准した際に、日本政府は突如として「世系」という奇妙な訳語を持ち出しました。「門地」と訳すと部落が対象になるので、世系を持ち出してこれは部落とは関係ないと言うためでした。その時は、私の記憶では、外務官僚は「せいけい」と言っていました。2001年のCERD審議の時も「せいけい」だったはずです。いつのまにか「せけい」に変わったようです。引継ぎがなされていないのかも。官僚として、いかがなものか。(読み方は、どちらでも構いませんが。)

(こんなことばかり書いているので、揚げ足取りの好きなやつだ、と思われてしまいます。とはいえ、揚げ足取りは、議論の出発点でもあります。それに、向こうは権力をもって、18名の代表団が国民の税金を湯水のごとくふんだんに使って、やっているのです。せめて揚げ足取りでもするしかありません。)

25日夜、人種差別NGOネットワークは、小さなスペイン料理店で慰労会・打ち上げを行いました。その日のうちに1名がロンドンに帰り、26日には5人が成田または関西空港に向けて飛び立ちました。ごく短期間ですが、素敵な仲間と一緒に活動できたことは、私の勲章です。

26日は「通信06」と「07」に専念。

魔女の塔のあるSIONのLes Murettes, Robert Gilliard S. A.  チューリヒの2009国際ワイン博でGold Diplom。なんといってもValaisを代表。ぐっと低価格ですっきり。

2)世界遺産の屋根裏

快晴の週末はベルンでした。いつものようにパウル・クレー・センター(もう10回目くらいか)と、市内の「クレーへの道」散策です。センターでは、常設展の会場に、新規で「クレーの生涯」に関する展示--クレーが使った絵筆、パレットとか、クレーがチュニジアから出した絵葉書など、クレー家に残されていたゆかりの品々。今回の一番の目標は、クレーの指人形です。去年春に出版した『人道に対する罪』の冒頭で、クレーの「振り向く天使」について書きました。これは、第1に、ベンヤミンの「歴史の天使」の一面性を指摘すること。第2に、半世紀過ぎても、いつまでもベンヤミンの言葉を繰り返しているだけの日本の議論を批判すること。言い換えると、日本の戦争と植民地支配の歴史を考える時に、ベンヤミンを持ち出しても、不十分であること。第3に、クレー自身の世界の多様性を見ること。第4に、これがメインですが、クレーの世界を乗り越えるための手がかりをクレー自身からもらうこと。チュニジアでのクレーの開眼。バウハウスの移転の歴史。ハンスからフェリックスまでの歴史。私は、ここにこだわり続けています。そのためにベルンの歴史も再検証したいものです。だからベルンを歩き回ってきました。こういうのって、まさに「非-学問」というか、場合によっては「反-学問-的」ですが、これが私の流儀です。私はこれを続けるしか、ない。とはいえ、今回はあまり収穫はありませんでした。また、次回。「クレーへの道」も3度目になります。寒いので全部は歩けません。なにしろ全部歩くと6~7時間か。今回は4分の1くらい。たまたまネットで予約して泊まったホテルが、クレーの叔父さんのカフェだったお店(いまは違う店になっている)の隣でした。ラッキー。屋根裏部屋です。見晴らしがいいかと思ったら内庭側なので全然。でも、世界遺産の屋根裏と気づくと、妙に気分がよくなりました。屋根裏というと、狭い、暗い、汚い印象。あるいは、怪人とか。乱歩がベルンに来たら、と考えるとワクワク。でも、世界遺産の屋根裏はいたって快適でご機嫌。次回もここに泊まろう。

SiciliaのSole Bello, Nero D'avola, Sensi.2008. 太陽が一杯だあああっ! というワイン。いいけど、ちょっと荒い。(某映画とは関係ありません。) 

3)車中の読書

ベルンへの往復の車中。

屋良朝博『砂上の同盟--米軍再編が明かすウソ』(沖縄タイムス社、2009年)--タイムス社の論説委員による新書です。ハワイ、グアム、沖縄で米軍関係者に取材した内容。基地はなぜ沖縄に集中するのか。沖縄が地政学的に最適だというウソを次々と暴いています。海兵隊の思考や、米軍の将来戦略もわかって非常にタメになる本です。1月に那覇の書店に積んであったのを買ったのですが、本土でもぜひ売れて欲しいものです。

香山リカ『しがみつかない生き方--「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール』(幻冬舎新書、2009年)--「カツマーvs.カヤマー論争で話題のベストセラー」「2009年年間第1位!」だそうです。知りませんでした。この著者の本は10年以上前に1冊読みましたが、私とまったく関係ないことが分かったので、その後は読んでいません。今回はまとめ買いした中に入っていました。一方のカツマー(勝間)さんのほうも読んだことがありません。大々的な広告はよく見かけますが。論争の中味や詳しいことは知りませんが、私は「カヤマー派」のようです。本書の結論は「ふつうにがんばって、しがみつかずにこだわらずに自分のペースで生きていけば、誰でもそれなりに幸せを感じながら人生を送れる。それで十分、というよりそれ以外の何が必要であろうか」です。賛成です。もっとも、この結論を引き出すために、本書の中で何度も何度も「25年間、精神科医として、診察室で・・・」と繰り返している意味がわかりません。臨床実務を続けていることを強調したいのでしょうが、内容・結論と精神医学の間に何かの関係があるとは思えません。学問ですよ、ってどうしても言いたいのかな。他方のカツマーさんは、学問です、って言ってるのでしょうか。多分、違うはず。ともあれ、私は30年以上前から同じ結論に達していました。お金に嫌われて、しがみつく暇もなかったし(笑)。

富澤一誠『あの素晴らしい曲をもう一度--フォークからJポップまで』(新潮新書、2010年)--40年活躍してきた音楽評論家による、日本ポップス50年史です。60年代の「フォークが日本を揺さぶった」(関西フォーク、フォークル、岡林・・)、70年代の「ニューミュージックの黄金時代」(拓郎、陽水、ユーミン、矢沢、千春)、80年代の「歌謡曲の逆転勝ちとビートの浮上」(テクノ、ニューウエイブ、佐野元春・・)、90年代のJポップスの「メガヒット方程式の確立」(ドリカム、小室、宇多田・・)、2000年代の「音楽界の迷走」、と10年ごとに分けての記述で、わかりやすい本です。私は、フォークとJポップスは切れていると思っていました。副題から、本書では同じ流れに位置づけていると思ったので、本当かと思ったら、繋がっている面と断絶している面があるという理解のようです。読み捨てるための1冊でしたが、私の次に予定している本と関係があるので、捨てずに日本に持ち帰ることにしました。